森林の守り神

 からりと晴れた空の下、静かな水音が、繰り返し響き渡る。

 森に囲まれた集落の一角。あばら家の軒下で、黒髪を無造作に流した女性が、桶で布をひたすらに洗っている。ただただ響く、水の音を合図とするかのように、集落の家いえが、のろのろと動きだす。軋む戸を開けて人々が外へ出はじめて、小さな窓からすいえんがたちのぼった。

 シフは、村が動きはじめるずっと前から、あばら家の薄い壁を挟んだ先――つまりは家のなかで、農具の手入れをしていた。外から優しい声に呼ばれた少年は、ふっと顔を上げると、立ち上がる。細められた茶色の瞳は、風を受けぬ水面のように静かだった。

 農具を壁に立てかけて、古びた扉を慎重に開く。ひたすらに服を洗い続けていた母が、出てきた息子を見るなりほほ笑んだ。

「どうかした?」

 シフが歩み寄ると、母は家の裏手を指さした。

「さっき気づいたのだけれど、木材がもうすぐ切れそうなの。森まで行って、採ってきてくれないかしら」

「わかった」

 少年は、短く答えるなりきびすを返す。使い古した革手袋をはめて、手入れしたばかりの斧をかつぐと、そのまま再び家を出た。気をつけてね、という母の声を背に受けながら、シフは、村を抱く森を目指す。


 森には、守り神がいるという。古くから、村に伝わる話だ。守り神は、小さき者に恵みと試練を平等に与える。神にまつわる昔話は、シフも、物ごころついたころからずっと聴かされてきた。だからといって、頭からそれを信じているわけではないが、最低限の感謝の念は忘れないようにしている。

 木を切るときも同様だ。森に踏み言った少年は、その場で小さな祈りを捧げると、斧をかつぎなおして歩き出す。湿った下草を踏みながら、手ごろな木を目視で探した。幼い頃から父に付き添い、あるいは自分ひとりで携わってきた仕事だ。木を見分けることに、それほど苦労はしない。時折、ため息をこぼしつつも、手ごろな木の茂っている場所を見つけたシフは、斧を突き立て立ち止まった。

 さて、作業を始めるか、と肩を回していた彼はだが、途中でぴたりと腕を止める。草葉のそよぎに混じって、荒々しく草を踏み分ける靴音がした。近づく人の気配に、しかし少年は動じない。むしろ淡々と、自分から音の方へと近づいていった。

 木の枝をかきわけた先にいたのは、数人の男女だった。森を往くことを想定した格好ではあるが、衣服の素材はどれも上等である。北側、森の外からやってきた人間だろうとあたりをつけたシフは、無言で足を止めた。

 しばらくは、男女を黙って観察していた。彼らはどうも、群生している草や木の実を採りにきたらしい。最初はシフもなんとも思わなかったが、少しずつ眉を寄せ、最終的には眉間に深いしわを刻んだ。太いばかりの手や、細いだけの指が、いっさいの遠慮なく草や果実をむしり、もぎ取っていく。さすがに放置できなかった。彼は無言で踏み出した。

「あのさ」

 決して大きくはない、それでもはっきりとした声が落とされる。男女数人は、たいへん驚いた様子で振り返った。少年は、動じることなくさらに踏み出す。斧の柄を、革に覆われた指が叩いた。

「自然の恵みを摘むのは、悪いことじゃない。けど、ほどほどにしてほしいかな。俺たちだって、この森のものをいただいて生活している身なんだ」

 男女は、困惑気味に顔を見合わせた。そのうちの一人、顎にひげを蓄えた、四十代半ばの男が首をひねる。

「坊主、何モンだ?」

「しがない村人。……この先に住んでいる」

 シフは、来た道を指さした。外来者の顔に浮かぶ、困惑の色が濃くなった。彼らは顔を寄せ合うと、小声を交わした。先住民がいるなんて聞いてない、などという音が拾える。少年は、ため息をついた。

「俺たちだって祖父の代に入植してきた……って、長老が言ってた。そんなことはどうでもいいだろ。とにかくさ、そのへんにしてよ。守り神に祟られてもいいんなら、止めないけど」

 斧に手を添えたまま、淡々と、言い募る。言葉の終わりに少年は、眉を寄せた。「守り神に祟られてもいいのなら」、そんな文句を自分が使うことになろうとは、思っていなかった。北からやってきた人々の目にも、軽蔑の色がにじむ。

「守り神だってよ、くだらねえ。そんなもん、いるわけねえだろ」

 誰かが吐き捨てる。少年からは、それが誰かはわからなかった。けれど、次に踏み出してきたのは、先程のひげの男だ。その背に女が声をかける。

「おいおい、まずいんじゃないのか。その子が村とやらの大人にこのことを言いふらしてみろ。あたしら、たちまち追われる身よ」

「別に俺だって、鬼じゃない。あんたらが、ここでむちゃくちゃな採集をやめて帰ってくれれば、何もしないって」

 少年は肩をすくめる。しかし、彼の言い分は聞き入れられなかったようだ。ひげの男が、獰猛な笑みを見せた。

「大丈夫だ。要は、この坊主が村に帰らなければいいんだろ」

――沈黙が落ちる。ため息が、こぼれた。シフは静かに目を細める。いつから、北の人間は、ここまで強欲になったのだろう。街で何か大事が起きたのかもしれないが、生まれてこの方村から出たことのない少年には、事態を想像することさえ、かなわない。

 さて、どうするか。逃げるか、戦うか。少年は視線を落とす。斧を振りまわすという手はあるが、あまり使いたくない。中途半端なまねをすれば、逆上させる恐れもある。とりあえず、今一度説得してみようかと、口を開きかけた。


『騒々しい』


 声が、響く。シフも、外来者たちも、動きを止めた。誰もが思わず天をあおぎ、あたりを見回す。

『鳥のさえずり、獣の遠吠えはいくらでも受け入れるが、ひとのわめき声は、我らには大きすぎる』

 どこから聞こえているのか、わからない。森に慣れているシフも、目星すらつけられずにいた。

 シフは体を抱く。腕に鳥肌が立ち、背中にじっとりと、汗がにじんだ。

 圧倒的な存在感。その正体は、彼らのすぐそばにあった。

 木々が鳴る。風がうなる。そして、やたらと大きな羽音とともに――上空に『何か』が現れた。

 大樹の幹を思わせる巨躯。森の枝葉よりもさらに広い翼。葉の色に似た、鮮やかな爬虫類の瞳が、人間たちをへいげいしている。人びとは、言葉をなくして立ち尽くすほかになかった。度肝を抜かれ、動くことさえかなわぬ男女をよそに、シフはぽかんと『それ』を見上げる。

 威圧感と、広大な草原を思わせる優しさを同時に放つその姿は、まるで、話に聞く森の神のようだった。

「守り神、いや」

 自然と出た言葉を、シフは自分で否定した。汗ばむ手で、斧の柄を、強くにぎりしめる。

「…………竜」

 口にすれば、驚くほどあっさりと、に落ちた。名という破片をはめられた竜は、緩慢に首を動かし、シフを一瞥する。けれど、すぐに目をそらすと、外来者たちをにらんだ。

「我らは、騒音を好まぬ。ね、領域の外から来たりし人間よ」

 竜の一声は、清流ににて穏やかだ。しかし声を浴びせられた人びとは、顔をこわばらせ、青ざめて、ひたすらにうなずいた。竜は短く喉を鳴らし、翼を一度、打ちすえた。

「森を乱した件については、目をつぶろう。ただし、今回のみだ。よいな」

 外から来た男女は、また激しくうなずいて、逃げるように来た道を戻ってゆく。どこか浮き立った気持ちでそれを見送ったシフは、おそるおそる、竜を見上げた。

「あの、この森の守り神、ですよね」

「そう呼ぶ人間もいる。しかし、常ならば、我らはじゅりゅうという名だけを持つ」

「……はあ」

 回りくどい物言いに、少年はやや、ひるんだ。しかしなるほど、樹木の竜といわれれば、そのとおりである。住処にしろ、その見た目にしろ。シフは静かに納得すると、竜に向かって斧を掲げた。

「木、切ってもいいですか? 少しだけ」

「好きにしろ。ただし、壊しつくすことは許さぬ」

「それは、もちろん」

 シフがうなずくと、樹竜は小さく鼻を鳴らしてから、体を反転させた。どこへともなく飛びさる竜は、最後まで淡々としていた。小さくなってゆく後ろ姿を見送ったシフは、竜が見えなくなった頃に、そうっと木を切り倒しはじめた。

 十日分あまりの材木を得た少年は、竜との邂逅を母に打ち明けるか否か、頭を悩ませながら帰路についた。


 この日からおよそ半年ほど、森の北側の商業都市で「南の森には守り神がいる」「神域に踏みこむと祟られる」という噂が爆発的に広がった。外の人びとは、怖がって、森に近づかなくなってしまった。だがそれは、少年にも樹竜にも、知るよしのないことである。

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