第2話 風紀委員会の闇

 翌日。朝はルームメイトの勇と智也と一緒に登校した。春樹は小学生のころから普通の学校に通ったことがない。諜報員となるべく特殊な環境で育てられたのだ。

 そんな新鮮な学生生活を満喫しつつ、最初は違和感しかなかった女装や男装も、そういうものだと思えばすぐに慣れた。

 この日は体育の授業があり、もしかしたらブルマーかもと思っていたが、普通の学校と同じく男子も女子も青色のハーフパンツだった。

 今日の授業も、どれもクオリティが高く感じた。内容はわかりやすく、学科の授業中に関しては変な思想の押しつけもなかった。服装と教師の言葉遣いなど細々としたところと、毎日ある少し偏ったジェンダーフリーの教育以外は、いたって普通の、むしろ良いといってもいい学校に思えた。

 極端な不良はおらず、いても智也のような不真面目な生徒という程度だ。人権教育に力を入れているという建前だからか、特殊な事情をもつ生徒を幅広く受け入れていた。

 勇のようにお金がなくて奨学金を受けている生徒だったり、智也のように元問題児だったり。だが、それ以外にも勉強の苦手なお金持ちの子供も多いようだった。ジェンダーフリーという人権重視を謳うこの学園は、落ちこぼれの子女には丁度いい肩書きを得られる学園だった。

 教師も生活指導を兼任している体育教師の村上がいつも怒鳴り声をあげて怖がられているのを除けば、みんな穏やかで優しかった。


 休憩時間はまさに美少女といえる春樹は、男子からも女子からもよく話しかけられたが、今のところ友達といえるのはルームメイトの勇と智也、そして隣の席の由良だけだった。

「あれ、智也くん、どこか行くの?」

 帰宅の準備をしていると、智也は鞄を持たずに教室を出て行こうとした。

「おう、俺はちょっと遊んでから寮に帰るわ」

 そういって智也は教室を出て行った。

「智也くんは、大体毎日夜遅く帰ってくるんだよ」

 勇が苦笑いで春樹に教えた。

「そうなんだ。部活とか?」

「ううん、部活は入っていないみたいだけど、他のクラスや上級生にも友達が多いみたいだから」

「そっか。そういえば勇くんも部活はやっていないのだっけ?」

「うん。ぼくは奨学金を受けているから、成績を落とすわけにはいかないから」

「そっか……」

「ぼくは寮に帰るけど、春樹くんはどうする?」

「せっかくなので、ちょっと部活の様子などを見てきます」

「じゃあ先に帰ってるね。晩ご飯は一緒に食べようね」

「うん、もちろん」

 そうして一緒に教室を出ると、勇と別れてあてもなく学園を歩いた。町から隔離された環境で遊び場がないからか、部活をやっている生徒は多いようだった。

 グラウンドの運動部を見ていると、男子に人気のある部活には男子が多く、女子に人気の部活にはやはり女子が多かった。中身までは服装にように簡単に変えられないようだ。

 ふと、背後に大きな気配を感じた。振り返るとそこには紺色の地味なドレスを着た巨人が立っていた。

 学園長だ。

「あら、あなた転校生ね」

 厚化粧の見た目に似合わない野太い声。

「学園長。こんにちは」

「確か槌谷さんだったかしら?」

「はい」

「少しはこの学園に慣れたかしら」

「そうですね。制服はようやく見慣れてきました」

 巨体に似合わない女装姿の学園長からは少し目を反らして答えた。

「そう、うふふ。槌谷さんは綺麗だから、その制服もよく似合っているわよ」

「ありがとうございます……といっていいのかわかりませんが」

「うふふ、いいのよ。槌谷さんの容姿だと男子からも声をかけられるのじゃない?」

「見た目のことはわかりませんが、クラスメイトには男子にも女子にもよく話しかけてもらっています」

「こんな言い方は教育者としてよくないけど、もし見た目が悪かったら、いまのように声をかけられていたと思う?」

「それは……」

 春樹は言葉に詰まる。春樹自身は見た目だけで誰かを優遇したり、差別をするような性格ではない。また、自分が人より飛び抜けて見た目が良いとも思っていない。だが、世間的に見た目の影響が大きいことはもちろん知っていた。

 諜報員は良くも悪くも目立たないことが大事だ。整った顔立ちの春樹はそれだけで人目を引いてしまう。そのことは諜報員として修行しているときに、何度も先生から指摘されていた。

「見た目は男子より女子のほうがずっと影響が大きいと思わない? とくにあなたたちの年代はそうよね」

「ええ、まあ」

「この学園では全寮制にして化粧もきつく取り締まっています。それは見た目じゃなく中身を見てもらうため。私はね、そのことを男子にもっと知って欲しいの。体の大きな私がこんな格好をしているのも、制服を逆にすることも、少しでも男女の違いを考えるきっかけになってくれたらと思っているからよ」

 学園長は熱く語ったあと、ニコッと笑顔を見せた。

「勉強になります」

「せっかくこの学園にきたのだから、いまの世の中の男女の違いと格差をよーく勉強してね」

「はい」

 春樹は学園長と別れて、またあてもなく校舎内を歩く。そして、歩きながら学園長の言葉を考えていた。


 ――そういうことだろうか?

 学園長のいいたいことはわかる。でも、ジェンダーフリーとは見た目がどうとかの話なのだろうかとも思う。もっと社会的な性別格差、性差別のことを考えるべきじゃないのだろうかと思う。

 男性は男性らしく女性は女性らしく、春樹自身はそう思っている。もちろん女性だから何々になれない、何々は禁止されているというのは間違っていると思う。

 でも、重い物は男性が持つべきだし、危険なことは男性がやるべきだと思う。それは性差別とか平等とかということじゃなく、身体能力とか精神構造とか、そういったことも含めてそういうものだと思っている。

「春樹くん、なーに黄昏れているの?」

 廊下から窓の外を眺めていると、由良が声をかけてきた。

「由良さん、まだ帰ってなかったのですか?」

「うん、部活とか色々とみていたの」

「由良さんもまだここに来て短いですもんね」

「春樹くんと一週間しか変わらないよ。それよりどうしたの? 真面目な顔でなにか考えていたみたいだけど」

「あ、いえ、さっき学園長と少し話しをしてちょっと……」

「ん? どうしたの?」

「この学園のジェンダーフリー教育って、本当に正しいのかなって」

「へぇ、たった二日でそう思ったんだ」

「あ、いえ、いや、もちろんまだまだ勉強は足りないけど、この学園のジェンダーフリー教育って、なんだか……」

「薄っぺらい?」

 ずばり心の中を言い当てられた。

「あ、うん、まあ」

「だよね、わたしもそう思う」

「由良さんも?」

「うん、なんだか女性専用車両みたいな違和感があるよね。痴漢は許せないけど、とりあえず隔離しておけばいいんでしょみたいなのが見えちゃうもん」

「なるほど……」

「冤罪とか考えると、本当は女性自身が痴漢に毅然と立ち向かうのが理想なんだけどね。もちろん誰もがそんなに強くなれないのはわかっているけど。でもこの学園のジェンダーフリー教育って、それに似た小手先の対策というか歪さを感じるわ。女性が迫害された歴史があるからって、優遇しろとか批判するなって、逆に女性をバカにしていると思う」

「そうなんです。僕もそう思います」

 モヤモヤとしていたことを由良にズバリいわれて、春樹の胸のつかえが取れた気持ちになった。

「この制服を交換しているのもそう。ジェンダー学園なんて名乗っているわりに、やっていることや教えていることは、ちょっとねえ」

「なにか……理由があるのかな?」

「さあね。春樹くんもわたしもまだここに来て間もないから。こういうことを考えさせるためにわざとやっているのかもしれないし、資金集めのため、ただのパフォーマンスとしてのジェンダーフリー教育かもしれない。それはこれから冷静に見極めていかないとね」

「そう……だね」

 この日はこのまま由良と教室に戻って一緒に校舎を出た。寮に戻ると勇は勉強していたが、夕食の時間になると一緒に食堂にいった。

 智也は門限を過ぎても消灯時間の10時半になっても戻ってこなかった。勇によるとこんなことはよくあって、寮母も呆れてあまり注意しなくなったようだ。

 結局0時近くになって智也はこっそり帰ってきた。ベッドで横になっていた春樹は戻ってきたことに気づいたが、声はかけなかった。


 こうして数日がなにごともなく過ぎた。

わざわざ派遣された以上、きっとなにか大きな問題があるとは思っているが、生徒も教師も穏やかで、ケンカひとつ見たことない。もう少し内部を知るにはなんらかの部活か生徒会に入るべきかと春樹は考えていた。

「ご、ごめんね、実は今日、補習があるんだ」

 そんなある日の放課後、一緒に帰ろうと声をかけると、勇は両手を合わせて謝ってきた。

「昼間、風紀委員に呼ばれてたけど、それか?」

 智也が訊いた。学食で昼食を食べ終わったあと、勇はメガネをかけた男子生徒に呼ばれて何かいわれていた。腕には風紀と書かれた腕章をしており、首もとの青い紐リボンの色から、相手が三年生だとわかった。何をいわれたのかわからないが、それからずっと浮かない顔をしていたので、春樹も気になっていた。

「あ、うん、そうなんだ」

「勇って時々呼び出しがあるよな。でも、風紀委員ってことは勉強じゃなく、ジェンダーフリー関係の補習ってことか?」

「う、うん……あ、別にそんな怒られるとかじゃないよ。ほら、ぼくって元々お姉ちゃんたちの影響で女っぽいから、それで色々とね。あはは」

「僕もその補習を受けるわけにはいかないかな?」

 勇の浮かない顔も気になったが、風紀委員というのも気になった。

ここ数日で感じたことだが、生徒も教師も穏やかな学園で、風紀委員だけがやけに厳しいような気がした。生徒のちょっとした制服や髪の乱れを見つけては、厳しく注意する風紀委員の姿を何度か見たからだ。

 風紀委員が厳しいのは、この学園がジェンダーフリーという人権教育に力を入れているからだと思っていた。ただ、なにかこの学園の問題点を見つけたかった春樹は、軽い気持ちで勇に訊いた。

「ダメ! 絶対にダメだよ!」

 珍しく勇が大きな声を出した。

「あ、ごめん。その……色々といわれるところを見られたくなくて……あはは、ごめんね」

「いや、こちらこそごめん。じゃあ先に寮に帰っているよ」

「うん、ごめんね、じゃあ……」

 必死に笑顔を見せて勇は教室を出て行った。

「まあ、実際は怒られるんだろうな。何についてかはわからねーけど」

 智也は勇を見送りながらつぶやいた。

「そうですね。でも……」

 春樹は気になった。たった数日だが勇が風紀委員に怒られるようなことをしているとは思えなかった。誰よりも優しい勇が怒られる理由なんて一つもなかった。

 とはいえ、本人があそこまで頑なに嫌がっているのなら、あまり根掘り葉掘り訊くのも悪いと思った。春樹は寮に戻るために教室を出ようとする。

「春樹くん、もう帰るの?」

 由良が呼び止める。

「え? はい、うん、そのつもりだけど、なにか僕に用事でもあった?」

「ううん、そうじゃないけど……そっか、うん、じゃあまた明日ね」

 由良は怒っているような、悲しんでいるような、そんな気がした。

 ――なにか怒らせるようなことをしたかな?

 春樹は考えたが、心当たりはなかった。


 夕刻。生活指導室。殺風景な部屋に似合わない豪華な絨毯が敷かれていて、六人の男がソファーに座り、大きなテーブルを囲んでいた。テーブルの上には半裸の男子生徒が横になっている。

 勇だ。

 勇は上半身が裸で、下半身もスカートだけの姿だ。むき出しの体や太ももには肉を中心にした料理が置かれていた。勇は恥ずかしそうに頬を赤らめ、両目をギュッと閉じていた。

「転校生の、槌谷だっけか? なかなかの上物だな」

 ジャージ姿の男、この部屋の主、生活指導教師の村上はそういうと、脇腹に置いてあったスモーク肉を箸でつまんだ。

「んっ」

 勇の声が漏れる。村上はその反応を見てニヤリとすると、肉を口に運んだ。

「確かにかわいい顔をしていましたね」

 腕に風紀の腕章をつけた男子生徒が答えた。昼間、勇を呼び出したメガネの風紀委員だ。嫌味っぽい顔立ちをしていて、女子の制服も似合っていない。

「まあ俺はコイツみたいな小動物系のほうが好みだけどな」

「じゃあ俺らがもらっていいですか?」

「いいぞ。けど、こいつと違って家は金があるみたいだから、逃げ出さないように注意しろよ」

「わかってますって」

 メガネの男子生徒がニヤリと笑う。勇を囲んでいるのは生活指導の村上と風紀委員の男子生徒たちだ。

「あの……春樹くんには手を出さないでください」

 勇はありったけの勇気を振り絞っていった。

「それはお前次第だな」

 風紀委員の一人はそういうと、勇の太ももに口をつけて、そこに置かれていたチーズを口に入れると、舌先で太ももをなぞった。

「ぁぅ……」

 勇はビクッと体を震わす。勇が刺激を受けて反応するたびに、周りの男たちは下卑た笑みを浮かべた。

「お前がちゃんと俺らのおもちゃになっていたら見逃してやるぞ」

村上は箸をスカートの中に入れると、中のモノをつまんだ。

「ぅあっ」

 勇は思わず背中を反らせる。

「おっと、いなり寿司と間違えたか?」

「あはははは」

 笑う男たちをよそに、勇は涙を浮かべていた。


「ただいまー、あはは」

「おかえりって、勇くん、大丈夫?」

 春樹は心配そうに訊いた。勇はとても疲れた顔をしていたからだ。

「う、うん、ちょっと疲れただけだから。あはは」

「そっか。顔色が悪いから、今日は早く休んだほうがいいよ」

「ありがとう」

 勇はずっと笑顔を作っていたが、いつもは一緒の食事も風呂も今日は一人で入った。春樹と智也はそっとしておこうと、勇に合わせて早めに就寝した。

 そして翌日。いつもは春樹の次に早起きの勇だが、今日はいつも寝坊気味の智也よりベッドから出てくるのが遅い。

「勇くん、まだ顔色が悪いよ」

 春樹はベッドの勇に声をかけた。

「うん……ちょっと疲れが残っていて」

「そっか。じゃあ今日は休んだほうがいいね」

「ううん、大丈夫。もうちょっとしたら起きるから、先に行っていいよ」

「……そっか、わかった。無理はしないでね」

「うん、ありがとう」

 急かすのも悪いと思い、春樹と智也は先に校舎に向かった。


 二人が部屋を出て行ってから、ようやく勇は起き出した。体の節々が痛い。でも体より心のほうが痛かった。

 学園から奨学金を受けている勇は、学園側の人間に逆らうことができなくて、入学当初から風紀委員に呼び出されては被害を受けていた。恥ずかしさもあり、また、奨学金のこともあり、そのことは誰にも相談できなかった。

 弄ばれた翌日は、精神的にも肉体的にも疲弊していて辛かった。今日も辛くて休みたかったけど、せっかく受けた奨学金を無駄にしたくなかったので、勇は無理をして校舎に向かった。

 時間はギリギリだったので小走りで向かっていたが、ふとその足が止まる。風紀委員が校門で服装検査をしていたからだ。

 勇はうつむいて校門に向かう。その足取りは重い。

「おい、待て」

 案の定、勇は止められた。相手の風紀委員はあのメガネだ。

「リボンはどうした?」

「あっ」

 勇は胸元に手をやり青ざめる。疲れのせいで紐リボンを付け忘れたのだ。

「あ……あ……ごめんなさい……すぐに取ってきます」

「いまからだと授業に間に合わないだろ?」

「それは……はい」

「お前は確か奨学金を受けていたよな? フンッ、たるんでいるな。気合いを入れてやるからケツを出せ」

「え? こ、ここでやるのですか?」

 まだチラホラと通学中の生徒がいた。もちろんその中には女子もいる。

「ほら、壁に手をついてケツを突き出せ」

 メガネの風紀委員はプラスチック製の長い定規を手に持っている。

「は、はい」

 勇は命令に従い、壁に両手をついて尻を突き出した。メガネの風紀委員はペロリと舌なめずりをすると、勇のスカートをめくった。白い女性もの下着を履いたお尻が丸出しになる。

 勇は恥ずかしくて両目をきつく閉じた。

「よぉし、10発いくぞ。いーち」

 定規を持った手を振り上げる。生尻に当たればかなり痛いだろう。

 メガネの風紀委員は容赦なく振り下ろす、その瞬間。

「うっ、なんだお前?」

 その手首を何者かに掴まれた。

「彼は体調がすぐれないので、許してあげてください」

 手首を掴んだのは春樹だった。勇を心配して校門まで迎えにきていたのだ。

「離せよ。これは罰なんだから」

 メガネの風紀委員は振り払おうとするが、万力で掴まれたように動かない。

「罰というには厳しすぎますね。ジェンダーフリーという人権問題を標榜する学園が、簡単に体罰をふるうのには納得できません。もし、僕のいうことが間違っているのなら」

「はあ? 誰にそんな口をきいてんだ?」

「あなたですよ、先輩」

 怒りの表情の風紀委員に対して、春樹はいたって冷静な顔をしている。だが、その胸中には熱いものがたぎっていた。

「てめえ……」

 一触即発。メガネの風紀委員が掴みかかろうとしたとき、一人の男子生徒が割って入った。

「なんの騒ぎですか?」

 よく通る声で、その男子生徒はいった。背が高くスラッとしている。細い眉に鋭い目。腰まである黒く長いカツラをかぶっていて、声を聞かなければ男子とはわからないほどの美人だ。青い紐リボンはメガネと同じく三年生のもので、風紀委員の一人らしく、腕には腕章をつけていた。

「い、委員長……」

 メガネの風紀委員は顔が青ざめていた。

「私は風紀委員の委員長をしている小坂です。いったいなにがあったのですか?」

「僕は一年D組の槌谷春樹です。実は……」

 春樹は勇の体調がすぐれないこと。紐リボンを忘れたこと。その罰として定規で叩かれそうになっていたのを止めたことを話した。勇は泣きそうな顔で黙って下を向いていた。

「それも昨日、風紀委員に呼び出されて遅くまで指導されていたから体調を崩したと、僕は思っています」

 春樹はキッパリといった。

「そう……ごめんね、最近忙しくてあまり委員会に参加できていなので、昨日のことも私は知らなかった。リボンを忘れたのはよくないけど、それなら責任の一端は風紀委員にありますね」

「委員長、それは……」

 メガネの風紀委員は言い訳をしようとしたが、小坂のひと睨みで黙った。

「うん、もういいよ。ほら、早く行かないと予鈴がなるから」

「ありがとうございます。さあ勇くん」

 勇の手を引っ張ると、勇は春樹の胸元に飛び込んだ。男子同士だが、端から見ると女の子同士が抱き合っているように見える。

「うう……ありがとう春樹くん……ぐすっ、本当にありがとう」

「もう大丈夫だから、そんなに泣かなくていいよ」

 春樹は優しく声をかけると勇の肩を抱きながら教室に向かった。

 途中、勇は顔を洗ったが、赤く腫らした目は戻らなかった。教室につくとみんな心配そうに二人を見ていたが、すぐに予鈴が鳴ったので誰も声をかけられなかった。

「ちょっとかっこ良かったよ」

 席に着くと、由良が小声で春樹にいった。

「いえ……もっと早く行けば良かったです」

 春樹は本気で悔しそうな顔をしていた。

「ふーん」

 それを見て由良は少し嬉しそうな顔をした。


「ごめんねー、心配かけて。起きたときは調子悪かったけど、いまはもう大丈夫だよ。あはは」

 一限目が終わると勇は元気よくいった。本当に気分が良くなっているようだ。

「なんだよ、そんなことなら俺も行けばよかった。つーか一緒にサボればよかった」

「あはは、智也くんありがとう。でもサボるのはダメだよ」

「はあーあ、ルームメイトは二人とも真面目みたいだな」

「あはは」

 元気の戻った勇に智也も軽口を叩く。二人のやりとりを見て春樹もようやく安心することが出来た。

「しっかし春樹はただの美少女じゃなかったな。あの風紀委員に逆らうなんてな」

「智也くんでも風紀委員は苦手ですか?」

 春樹は少し驚いた声で訊いた。

「そりゃあね。この学園はゆるいけど、村上と風紀委員だけはうるさいからな」

「そうですか……」

「だからたいしたもんだよ、春樹は」

「うんうん、本当にありがとう」

 思い出したのか、勇はまた涙目になる。

「勇くん気にしないで。委員長の小坂さんに助けられたようなものだし」

「それでも……」

「小坂さんって、すげー美人の人だろ?」

 智也が戯けた口調で入ってきた。

「ぼくも強くならないと……」

 春樹は勇のつぶやきに気づかなかった。


 昼休み。いつもの四人で食堂に向かった。性別は女子が由良一人に他は男子三人の逆ハーレムだが、制服が逆なので男子一人に女子が三人のハーレムに見える。

「あ、スプーン忘れちゃった。とってくるから先に食べてて」

 そういって勇は食器が置かれているカウンターに小走りで取りに行った。

「おい、春樹」

 食事に手をつけようとした時に、智也が小声でささやいてきた。智也は目線で勇が向かった先を示す。そちらに目を向けると、メガネの風紀委員が勇に話しかけていた。

 二人が席を立とうとすると、メガネの風紀委員は去って行く。こちらに気づいた勇は、苦笑いを浮かべて軽く手をふった。

「勇くん大丈夫?」

 スプーンを手に戻って来た勇に、春樹は心配そうに声をかけた。

「ちょっと絡まれたけど、言い返してきたよ」

 勇はちょっと自慢げな顔をした。

「へえ、勇もやるときはやるんだな」

 智也も感心している。

「あはは。それより早くご飯を食べよう」

 いつもより自信にあふれた勇を見て、春樹は嬉しい気持ちになった。


 翌日。その日も勇は朝から元気だった。その姿に春樹も智也も喜んでいた。

……しかしそれも午前中だけだった。

 昼食のときにトイレから戻って来た勇は、青白く強ばった顔をしていた。

「勇くんどうしたの? また体調が悪いの?」

「ううん、大丈夫。ちょっとお腹が痛かっただけだから。あはは」

 心配する春樹に答えた勇だが、最後の授業を受ける前に早退した。

そして放課後。

「片桐智也。これから生活指導室に来るんだ」

 風紀の腕章をつけた男子生徒が教室に現れて、智也を名指しで呼び出した。

「うげっ! なんだよー、心当たりはあるけどよー」

「智也くん大丈夫? この前の勇くんみたいに……」

「大丈夫だろ。まあ、こう見えて呼び出されるのは初めてなんだけどな」

「僕も一緒に行こうか?」

「いや、春樹は先に帰って勇のこと頼むわ」

「そっか。うん、わかった。頑張ってね」

 春樹はいきなり智也が呼び出されたことが気になったが、勇の体調も心配なので寮に戻った。

 しかし、部屋に勇はいなかった。戻って来た気配すらない。寮母に確認したが勇の姿は見ていないといい、食堂や風呂場も確認したが、勇は見つからない。

 春樹は校舎に戻って保健室や学食なども探したけど、勇の姿はどこにもない。教室に戻って残っていたクラスメイトに訊いたが、誰も勇を見ていなかった。


 勇はいつものように半裸姿でテーブルの上で横になっていた。体には前と同じく肉中心の料理が置かれている。

『村上先生からの伝言。お前の奨学金が打ち切りになるから』

 昼休みのトイレでメガネの風紀委員にそういわれたら、もう勇に抵抗する気力はなくなっていた。

 いわれるがまま、勇はまたこの部屋にやってきたのだ。

 いつものように勇をからかっていた村上や風紀委員だが、今日はあまり手を出してこないで、なにかを待っているようだった。

 小一時間ほどそうしていると、ドンドンと乱暴にドアを叩く音。返事も聞かずにドアを開けて誰か入ってきた。

「チーッス。呼ばれてきましたー」

 それは聞き覚えのある声。

「おっ、来たな。ほら、お前の友達が来たぞ」

 勇は顔をあげた。想像した通り、そこには智也が立っていた。

「勇、なにをやってんだ?」

 智也は驚いた顔で訊いた。まさかテーブルの上で半裸になって横たわっているのが、とっくに寮に帰ったはずの勇とは思わなかったからだ。

 勇は言葉が出てこない。友達にはこんな姿を絶対に見られたくなかったからだ。

「こいつは俺らのおもちゃだよ、入学したころからな」

 風紀委員の一人がニヤニヤしながらいった。メガネの男だ。

「なんだって? お前ら……」

「いいぜー、誰かに訴えても。ただ、こいつの家は貧乏だから、他の学校だと授業料は払えないだろうな。それに、今までの恥ずかしい姿もネットに流してやる」

「ぼ、ぼくはなにをされてもいいので、智也くんには手をださないでください。お願いします!」

 ようやく言葉が出せた勇は、必死に懇願した。

「それはお前の態度次第だ」

「村上……先生」

 勇は風紀委員の中に一人いる教師、生活指導の村上に懇願の目を向けた。しかし村上は嗜虐的な顔を隠そうともしない。

「おいお前、こいつが普段、俺らにどんなことをされているか、そこに立って見ていろ」

「見ていろって、村上先生よー」

 智也は半ばケンカ口調だ。

「こいつの奨学金が止められてもいいのか?」

「おい、そんなの汚いぞ!」

「誰にそんな口をきいているんだ? 差別的だとお前の内申書に書いてもいいんだぞ?」

「待ってください! お願い智也くん、ぼくは大丈夫だから」

 たまらず勇は口を挟んだ。

「勇……」

「お願いします村上先生! 智也くんにはなにもしないでください!」

「そうか、友達にはなにもして欲しくないか?」

「はい……」

「おい、片桐だったか? こいつはそういっているけど、どうする?」

「え?」

 勇は驚いた顔で村上を見た。ますます悪魔のような顔になっている。

「……なるほど、そういうことっすか。いいっすね、俺、ぶっちゃけそういうの興味があったんっすよ」

 智也はへらへら笑っている。勇は二人のやりとりの意味に気づいて、慌てて智也に声をかけた。

「ダメだよ智也くん! 智也くんまでそんなの……ぼく、この学園をやめてもいいから!」

「勇、いいんだって。俺は好奇心旺盛なエロエロ好青年なんだから、変なことはいわないでくれよ」

「智也くん……うう……ううう……」

 そんな二人を尻目に、メガネの風紀委員はジロジロと智也を見ている。女子の制服姿の智也はスラッと背が高く、茶色い髪は肩まである。言葉遣いを気にしなければなかなかの美形だ。

「まあ、たまにはこういう奴もいいですね」

「そうだな」

 村上も値踏みするように智也を見ていた。

「まずはこいつと同じ格好になれよ」

「智也くん……ううぅ……」

 勇はギュッと拳を握って耐えた。下手に逆らえばますます智也を追い詰めることになると思ったからだ。

 智也はしばらく黙って見ていたが、急に明るくおどけだした。

「はーい、智子、頑張ってご奉仕しまーす」

 自分に必要以上に罪悪感を持たせないために、無理に明るく振る舞っている。そう思うと勇はますます胸が苦しくなった。


「ごめんね……本当にごめんなさい」

 帰り道で勇は泣きながら何度も謝った。

「勇が悪いわけじゃないんだから、そんなに謝らなくていいって。それにけっこう楽しかったぜ」

「うう……ううう……」

「勇、学園を辞めるなんていうなよ?」

「でも……でも……」

「俺は大丈夫だから。それにさ、俺ってあいつらの好みじゃないみたいだから、すぐに飽きるだろ」

「智也くん……」

「それまではそれなりに俺も楽しませもらうからさ」

「うぅ……智也くん……」

 勇は自分のせいで智也を巻き込んでしまったのが辛かった。だが、学園を辞めても智也を傷つけてしまう。どうすればよいのかわからなかった。

 智也はそんな勇の肩を抱いた。

「だから、俺は大丈夫だって。それよりさ、春樹も狙われるかもしれないから、あいつは巻き込まないようにしような?」

「……うん……グスッ」

 寮の部屋に戻ると、その春樹が仁王立ちで待っていた。その顔はあきらかに怒っている。

「いったい、何があったのですか?」

 春樹は低い声で訊いた。

「勇は保健室で休んでたんだって。たまたま帰りが一緒になったから」

「ウソはやめてくださいっ! 僕は保健室にいって、勇くんが来ていないことを確認しました。学園中を探しましたが、生活指導室だけは見張りがいて近寄ることを許されませんでした。智也くんは生活指導室に呼び出されましたよね? 本当はそこで何があったのですか?」

「うぅ……ごめんね……」

 勇はたまらず涙があふれた。

「……そっか。いや、悪い、ウソはつきたくなかったんだけどな。実は勇は昨日の朝の件で生活指導室に呼ばれて、嫌がらせを受けていたんだ。俺は勇と仲が良いのと、まあ、普段の素行も悪かったってのもあるだろうな」

 勇の代わりに智也が答えた。もちろんウソだ。

「そんな……僕が余計なことをしたから……」

 春樹はガクリと膝を落とした。自分の行動の仕返しが、自分ではなく勇と智也に向かった。自分ならどんなことをされても耐えられる自信はあるが、それが友達にされたと思うと、耐えられない苦しみとなった。

「うぅ……違うんだ春樹くん……グスッ」

「そうそう、違うんだよ。春樹のやったことはなにも間違っていない。風紀委員が間違っているんだからさ」

 智也は勇をフォローするようにウソを重ねる。

「……委員長は? 風紀委員の小坂委員長はそこにいませんでしたか?」

 智也は首を横にふる。

「そう……ですか」

 メガネの風紀委員の仕返しなのだろう。ならば委員長か野村、あるいは生活指導の村上に相談すれば……真相を知らない春樹はそう思った。

「野村とかに相談してもいいけどよー、また隠れて仕返しされるかもしれねーしなー」

 そんな春樹の考えに答えるかのうように智也はいった。

 そのとおりだ。24時間誰かを守ることなんて出来ない。下手に反撃すれば、今度はもっときつい復讐をされるかもしれない。そして、その被害を受けるのは春樹ではなく勇だ。

 あるいは春樹が普通の生徒なら、あらゆる手段を使って抗議することはできる。しかし、春樹は諜報員としてこの学園に来ている。もし全力で抗議すると、人目を引きつけることになり、諜報活動に支障をきたす。

「まあ、そんなに暗い顔をすんなよ。あいつらもこれで満足しただろうし、もうちょっかいはかけてこないだろうよ」

「そう、ですか……ごめんなさい。少し頭を冷やしてきます」

 春樹はいたたまれなくなり、逃げ出すように部屋を出て行った。


 春樹はあてもなく歩いた。学園の敷地外へはいくことが出来ないので、とにかく人のいないところを歩いた。すでに太陽は沈んで夜になっており、部活帰りの生徒もほとんどいない。

「いったいどうすれば……」

 春樹はつぶやく。

 真面目で正義感の強い春樹は、このまま泣き寝入りすることが耐えられなかった。しかし、抗議をして騒ぎを大きくすれば、周りから注目を浴びて調査活動が難しくなる。

 もっと酷い人権侵害があるかもしれないのに、はたしてそれでいいのだろうか? そう思う。

 でも……また勇や智也が嫌がらせをうけることがあったら、はたして自分は黙っていられるだろうか? そう思う。

 任務を優先するべきか、目の前のことを優先するべきか、春樹には判断がつかなかった。そして、そんな自分が情けなかった。

「兄様や姉様だったら、きっともっとうまく出来るのだろう……」

 春樹の兄や姉も諜報員としてすでに活躍している。初めてのミッションから十分な結果を出していたそうだ。それに比べて……。

 自分の力不足を思い知らされて落ち込んでいると、小さな悲鳴が聞こえた。

「いやっ、やめてください!」

 春樹は声のしたほうへ向かった。暗くて顔はよく見えなかったが、女子の制服を着た少年が、同じく女子の制服を着た男子生徒にからまれているようだった。

「もうやめてくださいっ」

「おいおい、俺のおかげであの部屋に行かなくて済んでいるのを忘れたのか? それともまたみんなに遊んで欲しいのか?」

「それは……」

「それが嫌だったら俺のいうことを聞けよ」

「うう……でも、もう嫌なんです」

「お前が嫌かどうかなんて、俺に関係あるのか? ずっと見張りで俺は溜まっているんだよ!」

「そんなぁ……」

 なぜかその少年と勇の姿が重なる。

「やめてください! 嫌がっているでしょっ!」

 春樹は思わず叫んだ。

 いきなり声をかけられて、二人はビクッとして春樹のほうに顔を向けた。

「は? 誰だよお前? こんな時間にうろついている奴は怪しいな。俺は風紀委員だ。おい、こっちに来て顔を見せろ」

 少年に絡んでいた男子生徒が叫んだ。どうやら風紀委員らしい。

 春樹は咄嗟に正体を隠さないといけないと思い、口元を手で隠す。カツラをかぶっていないので、普段の姿から簡単に正体はばれないだろう。

「さっさと顔を見せろよ」

「助けてっ!」

 少年は風紀員の後ろから叫んだ。

「黙ってろ!」

 風紀委員は少年を殴った。その姿を見て、もう春樹は自分を抑えられなかった。

「やめなさい!」

 春樹は二人に近づいた。

「風紀委員に逆らうつもりか? 制裁が必要なようだな」

 風紀委員の男子生徒は春樹に殴りかかった。格闘技経験者なのか、その拳は鋭い。春樹はゆらりと流れるように体を動かしてその拳をかわした。

「よけてんじゃねーよ」

 今度は蹴りを放つ。だが、春樹はそれもなめらかに体を動かしてよけた。

「てめえ、今度よけたらアイツを殴るぞ?」

「うっ」

 春樹は動きが止まった。

「よーし、いいか、動くなよ?」

 風紀委員は拳をポキポキ鳴らしながら、ゆっくりと近づいてくる。

「暴行」

 女の声がした。

「それに脅迫。どちらも犯罪よ」

「女か? 誰だ?」

「犯罪者に名乗る名はないわ」

 月明かりが彼女を照らす。顔は目の部分を白い仮面で隠しているので人相はわからないが、ぷるんとした唇と長い綺麗な髪から、そうとうな美人だと想像できた。

 体は全身黒いタイツに腰には短いスカートのようなフリルがついている。大きな胸、くびれた腰、体のラインがハッキリと見えるその格好は、彼女のスタイルの良さを見せつけているようだった。

「女ごときになにが出来るっていうんだよ?」

「バカね」

 仮面の女は風紀委員に一気に間合いをつめた。

「なっ、クソッ」

 風紀委員は仮面の女を掴もうとする。女はそれを避けると、どこから出したのか細いロープを風紀委員の腕に絡めた。

「なんだこれはっ」

 女の動きは止まらない。風紀委員の周りを回りながらロープで縛っていく。

「ハッ、ふんっ、エイッ」

「ちょっ、まっ、やめて」

 あっという間に風紀委員は手足を縛られた。

「なっ、おい、ちょっと」

「大人しくしていなさい」

 仮面の女は風紀委員の股間を蹴り上げた。

「ふぁぁ」

 春樹と少年は思わず自分の股間を押さえた。

「ゲスが」

 仮面の女は気絶した風紀委員に吐き捨てるようにいうと、少年に顔を向けた。

「キミは早く寮に帰りなさい」

「は、はい、ありがとうございます」

 少年は駆け足で去っていく。

「キミ。キミにはちょっと話しがあるからついてきなさい」

「あ、はい……」

 困惑している春樹だが、助けられたことだけはわかったので、素直に女についていった。


 しばらく歩いて校舎裏までやってきた。

 仮面の女は振り返ると、これまたどこから出したのか、女のものとは少し形の違う仮面を春樹に投げてよこした。

「仮面くらい用意しておきなさい。文部科学省の諜報員くん」

「え? ええ? どうして?」

 戸惑う春樹に女は仮面を外してその顔を見せた。

「え? えっと……えっ? ゆ、ゆ、由良さん!?」

「気づくのが遅い! 多少声音は変えていたけど、それでも諜報員なんだからすぐに気がつかないと」

「す、すみません。でもどうして?」

「わたしは……」

 由良は一瞬考えた顔をしたが、すぐに春樹の顔をまっすぐに見た。

「わたしは警察庁生活安全局特務ゼロ課所属、兼高由良よ」

 そして自分の正体を明かした。

「警察庁? では由良さんもこの学園に派遣された……」

「そう、あなたと同じ諜報員。警察庁にもこの学園の黒い噂が流れてきていて、わたしが派遣されたの」

「そうだったのですか……」

「そうだったのですかじゃないわよ、もう。あんたは本当にダメ。ダメダメ」

「ダメ……ですか?」

「まずその口調。もっとフランクにしないと周りと打ち解けられないじゃない。情報収集にはそれが肝心なのはわかっているでしょ? それに隠密行動をするなら顔を隠すものを用意する。もちろん声音も変えること。ちゃんと習ったでしょ?」

「は、はい……」

「体術は結構やるようだけど、あんな脅しですぐに動きを止めないのっ」

「はい……すみません……」

「もう、春樹くんって何でもそつなく出来そうな感じなのに、実践はダメみたいね」

「うっ……実は武術の師匠にもよくいわれました。技の覚えは早いし型は綺麗だけど、実戦では力を発揮できないだろうと……」

「そうね、その師匠のいうとおりよ。諜報員は他の仕事より応用力を求められるのだから、しっかりしなさいよ」

「……返す言葉がありません」

 春樹はガックリと肩を落とす。自分がマニュアル通りにしか出来ない、応用力のない人間だということには薄々気づいていた。それでも父親と国のために役に立ちたい。その思いで頑張っていた。

 初めてのミッションを受けて、絶対に失敗できない。その思いから、そのことは考えないようにしていた。でも、それをハッキリと由良に指摘されて、表情とは逆に気持ちはスッキリしていた。

「とにかく正体がばれないことを一番に考えなさい。まあ、初めてだからわからないことも多いと思うし、わたしも協力するから頑張ってやりなさい」

「ありがとうございます……」

「ふぅ……じゃあお説教はここまで。ねえ、少し歩かない?」

「あ、はい」

 理由はわからないが由良に誘われて、春樹は夜の校庭を歩いた。人の姿はなく、虫の声だけが聞こえる。

「由良さん強いですね」

「敬語はやめなさい」

「あぅ、すみま、ごめん」

「うんうん。ふふふ」

「由良さん、あのロープの技はなん、なに?」

「ああ、あれは警察の裏捕縛術の一つよ」

「裏逮捕術……」

「春樹くんこそ、なにか武術をやっているのでしょ? 動きからして中国拳法かな?」

「いえ、蒼馬神拳といい、いうんだ」

「ふふ、そうなんだ。初めて聞く流派ね」

「師匠が独自に編み出した拳法で、パッション……師匠はパッションと呼んでいるけど、気のほうがわかりやすいかな? 体内で練り上げた気を使って身体能力をあげたり、打撃にのせてダメージを増やしたりするんだ」

「へえ、師匠はどんな人なの?」

「もう70歳を越えているけど、滅茶苦茶強くて、組み手をやってもまともに体に触れることすら無理だった。本当にすごい人で、武術以外にも色々なことを教えてくれたんだ」

「そっか、いい師匠なんだね」

「うん。結構な年齢なのにユーモアもあって、初めて会ったときなんて……」

 師匠の話をきっかけに、由良との会話が弾んだ。初めてのミッションや正体がバレてはいけないというプレッシャーが、由良の前では開放された。

 一通り話し終えたとき、春樹は随分と気持ちが楽になっていることに気づいた。

 ふと、由良は足を止めて空を見上げる。釣られて春樹も見上げると、大きな月が見えた。

「ねえ、お月様って太陽の光を反射して輝いているって知ってた?」

「うん」

「わたしね、太陽よりお月様の光のほうが好き。太陽の輝きは強さを感じるけど、お月様の光って、とても優しく感じるから」

「……そうだね」

 春樹はそんなこと、いままで考えたことがなかった。

 この学園に来る前も、子供のころも、ずっと目の前のカリキュラムだけを見ていた気がした。

 でも由良は、自分と同じ諜報員の由良は月を愛でる余裕すらある。

「……ん? なによ?」

 じっと見つめてくる春樹に気づいて、由良は少し頬を赤らめる。

「あ、いえ、由良さんはすごいなって思って」

「ふふ、まーたそんなこと」

 由良の声はとても優しかった。まるで月の光のように。

「春樹くん、もう大丈夫ね?」

「……うん。ありがとう、由良さん」

「ん。いい顔になってるよ」

 由良は微笑んで、春樹の鼻をちょんとつついた。

「由良さん……」

「じゃあ、なにかあったらいつでも相談にのるから頑張りなさい、春樹くん」

「はいっ」

 そうして由良と別れ、春樹は寮に帰った。その足取りは軽い。ずっと張り詰めていた気持ちが、仲間がいると知って楽になったからだ。

 部屋に入ると、勇と智也が心配顔で待っていた。春樹は由良のことがあまりにも衝撃が大きすぎて、勇たちのことをすっかり忘れていた。

「春樹くん……」

「勇くん、智也くん、ごめんっ!」

 春樹は頭をさげる。

「ええ? ううん、ぼくのほうこそ」

「俺も悪かったよ」

 二人も頭をさげた。そんな二人に春樹は手を伸ばす。

「仲直りの握手をしてくれる?」

 二人は一瞬戸惑った顔をしたが、すぐにパーッと明るくなる。

「うんっ!」

「はははっ。春樹もなかなかやるじゃん」

 三人は固く手を握りあった。友情の復活だ。その夜は遅くまで語り合った。打ち解けたと思った。

 でも、まだ二人の本当の被害を春樹は知らなかった。

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