標の火~『永遠の青』番外短編集~

蒼井七海

本編以前

五年後の彼ら

 一歩、踏み出すごとに、現実が遠ざかってゆく気がする。湿った土を踏むごとに、自分の中のすべてが、静まってゆく気がする。少年は、ゆっくりと呼吸して、満ちる緑を吸いこんだ。視界の先に木の枝を組んだものを見つける。歩調を変えずにそこまで歩き、立てられている枝の前で立ち止まった。膝を折って祈りの言葉を口にする。

――水は襲ってこない。五の祈りも無事に済ませた。少年はまた立ち上がり、歩きだす。

 これは、試練だ。

 十五を迎えた彼が《神官》になれるかどうかを見定めるための。


 竜と意思を通じあわせ、時にはあらぶる彼らの魂をも鎮める。特殊な役目を負った『つたえの一族』。彼の住む村では、その中でも特に心正しい者だけが、《神官》となり、竜と対面することを許される。過去に、一度だけ禁を破ってしまったかもしれない彼は、《神官》を目指す決意を固めた。そして、みずから望んで、試練に挑んでいる。


 森は静かだ。時折聞こえる獣の足音と、鳥のさえずり、葉のそよぐ音。耳に入るのはそれだけで、不純なものなど何一つ存在しないと思わせる。この森はやはり神聖な場所だ。確信した少年は、六の祈りを強く捧げる。また、何も起きない。

 祈りは一から七まで。つまり、祈るべきはあと一回。このまま何事もなければいいけど、と思いながら歩を進める。

 森は進むごとに深さを増した。今はまだ昼間のはずなのに、木々のせいで光がさえぎられて薄暗い。いまだ曇天なのか、それとも少しくらいは晴れ間がのぞいているのか、そんなことを確かめられる隙間さえなかった。けれど、かえってそれが、少年を安堵させた。

 深呼吸を繰り返しながら歩く。雑念を打ち消して、どこまでも清く、静かに。

 暗がりのなか――太い木の根元に、七つ目の目印を見つけた。一瞬、息を詰めた少年は、組んだ枝の前で立ち止まる。今までと同じように、祈りを捧げる。不思議と、繰り返しに対する絶望を感じない。それどころか、祈りを繰り返すごとに、自分が安らいでいることに気づいていた。しばらくかしずいたままでいるが、やはり何も起きなかった。少年はまた静かに立ち上がり、歩いた。

 しばらくして立ち止まる。足もとに、太い木の根が張り出している。かつて自分がつまずいたものだろうとわかった。この森も日々様相を変えているはずなのだが、こういうところは変わらないままらしい。それとも、森のあるじが、わざと目印として残しておいたのか。戯れのような予想を、かぶりを振って打ち消すと、少年は腰帯に結び付けていたひもをほどいた。ひもを手に持ち、軽く振る。ひもの先の、銀の鈴が揺れて、清らかな音を立てた。

――りりん、りん。

 鈴の音は、奇妙なほどに反響してから消える。

 瞬間、場の空気が揺らぐのが、わかった。うわん、と耳鳴りのような感覚がある。


――


 緊張に息をのんだ少年は、とっさにひざまずき、深く深く頭を下げた。教えられたとおりの所作で、竜に対する最敬礼を行う。これで、竜がなんとこたえるかで、少年の今後が決まる。心臓の音が耳を覆う。胸が張り裂けそうだ、と思ったとき。

『今年もずいぶん、まじめな者が来たな』

 なぜか、楽しそうな声がした。

『かたくならずともよい。新しい《神官》だろう。顔を見せてくれ』

 くぐもって響く声は、竜の言語だった。幼いころから勉強している少年には、あるていど理解できる。彼は言われたとおりに顔を上げ、絶句した。

 いつのまにか、目の前に、竜が座していた。澄んだ青の鱗が、どこの光を反射しているのか、きらきらと光って見える。少年を観察する瞳は藍玉の色。その深さと美しさに胸を打たれた彼は、息をのんだ。さんざん口上を教わったというのに、かんじんなところで何も言えなくなった彼を、竜は興味深そうにながめまわしている。が、少しして、不思議そうに目を瞬いた。

『うん?――おまえは、どこかで見たことがあるな』

 どきり、と心臓が跳ねた。飛び上がりそうになるのをなんとか堪える。すると竜は、何が楽しいのか喉を鳴らして笑った。

『そうだ、思い出したぞ! かつてこの《聖域》で迷子になっていた子どもだな』

「……え」

 少年は目をみはった。それから、禁破りをしたときのことを思い出し――今度は口をあんぐりとあける。

「あっ……あのときの男の人は、やはりあなただったのですか?」

『うん、そうだ、私だ。覚えていてくれていたのだな、嬉しいぞ』

「い、いえ。私の方こそ、まさか覚えていただけているとは、思いませんでした」

『印象に残ったのだよ。私の領域で迷子になっていた、というのを差し引いてもな』

 竜は目を細めてそう言うと、大きくなったな、などとこぼしながら少年をあちこちから見ている。まるで久々に里帰りした孫を迎えるおじいさんみたいだと思うとおかしくなって、少年は口もとをほころばせた。

『結局、《神官》になることを選んだのだな』

 ふいに、竜の声が静かになった。少年はただ、「はい」と答える。すると、藍玉の瞳に鋭い光が宿る。

『それは、おまえ自身の意志か?』

 問う声は、どこまでも厳かだ。ひるみそうになるほどに。けれど少年はひるまない。迷いがないから、臆さない。ただ、堂々と、笑った。

「もちろんでございます。これは私の意志。水竜すいりゅう様とともにありたいと、私の心が望んだのです」

『――そうか』

 竜は微笑んだ。竜が笑顔を見せるとは思っていなかった少年は、少しだけ驚いた。

『名を、教えてくれ』

 名前を問うこと。それは、竜が人を認めた証のひとつなのだと、先輩の《神官》から聞いた。少年は確かな喜びを感じつつ、落ちついて自分の名前を竜に示す。

「ハーラン、と申します」

 竜は小声で少年の名を繰り返した。それから頭を下げ、目をあわせてくる。

『ではハーラン。私は、おまえが我が領域に立ちいることを許そう。彼の村の代表者として、私に力を貸してくれ』

「御意」

 身にしみこませた動作で了承の意思を示したのだが、直後に竜の鼻先で頭を小突かれてしまった。『かたくなるなと言っているだろう。あの村の人間はみな、まじめすぎる』と、彼はまた、優しい声で言う。そろりと顔を上げた少年をながめてから、竜は続けた。

『そうだ。おまえに名を聞いたのだから、私も名乗らねばな。それが礼儀というものだ』

 しかつめらしく続けた彼は、翼を広げてたたずむ。ひたと、少年を見すえた。

『私はディルネオ。水をつかさどり、この森を守護する竜だ。今後とも、よろしく頼む』

 彼はまた、ついと鼻先を突き出してきた。少年は一礼したのち、右手で青い鱗に触れる。友好の証をかわしあった一人と一頭は、少しの間、笑いあった。


 時を隔てて再会した彼らは、それから少年だった《神官》が最期を迎える日まで、寄り添い続けた。

――彼は数々の功績を残したが、その最たるものに水竜ディルネオが気づくのは、彼の死後、数百年経ったときのことである。

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