孤高の狼

 雲のない夜だった。紺碧の空に、満月がほのかに輝いて、灰色の砂地と四角い煉瓦の建物に、白い光の幕を落としている。美しい夜の風景は、ともすれば、ぞっとするほど恐ろしいもののようにも感じられた。

 ひとけのない砂の廃村が、にわかに騒がしくなる。ときの声と、刃の打ちあう音が重なり、その場は小さな戦場と化していた。

 そして、騒乱が始まってから二半刻は経ったであろう頃、彼女は裏道を駆けていた。息を殺し、気配を絶ち、それでも足は休めない。腰からさげた剣が、がちゃがちゃとやかましく音を立てた。どこかで悲鳴が聞こえる。肉と骨を断つ音も。それでも彼女は、足を止めなかった。わずかに歩調を緩めた拍子に、舌打ちをする。


 盗賊討伐のために、複数の傭兵を集めた討伐隊が結成されたのは、一昨日のことだった。そして今、ここでまさに討伐が行われるはずだった。が、この有様は盗賊退治というよりも、斬りあい殴り合いの、無差別な虐殺といっていい。傭兵たちは夜襲をしかけることにしていたが、盗賊側もまた、それに備えて万全の準備をしていたのだ。寝いるふりをして、こちらが油断するのを待っていた。明らかに指揮官が――そして彼女たちが、判断を誤った。


 ちり、と首のあたりがしびれる。いつもの、本能の警告。物陰から黒いものが、叫び声とともに飛び出してきた。彼女はためらわず剣を抜き、裂帛とともに振り上げた。襲いかかろうとしてきた盗賊はくずおれて、彼が振り下ろすはずだったおのが、そばに落ちる。彼女は闇の中で一瞥したが、すぐに目をそらして剣をしまうと、駆けだした。

 暗がりに見える、滅びた家並み。彼女は呼吸を整えて、建物の影に身を隠す。よく鍛えた肉体をもつ女傭兵は、けれど、まだ、少女といってもいい年頃だった。彼女は唇を引き結び、主戦場の様子をうかがうために、顔を半分出そうとする。

 そのとき――のぞいた先が、まっ赤に染まった。彼女は唖然とした。一気にまわりが騒がしくなって、悲鳴も刃の音も激しさを増した。それはまるで、嵐のようだった。彼女は息を詰め、身を固め、動くなと暗示をかける。

――何が起きている。

 当然の疑問だったが、今この場で、答えを出せるようなことではなかった。だから、今はただ、待った。

 少しして、音はやんだ。静寂が訪れ、夜風が肌をなでる。その冷たさで我に返った彼女は、そっと建物の陰から出ていった。

「なっ……」

 彼女は唖然とした。場慣れしている彼女でさえ、凍りつくしかないような光景が、広がっていた。


 砂の上には、折り重なるようにして、かつて人間だったものが転がっている。ねっとりとした赤いものがそこかしこに染み出て、飛び散り、闇の中でもわかるほどの色彩と臭気を放っている。灰色の細かい砂は、血を吸って重く湿り、その場に漂う沈黙は、恨みのうめき声でも聞こえてきそうな、おぞましさを感じさせるものだった。

 彼女はしかし、すぐに自分を取り戻した。深呼吸して、一歩を踏み出し、死体の数々をあらためる。倒れているのは全員、盗賊だ。仲間の傭兵の姿はない。どこかに隠れているのか、逃げだしたのか、知らないところで賊に殺されたのか。いずれにしろ、ため息がこらえきれなかった。

 靴の先が血だまりを踏む。ぴしゃ、と小さな音が立った。

「傭兵か。こいつらとやりあって生き残るとは、たいしたものだな」

 彼女は足を止めた。死体の列をたどり、ずっと、ずっとむこうを見る。誰かが、かすかな月光を背にして立っていた。

 若い、男だ。おそらく彼女よりも年下の。肩より先まで伸びた黒髪をたばね、軽鎧をまとい、長槍を携えている。腰には剣もさしていた。ものものしいいでたちの、冷たい目をした男は、全身に血をかぶっていた。

 しかし、彼女はそこには驚かなかった。返り血まみれという点では、彼女も同じなのだった。

「そういうあんたも、傭兵のようだね。一人か」

「一人だ」

 男は、身じろぎもせず答えた。彼女は自然、腰を落として身構える。彼から伝わる気配は、ひどく鋭い。そして重い。これほど若いのに、どうしてここまで研ぎ澄まされた殺気をまとうことができるのか、彼女にはわからなかった。

「ここの連中……まさか、あんたが全部斬り伏せたってんじゃ、ないでしょうね」

「そうだが、何か問題だったか? どうせおまえたちの仕事も、こいつらを殺すことだったんだろう」

 平板な声で言い放った男は、そばにあった男の頭をつま先で蹴る。あまりにも冷淡な言動に、彼女はぞっとした。手先から足先までが凍りつくのを感じる。

 こいつは危険だ。思ったときには、右手が剣の柄にのびていた。

――しかし。

「やめておけ」

 近くで、声がした。そう思ったときには殺気がふくれあがっていた。彼女は剣を抜こうとしたが、それより先に、首筋に冷たさが走った。目だけを動かしてみてみれば、いつの間にか、槍の穂先が彼女へ突きつけられていた。

「おまえでは俺には敵わない。少なくとも、今は」

 男が淡々と言う。彼女は息をのんだ。温かい息が吹きかかり、鳥肌が立った。こんな奴でも吐息には温度があるんだな、などと今に関係のない思考が渦巻く。

 男は槍を突きつけたきり、動かなかった。彼女は何度も、深く呼吸をした。落ちつけ、落ちつけ、心の中で繰り返す。そうすると、次第に全身から力が抜けて――己の指も、剣から離れた。すると、間を置いて、槍も引かれた。殺気がほんのわずかやわらぐのを感じ、彼女は思わず息を吐く。

 彼と、今ここでやりあうのは、まずい。彼女はそう感じていた。

「ここを根城にしていた賊どもは、複数の盗賊団が結託してできた集団だった。これくらいは、おまえも知っているだろう」

「なんだ、藪から棒に」

 男がいきなり脈絡のないことを言い出したので、彼女は肩をすくめた。動作は軽々しくても、警戒は解いていない。男はそれでも眉ひとつ動かさず、血だまりを踏みつけた。

「片方の連中は俺がもらっていく。もう片方はおまえたちの好きにしろ。……もっとも、おまえ以外の傭兵が生きているかは知らんが」

 冷徹な彼の言葉に、彼女はすぐに何かを言うことができなかった。その間にも、男は、用は済んだとばかりに背を向ける。そして彼女の前から去ろうとして、けれど、直前で振り返った。一見して感情の読みとれない、鋭い瞳が彼女を見すえる。

「……名を、交わしておこうか」

「は?」

 彼女は素っ頓狂な声を上げた。男の言いまわしは難しかったが、意味はわかった。けれど、意図がわからなかった。

「なんで今、のんきに自己紹介なんかしなきゃならないのさ」

「おまえに興味がわいた。おまえが腕を上げたら、ぜひ決闘をしてみたいものだ。そう思ったから、今のうちに名を知って、えにしをつないでおこうと考えた」

「それは、あんたの故郷の考え方か」

 彼女は言った。あてずっぽうだったが、男はうなずいた。この男の顔立ちは、このあたりの人間のものではない。おそらくはもっと東――東の大陸の、別な民族だ。であれば、彼女の知らぬ価値観や風習があってもおかしくはない。

 そう思っている間にも、男は彼女に向き直り、姿勢を正していた。

「俺はカロク。今は流浪るろうの傭兵だ」

「じゃあ、あたしと同じだね。あたしは――ジエッタだ」

 ほんの一瞬ためらったが、結局、彼女は名乗った。男はまた、小さくうなずく。今度こそ背中を向け、顔だけで振り返った。

「ジエッタか。覚えておこう。先程も言ったが、いずれは本気で手合わせをしたいものだ」

 そう、小声で言うと、彼は静かに歩きだした。かたわらには死体の列がまだ続いているから、もっとむこうにも、彼の殺した盗賊たちがいるのかもしれない。茶色くなりかけた血の海と、夜の闇の中へ消えてゆく孤狼のような傭兵を見送った彼女は、深々とため息をつく。

「あたしは、二度と会いたくないよ。馬鹿野郎」

 生きたもののいない戦場で、鋭く吐き捨てる。

 彼女の声を聞いていたのは、空で変わらず白々しらじらと光る丸い月だけだった。

 

 二度と会いたくない。そんな、彼女の願いとは裏腹に、縁は続いてゆくものだった。互いが傭兵団を率いる者となってから、とある町でばったりと再会し、それ以降少しずつ衝突と和解を重ねながら、彼らは関わり続けるのである。

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