第2話

 その日はとてもひどい嵐だった。

 急にバケツをひっくり返したみたいな雨が降ってきて、見る間に風が強くなって。窓ががたがたと揺れて、少しだけ怖かった。

 「さすがに、今夜はお客さまもいらっしゃいませんね……。」

 私、鍵宮理子かぎみやりこは同じくフロントを任されている仙崎薫せんざきかおるさんにそう話題を振った。仙崎さんは書類に走らせていた万年筆をはたと止めると、エントランスに目を向けた。

 「そうだねえ……これだけ天気がひどいとね。」

 彼はとんとん、と書類をまとめると、にっこりと笑みを浮かべた。色が白くて若干の垂れ目なので、持ち前の柔らかい雰囲気がよりいっそう丸くなる。

 「まあでも、いらっしゃればお迎えするのが俺たちフロントの役目だからね。意外とこういう夜は思いがけずお客さまがいらっしゃったりするものだよ。気長に待ってみようか。」

 「了解です!」

 私はそれに元気よく応じると改めて仙崎さんの格好を眺めた。

 本当に、この人はこのホテルの制服がよく似合う。いわゆるホテルボーイの格好と言えばわかって頂けるだろうか。この少しクラシカルな雰囲気のある制服が似合う人もそうはいるまい。

 対する私はというと、ミディ丈の紺色スカートに白のブラウスというどこかクラシカルメイドのような雰囲気の制服を着ている。とてもかわいらしいので声をかけてくださるお客さまも少なくなく、従業員としてもちょっと鼻が高い。

 なんでも、このホテル──セイリオスホテルの支配人のこだわりなのだそうだ。たしかにあの支配人のセンスなら納得の一言に尽きる。

 「ん?どうかした?」

 考え事をしていたせいで、気づけば首をかしげながら仙崎さんがこちらを見ていた。

 「いえいえいえ、何でもありませんよ!!」

 私は慌てて首を横に振る。ちなみに、仙崎さんのこの力の抜ける笑顔が他の従業員の間では密かに「いつか絶対騙される顔だ」と心配されているのは公然の秘密である。

 それからしばらく、二人でぽつぽつと他愛もない話をしながら雑務をこなしていたときだった。

 不意にフロントの内線電話が鳴った。

 「はい、こちらフロントでございます。」 

 つい一瞬前まで雑談をしていたとは思えないほどよどみない動作で仙崎さんが受話器を手に取る。のほほんとした印象がある仙崎さんだが、こういうところはとても尊敬するし、見習うべきところが多い。

 「はい……はい。承知いたしました、すぐにそちらにお持ちいたします。」

 何かクレームが飛んできたのだろうか。不安な気持ちを抱えながら、私は受話器を置いた仙崎さんに声をかけた。

 「先輩、どうされたんですか?」

 すると、彼はやや苦笑気味に教えてくれた。

 「あぁ、308号室の赤城あかぎさまからだよ。間違ってルームキーを溶かしてしまったらしくてね。」

 「あ、なるほど……。」

 赤城さまは支配人の古いご友人らしいのだが、少々うっかりしているところがある。いつだったか、ホテルの食堂で銀食器シルバーを溶かしてしまってうちのシェフが卒倒したのは記憶に新しい。

 仙崎さんはフロントの背後にある棚からスペアキーを取り出すと、私を振りかえった。

 「そういうわけで、ちょっと行ってくるよ。フロント、よろしくね。」

 「任されましたー!」

 びしっと敬礼すると、仙崎さんは軽い笑い声を上げて頷きフロントを出ていった。こつこつという靴音が遠ざかって、やがて一人になると、私は目の前の雑務を消化するのに再び専念する。

 ここに宿泊されるお客さまは、普通のお客さまばかりではない。もちろん普通の人間のお客さまも多く宿泊してくださるが、4割ほどは人ならざるお客さまだ。例えば、先の赤城さまは、サラマンダーという西洋出身の精霊である。

 妖怪も精霊も幽霊も、時には魔物だって、人の身に化けて観光をしたいのだ。そして、それには自分たちの特性に理解のある宿泊処が欠かせない。

 セイリオスホテルは、そんなお客さまにも広く門戸を開いたホテルなのである。



 仙崎さんがフロントを後にして、ほどなく。

 からからと控え目にドアベルが鳴ったのを聞いて、私は顔を上げた。両開きのドアの隙間から不安そうにこちらを覗いていたのは、私とそう歳の変わらなさそうな印象を受ける男性だった。

 彼はためらいがちに中に入ってくると、おずおずとした様子でフロントまでやってきた。片手には、黒いビジネスバッグと壊れた折り畳み傘を持っている。だいぶ降られたのか、頭の上から爪先までずぶ濡れだった。

 「あの……こちらは、セイリオスホテルであっていますか…?」

 男性が口を開く。疲れた調子の声だった。私は内心でお客さまだろうと思いながら、その言葉に笑顔で頷いた。

 「はい、セイリオスホテルでございます。ご宿泊でございますか?」

 普通に言ったつもりだったのだが、何故かこのお客さまは驚きに目を丸くした。それから、半信半疑といった体で聞き返してくる。

 「え……あの、部屋、空いてるんですか……?」

 「?はい、今夜はこの雨でございますから……。」

 何でそんなことを聞くのだろうと思った次の瞬間、彼はフロントに手をついてへなへなと崩れ落ちた。私はぎょっとして、慌てて身を乗り出す。

 「ああ、よかったぁぁぁ……信じてきた甲斐があった……。」

 何やらぶつぶつ言い始めた。これはどこか身体の調子が悪いのだろうか。

 「え、えっと、お客さま!?お身体の具合でも悪くされましたか!?」

 すると、彼ははっと我に返ったようで、少し決まりが悪そうな表情を浮かべた。

 「あ、いや……すみません、今までビジネスホテルを当たっていたんですけど、全敗だったもので……今夜は野宿かなぁなんて思ってたんですよ。」

 「まあ、そうだったんですか!」

 ビジネスホテルがとれなかったのなら、大変だったろう。このお客さまがどことなく疲れた様子でやってきたのも納得だった。

 男性は雨に濡れた自身の荷物を持ち直すと、ぐるりとロビーを見渡してから笑顔を浮かべた。

 「でも、よかった。こんなに素敵なホテルがあったなんて知りませんでした。」

 私はその言葉に柄にもなく嬉しくなった。

 セイリオスホテルのロビーは、少々狭いながらも支配人ご自慢のアンティークな調度品で完璧にレイアウトされているのだ。長年使い込まれてきたとわかるテーブルやソファに、ゼンマイ式の壁掛け時計、毛足の整った絨毯……このクラシカルな制服も溶け込む空間を、素敵だと思わないお客さまのほうが珍しいというものだ。

 「ふふっ……ありがとうございます!贔屓目と思われるかもしれませんが、お部屋のほうもとっても素敵なんですよ!」

 「おぉ……それは楽しみですね。」

 私は笑みを深めると、万年筆と書類を一枚手に取った。チェックインの手続きである。

 「お客さま、お名前を伺ってもよろしいですか?」

 「榎本です。榎本実えのもとみのると言います。」

 「榎本さまですね……では、こちらがお部屋の鍵になります。ご案内いたしますね!」

 そして、私は背筋を伸ばして改めて笑顔を浮かべた。

 フロントには、支配人直々に教え込まれる唯一絶対のマニュアルがある。それが、どんなお客さまもこの一言でお迎えすることだ。



 「ようこそ、セイリオスホテルへ!」



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