参 湖


 半刻(一時間)ほど後、オーストレームから北東に進んだ森の中を疾駆するエリアス兄妹の姿があった。

 その足は里中を走っていた時よりもはるかに早い。


 とはいえ童子に過ぎない彼らの足であるから、当然、風のようにとか目にも留まらぬ、といった速さは全くない。

 しかし木々の間を縫うように走り、倒木を避け、木の根を跳び越え、いっそ獣のように自然に溶け込んだ動きは二人の卓越した資質を示していた。

 顔面に玉のような汗を浮かべながら、けれどエリアスもクリスタも僅かに笑みが滲んでいる。


 どうということもない、ただの競走である。

 しかし、ただ走るだけなのが無性に楽しいのだ。

 人間よりも早く体が成長するアニム族の妹と、人間としては破格の成長過程を踏んでいる兄はこれでちょうどいい勝負なのである。

 それでいてどちらがより早く到着するかという、たったそれだけのことに夢中になれるほどには彼らは幼かった。


 ところでいくらエリアスやクリスタといえど、子供が森の奥地に入っていいのかというと、もちろんそんなわけがない。

 メンカルトゥールと呼ばれる大樹がひしめくこの森は鳥獣ばかりか多くの魔獣が跋扈ばっこしており、中には歴戦の戦士ですら「生き残れるかどうか……」という強者も住み着いているのである。

 子供が踏み込んで良い場所、とはとても言えない。


 もっとも、そのおかげで隠れ里は存続しえているのである。

 その上で狩人や戦士たちが日頃から周辺の魔獣を狩っているから、里の近隣は比較的安全で子供でも薬効のある植物や香草の類を集めに行くことも珍しくはない。


 ところが、である。

 オーストレームを北東に出て、大人の足で歩いて半刻ほどであろうか、大樹の群が豁然かつぜんとしてひらけた空き地がある。


 その景色のほとんどを占めるのは天色あまいろの水鏡。

 森を割るかのように長く広がったハミル湖の静かな水面に映る鏡面世界が現実離れした美しさをたたえている。

 このハミル湖の南側の一角に木々が途切れたところがあって、辺り一面に不思議な勿忘草わすれなぐさが群生しているのである。

 本来、勿忘草というものは勿忘草色というものがあるくらいなのであるから水色に近い青色の類なのだが、どういうことかこの湖の勿忘草だけは鮮やかな白であり、これがまた湖の天色によくえるのである。


 それはさておき、この湖からオーストレームの里を繋ぐ直線上の獣道だけは魔獣の類が一切合切出てこないのである。

 このことは里の大人たちの間で公然の秘密であった。

 それと知った子供たちが好奇心に駆られぬようにという理由である。


 事情を知る信仰心厚い大多数は畏れ敬ってなかなか立ち入ろうとしない。

 逆に伝承に詳しくない者などはこの異常と言ってもいい状態を忌み嫌い、呪いの類だと信じきっているくらいだから当然人の行き来も無いに等しい。


 もっとも、里の最高齢を更新し続け伝承にも造詣深い先代リベラスのアネルマに言わせれば、

「むかーしむかしの伝説と、そいつを律儀に護ってくれる精霊様のおかげ」

 であって、根拠のない風評だということになる。


 実際、アネルマの後を継いだヘンリクや、アネルマと親交の深い里長アルトゥーリ、各地の伝承に触れたことのあるヨウシア夫妻などはむしろこの道と湖に深い敬意すら覚えている。

 そんなわけで、目立つことを避けているエリアスと兄にべったりなクリスタが日頃の修練を兼ねた遊び場としてこの湖を使うことが両親と里長を交えた話し合いで決まったのはむしろ自然なことであった。


 同年代のアニム族と比べても抜きん出た才覚を持つエリアスが里中で遊びまわれば嫌でも目立つことは自明であり、保護者の目が届かないところで面倒ごとに巻き込まれるのもはばかられる。


 とはいえ戦士たちのまとめ役として働くヨウシアも里の外で培った薬師としての腕を頼られるエミリアも日中は手が離せない。

 それぐらいなら魔獣がいない、エリアスたちならば少なくとも逃げ切れる程度の鳥獣しかいない湖の方が「まだマシ……」に思われたのである。


 実のところ、里ではエリアスは少しばかり足の早い、いわゆる“本の虫”だと思われている。

 制限の多い家の外でエリアスができることのうち、彼の興味を引いたのが読書だけというのが本当のところであったが、ともかくそのおかげでエリアスは一部の者どもに蔑んだ視線を投げかけられたり嫌味を言われたりする程度で済んでいるのだ。


 もしもエリアスが頭角を現して、その素質に将来の脅威を夢想した人々が恐怖を抱けばどうなるか。

 里を追い出されるだけならともかく、「殺してしまえ!」となれば血で血を拭うことになりかねない上に、子供達に大きな傷を残すことになると良識ある大人たちはそれを警戒している。


 齟齬そごはあるであろうが、それをこの歳でちゃんと理解し耐えているエリアスも分かって兄を支えようとするクリスタも驚嘆すべき早熟であった。

 これが二人の素質なのか、環境が彼らを育てたのか。

 ヨウシアとエミリアなどは苦い感謝と尊敬の念を愛情と共に兄妹に注いでおり、だからこそ二人が自由でいられる場所を作ろうとしたのであった。


 随分と話が逸れてしまった。

 結局、エリアスとクリスタはハミル湖まで辿りつくのにさほどの時間はかからなかったようである。

 走った時間だけならば四半刻もかかってはいまい。


 勿忘草で埋め尽くされた空き地に転がる二人は汗みずくであったがどことなく満足そうに見える。

 勿忘草の原の中に、一本ポツリと立っている紫丁香花むらさきはしどいの木が兄妹の顔に影を落とし火照る体を日差しから遮っていた。


「あーあ、また負けちゃった」

「ギリギリだったけどね」

「にひひ、私も成長してるんだからね」

「あぁ本当に、ね」


 言いすエリアスの顔に陰が落ちる。

 その目に映るものは悔恨か不安か。日頃の言動に似合わず繊細な少年にとって今日の一件が尾を引いているのは確かであった。

 兄の顔色に何かを感じたのか、クリスタは唐突に起き上がると腰に下げていた木太刀を引き抜いて構えた。


「さぁさ、お兄ちゃん。いざ尋常に勝負!」

「なにバカをやってるんだよ」

「ふふーん、絶対にお兄ちゃんより強くなってみせるんだ」

「……そっか」


 苦笑する兄にそう言いながらクリスタはない胸を張るかのようにして腰に両手を当てて見せた。

 天真爛漫な振る舞いが多い彼女であるが、日頃の事毎に思うところはある。

 その顔色にはえも言われぬ真剣味があった。


「そしたら私がお兄ちゃんを守る! 嫌なこと言う奴なんかぶっ飛ばしちゃうんだから」

「クリスタ……」

「人間だとか関係ないもん。お兄ちゃんはお兄ちゃんなんだもん」


 スクと立ち上がったエリアスは感極まって瞼に涙を溜めた妹の頭にそっと手を当てると優しく撫でた。

 その瞳には先ほどまでの色はなく、ただ愛らしい妹へのぬくもりが宿っている。

 撫でられているクリスタも心地よさげに目を伏せて、垂れた尻尾は緩やかに振られている。


「ありがとうね」

「えへへ、嬉しい?」

「そうだね、俺にはもったいないくらいの出来た妹だよ」

「キュウン」

「……だけど、打込稽古はまだダメだって父さんに言われてるだろ」

「ぶぅぅ。お兄ちゃんのばか」

「あはは、ごめんごめん」


 頬を膨らませながら、ポスンと倒れこむようにして抱きついた妹をエリアスは柔らかく受けとめた。

 無邪気なクリスタはこの兄にはことの外に甘えたがる。

 からからと笑う兄にクリスタは照れたような笑みを見せた。




 それから一刻もしただろうか。

 あれで勉強が昼前には終わり、軽く弁当で昼食を済ませてから里を出てきたのであるからとうにサンテリが顔を出しても良い筈であった。

 紫丁香花の下でどうということのないお喋りに興じ、母のために薬効がある野草を集めたり、素手での組手をしてみたり、たっぷりと遊んだ二人であったがさすがに不安が顔色に現れている。


「ずいぶん、遅いね」

「ああ、もう来ていいはずだ……」


 二人の顔面になにとも言えぬ色が浮かんだその時であった。

 ふわりと勿忘草の原を一陣の清風が駆け抜ける。

 どういうわけか風に巻き上げられた白い勿忘草の花弁が二人の周りに絡まるようにして通り抜け、うたかたの優美な光景が二人を包んだ。


 その刹那の絶景に言葉を失くしこぼれるほどに見開いた両目を潤ませて見入るクリスタとは対照的に、なぜかエリアスの視線は白い花吹雪の中にひとひら混じる小さな紅藤べにふじ色の花弁に惹き寄せられていた。


 息つく間もなくエリアスの頬をかすめて飛んだその紫丁香花の花弁を追って、エリアスはほとんど無意識に振り向いていた。

 吹きすさぶ白の中にあって、エリアスの目には小さな紫がむしろゆっくりと勿忘草の原を突き抜けていく。

 やがて原を過ぎ、木々を抜け、小高い丘の斜面にポカリと空いた洞穴へとその花弁は姿を消した。


「……あ」


 思わず飛び出した声と共に、白く彩られた風は止んでいた。

 すぐそばから聞こえた妹の嘆息にも構わずエリアスはその洞から視線をそらすことができなかった。


(あんなところ、洞穴あったっけ……?)


 エリアスたちがこの辺りに来るようになって随分経つがその穴のことに気づいたことは一度としてなかった。そこそこに離れているこの位置からでも十二分に知覚できる程度には分かりやすく存在しているのに。

 いや、そもそもあの小さな丘もあっただろうか。

 あった、と断言できる自信がエリアスにはない。

 もちろん否定もできない。


 不思議なその光景に、しかしエリアスは気持ち悪さを感じなかった。


「ねえねえ、お兄ちゃん!」

「……あ、あぁ」

「すっごいね! 綺麗だったね!」


 過ぎ去った一瞬の美にいつになく声を上げるクリスタに袖を引かれエリアスは前を向いた。

 その脳裏には先ほどの洞穴の情景がこびりついて離れない。

 吸い込まれるような暗いその入り口はおよそ安心というものからはかけ離れているはずなのに、まるで古い馴染みに出会った時のような驚きと喜びを伴ってエリアスの胸に安らぎをもたらしていた。


「……お兄ちゃん?」


 ひとしきり興奮と感動を表して落ち着いたクリスタがようやく兄の様子に気づき、神妙な様子でエリアスの顔を覗き込んだ。


「おわっ」

「どうしたの?」

「驚かすなよ」

「なんか、すごい顔してたよ。お兄ちゃん」


 奇妙なものを見たという風に首を傾げる妹に、ようやくエリアスは気を取り直した。

 もの言いたげにするクリスタに何か言おうと口を開いたエリアスはしかし、先ほどよりもはるかに小さな風が勿忘草の原を吹いたと同時に口を閉じた。


 それは腥風せいふうとしか言いようのない風であった。


 全身の毛が逆立つような悪寒を感じたエリアスは迷わず腰だめの木太刀を引き抜いてクリスタを庇うように立った。

 日頃の優しげな表情は一変して険しく引き締まったその顔には、けれどどこか焦りが映る。


 いくら心得があるとは言っても、エリアスたちが持っているのはただの木太刀に過ぎない。

 己が身を守るためには心もとない。


 一瞬、兄の急変に呆気にとられた表情を見せたクリスタもすぐにその意味を悟ったのか自身の木太刀を引き抜きつつエリアスと同じ方向を向いて構えた。

 強い戦意を宿したその双眸そうぼうは日頃の鍛錬を感じさせるものである。


 三度みたび、風が吹く。


 種族ゆえに鼻が効くクリスタがまず総毛立った。

 いつもふっさりとしている尻尾が“ぞわり”と毛を逆立て、ほとんど垂直に立ち上がった。

 黄金色の狐耳もピンと高く伸ばしたかと思えば、直後にぐいと前に倒して警戒心を露わにしている。

 唸り声が少女の口から漏れた。


 一方で、エリアスは一瞥いちべつで見て取れるほどに焦りが増大していた。

 読書を一つの趣味にしている彼は、その記憶から掘り出した一冊の内容を想起していたのである。


 知恵の館の片隅に所蔵されるバガリ=アナリウム著の『冥王のしもべ・・・たち』という本にはこう記されている。

 

“其の者、谷より深きうつろ・・・を好み、森焼きはらい、山切り崩す”

“其の者、丈高く巌の如し、性根卑しく足ること知らず”

“其の者、残忍にして暴虐、生き血啜りて、腐肉喰らう”

“常にして腥風もたらし血雨残し、冥王の尖兵にして暗闇運ぶ”

“冥王より生まれ、暗王に育まれ、大地を汚す者”


“其はオルクと呼ばれたり”


 エリアスの視線の先、森の木々がひときわ密になっている辺りが急速に暗くなっていく。

 染み入るようにして広がる影が深く、深くひずんでいく。


 なぜこんな場所にという驚愕、どうすればいいのかという困惑、鈍った決断力はエリアスの足をその場に止め、会敵する前に逃げるという選択肢を奪い去った。


 のっそりと暗がりから現れた巨躯きょくはこの世の凶悪がよどんだ成れの果てを思わせるものであった。

 七尺はあろうかという巨大な体躯はみっしりと筋肉に覆われ、ろう色の肌には紫紺しこんとも蒲葡えびぞめともつかぬ色の血管が浮き出ており、腐った血肉混じりの汚泥がいたるところにこびりついているせいでとても耐えられたものではない臭気を巻き散らかしている。

 骨ばった縦に長い顔面には長太い鼻がでんとして居座っており、突き出た下顎と薄い唇から飛び出た汚らしい歯、それに暗く濁った赤銅色の瞳と釣り上がった眼許めもと相俟あいまって、憎悪とか強欲とかそういった原初の感覚を揺り起こすような顔立ちなのである。


 他に仲間がいるようには見えないのは“はぐれ”だからであろうか。

 とはいえ、それは非力な兄妹にとってなんの慰めにもならなかった。


 ニヤリ、と小さな獲物を見つけたオルクは笑う。


「ッ!! 逃げるぞ!」


 言うや否や、エリアスは唐突な恐怖に全身を震わせる妹の手を取って一目散に逃げ出した。

 反転して走り出す先に見据えるのは先ほど見つけたばかりの洞穴である。


 オーストレームへの道はオルクのいる方であったし、他に逃げようもない。

 たとえそこが見知らぬ場所でも、魔物がいる森の中に闇雲に飛び込んで行くよりかはずっと良い選択肢であるように少年には思えたのである。


「ベルラーガル! ダルダーミア!!」


 エリアスたちには分からぬ、けれどどこかおぞましい響きの言葉を喚きながらオルクも走り出した。

 鉄黒い重厚な革鎧の腰に吊っていた大刀を引き抜いて突進してくる様は悪夢そのものである。


「な、なにあれ……!?」

「冥王の尖兵、オルクだ」

「オ、オルク?」

「そんなことより足を動かして!」

「う、うんっ」


 地響きと共に迫り来る異形に血の気の引いたクリスタを叱咤しながらエリアスは走る。

 一筋、こらえようのない焦りが溢れるように大粒の汗がエリアスのこめかみを伝った。


(……まずいな)


 思いの外、オルクの足は速かった。

 どれだけ急いだとしてもとても洞穴まで無事に逃げられるとは思えない。

 オルクのそれはドタドタとした走り方でこそあるが、その全身を覆う筋肉は驚嘆すべき速度を生み出していた。


「くそっ」


 思わずエリアスの口から呟きが漏れた。

 幸い必死に走る傍の妹には聞こえなかったものの、この状況でエリアスが取れる手段は限られている。


「ダミア! ダルダーミア!!」


 オルクの咆哮はもう然程も離れていない。

 気持ちの悪い吐息の音や口から飛び出す涎すら届くような気がする。

 

 いよいよ己が身を盾にしてでもクリスタを逃さねばならないか。

 全身を灼熱に焦がさんばかりの激情に揺られながらもエリアスは確たる決意を持って振り向こうとした。


 その時であった。

 風が、少年に囁いた。


『大丈夫です、走り続けなさい』


 まるで清廉せいれん神楽鈴かぐらすずが奏でるような不思議な音がエリアスの耳を撫でたのである。

 その奇妙な声に後押しされ、しかし拭い切れぬ恐怖に少年は走りながらも肩越しに背後を振り返った。


 視界を、風と水がほとばしった。


 突然に泡立った湖の水面から首をもたげるようにして寄せた波が虚空へとその身を打ち付けると、無数の水滴と共に疾風はやてを吐き出したのである。

 疾風は原を吹き抜け、勿忘草と紫丁香花を纏い、螺旋を描きながら追走するオルクを穿うがった。


 眼をみはって驚愕を露にしながらも、急制動と同時に身構えたあたりはさすがに冥王の尖兵などと仰々しく言われるだけのことはあったが、それまでであった。

 疾風はオルクの全身を打ち据え、無数の葉が切り裂き、水滴と花弁が焼いたのである。

 只人ただびとにとっては無害なはずのそれらは、オルクの足を止めさせるに十分な働きをしたのである。


 青、白、紫、緑、見目にも彩り鮮やかな風が不思議な力でもってオルクを防ぎ止めるその光景に少年は刹那、見惚れた。

 それはまるで神話の一瞬を切り取った一幅の絵画のような美しさをもってエリアスの網膜に焼き付いたのである。


「お兄ちゃん!」

「……っ」


 知らず疎かになっていた少年の足取りが、妹の叫ぶような声に引き戻される。

 奇妙な風に救われて二人はどうにか洞穴へと飛び込んだのであった。

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