第3話

 フロントで滑り込みの手続きを済ませた後、俺は対応してくれた女性の案内で部屋に通されることになった。

 「では、ご案内いたしますので、私についてきていただけますか?」

 「よろしくお願いします。」

 彼女の後ろについて歩き出す。敷き詰められた絨毯が二人分の靴音を吸い込み、くぐもった音を立てた。

 女性はロビーの片隅にあった取っ手の無いドアの前まで行くと、その脇にあったボタンを押した。壁の色と同化していて、彼女がその動作をするまで俺は目の前のドアがエレベーターだったのだと気が付かなかった。すぐにチン、とベルが鳴って、その扉は左に開いた。

 中に入り、扉の上のランプを見上げた。どうやらこのホテルは5階建てらしい。

 「今夜はお仕事か何かですか?」

 エレベーターの扉が閉じた後、女性がそう言った。俺は適当に相槌を打つことにした。職業柄外回りが多くなって様々な場面で喋り慣れてきたとはいえ、どうもこの手の会話は苦手だった。

 「ええ、まぁ……出張だったんですが。こんな目に遭うとは思いもしませんでしたよ。」

 「あはは……それは大変でしたね。」

 彼女が無難にそう応える。ちょうどそのタイミングで、エレベーターが3階についた。ローマ数字の「Ⅲ」にランプが点灯して、扉が開く。

 降りた瞬間目の前の壁にかかっていたものに、俺は目を丸くした。大きな鏡のようなデザインの額縁に飾られていたのは、触れればその中に入っていけそうなほど美しい夜の浜辺を描いた絵だった。紺色の夜空、同色の海が画面のほとんどを形成する中、わずかに黄色がかった満月と白い波が際立っている。

 「すごい……大きくてきれいな絵ですね。」

 俺が言うと、女性はにっこりと屈託のない笑顔を見せた。

 「ふふ、うちの支配人の趣味なんです。各階に連作が飾られているんですよ。」

 「へえ……。」

 俺は女性の説明を聞きながら、改めて絵を見上げた。きっと、このホテルの支配人はセンスがいいか、絵を嗜む人なのだろう。それに、こんな大きな絵の連作を各階に飾っているのだからそれなりに財力がないとできない業であることは間違いない。

 そこまで考えて、俺は自分の思考にうんざりした。日々業績にあくせくしていると、こういうときに無粋なことを考えてしまっていけない。

 「お客さま……?大丈夫ですか?」

 しかめっ面をしていたからだろうか。女性が少し心配そうな表情でこちらを見上げてくる。俺は慌てて首を横に振った。

 「あ、すみません……大丈夫です。」

 「そうですか……?どこか具合が悪くなりましたら、いつでもお申し付けくださいね。」

 「ありがとうございます。」

 女性はその言葉にまた笑顔を浮かべると、こちらになります、と俺の先に立って再び歩き出した。その拍子に、クラシカルな雰囲気の制服のスカートがふわりと揺れた。

 もう夜も遅いからだろうか。廊下はとても静かだった。壁の両脇には等間隔で灯りが灯っており、絨毯の色が紺色になったのと相まって落ち着いた雰囲気をより際立たせていた。……時折壁にかかった鹿の頭のはく製にはさすがに驚いたが。訊いてみると、これも支配人の趣味なのだそうだ。

 (ヨーロッパにあこがれでもあるのか……?)

 俺は内心で呟いた。中世ヨーロッパの領主の館がもしあったら、きっとこんな感じだったのかもしれない。

 そんなことを思いながら歩いていると、女性がある部屋の前で足を止めた。金メッキが施されたプレートに黒い斜体で「302」と印字されたそのドアは、味のある飴色をしていた。

 「こちらになります!」

 彼女はにこやかに言うと、ドアノブに手をかけて押し開けた。俺は礼を言っておそるおそる中に足を踏み入れる。そして、その内装に感嘆の声を漏らしてしまった。

 「うわぁ……すご……!」

 見るからに寝心地のよさそうなベッド。一人掛けのソファとテーブルは対になっているようで、濃紺色の革張りがされたソファに合わせてテーブルクロスも同色のものに統一されていた。テーブルの上には凝った装飾の花瓶が置かれていて、名前もわからない白い花が何輪か挿されていた。壁には仕掛け時計と思われる年季の入った時計がひとつかかっていて、かちこちと控えめな音で時を刻んでいた。

 正直、こんな形で泊まらせてもらうには忍びないくらいいい部屋だった。

 フロントの女性が少し微笑んで声をこうかけてくるまで、俺はしばし呆気にとられて沈黙してしまった。

 「ふふ、お気に召していただけましたか?」

 「え、えっと……すごいところに泊まりに来ちゃったなって思ってたところです。」

 「あはは、初めていらっしゃる方は皆さま同じことを仰いますよ。」

 そこで、女性は思い出したように俺を見上げた。

 「あ、お客さま。ご夕食はいかがなさいますか?」

 「あ……でも、さすがにもう夜も遅いですし―――」

 食堂も開いていないだろうから、と続けようとした俺を制したのは、ぐるぐると最悪のタイミングで鳴ってくれた俺の腹の虫だった。双方しばし沈黙すると、ダメ押しでもう一回腹の虫が鳴く。耐えられなかったのか、女性は声こそ上げなかったが肩を震わせて爆笑した。ちくしょう、恥ずかしい。

 ひとしきり笑った後、彼女はひとつ息をついて言った。

 「食堂のほうは、まだ開いておりますよ。とはいっても、サンドイッチのような軽食程度しかありませんが……。」

 「いえ、むしろありがたいくらいですよ。……それじゃあ、あとで使わせていただきます。」

 俺の答えに、彼女はにっこりと笑った。

 「食堂は1階にございますので、ご利用の際はもう一度フロントにお声掛けください。ご案内いたします!」

 「ありがとうございます。」

 俺はそこでようやく、彼女の胸元のネームプレートを見た。そこには、控えめながらも流麗な書体で「鍵宮」と書かれていた。

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