弐 学び舎


 畑沿いの畦道あぜみちを二人の子供が駆けていく。

 言うまでもなくエリアスとクリスタである。


 リネン地のチュニックとゆったりとしたズボンを身にまとっている。

 手首と脛には革の籠手と脚絆ゲートルを着けている辺りがなんとも剣術好きの二人らしい。

 二人の腰で揺れるショルダーバックには小物の他に簡易の筆記具が入っている。


 子供の足でも歩いて四半刻ほどあれば家から里の中心部へ出てこられる。

 それを、日夜野山で駆け回り己を鍛え抜こうとしている二人が走るのだからその半分の時間もあれば充分であった。

 やがて畦道はしっかりと踏み固められた道路へと変わり、両側に木造の家屋が立ち並ぶようになる。この近辺まで来ると小洒落た造りの建物も多くなり、石垣や漆喰を組み合わせた商店通りは見目にも楽しいものである。


 しかしながら、ひた走る二人の視線の先にあるのは一本の大樹である。

 オーストレームの真ん中にどっしりと居座るこの樹はアニム族がこの辺りに入植した頃にはすでにあったという長老樹である。

 名もない樹ながらもただ“大樹”と呼ばれて皆に親しまれており、言うなればオーストレームの象徴のようなものである。


 この樹に寄り添うようにして小さな館が建てられたはいつの頃だったか。

 その時分にはまだ“大樹”も今ほどには大きくなかったようだが、不思議なことに樹が育つにつれてこの館のほとんどは“大樹”の中に取り込まれ、やがて玄関だけが洞から出っ張るようにして綺麗に残ったという。


 元は一族の長の館であったそれはアニム族の伝承を書き残す場所になり、幾千の本が残され、この里が“アニム族最古の隠れ里”などと呼ばれるようになる頃には“知恵の館”という名がついたのだとか。

 今では、そういったことを里の子供たちに教え育てるための学び舎としてなくてはならぬ場所になっている。


「おや、エリアスにクリスタじゃないか。おはようさん」

「おはよ。ファンニおばさん、今日も綺麗ね!」

「あらやだ、大人をからかうんじゃないよう」

「まーた、兄貴が寝坊したんか。朝から元気だのう」

「おはようございます。アスコおじさんはうるさいよ!」

「がははは」


 店を開けようと準備していた肉屋夫婦が声を掛け、二人も笑顔で答えながら走り抜けていく。

 陽気で働き者な商店通りの連中がその手は止めずに微笑ましく顔を向け、時には挨拶を交わしてくれる。

 愛想の良い二人はこの辺りではことの外に可愛がられていた。


 通りを駆け抜けたエリアスの手が、クリスタよりも一瞬早く“大樹”の幹に触れた。


「あー、また負けちゃった」

「あはは、兄貴は妹の目標じゃなきゃいけないからな」

「なにそれ」


 クスクスと笑いながら兄妹は思い思いに体を休ませた。さすがに、じんわりと汗ばんでいる。

 自然と互いの視線が交錯した時であった。

 白木造りの瀟洒な扉がついと開き“知恵の館”の中から白藍しらあい色と紺青こんじょう色のローブを纏った青年が出てきたのである。


「おはようございます、エリアス、クリスタ」

「あ、おはようございます!」

「おはよー、先生」

「遅刻しないのはいいことですが、余裕を持って行動してくださいね」

「でもね、あと少しでお兄ちゃんに勝てそうなの」

「おや、クリスタも随分早くなったんですね」

「そう簡単に負けないやい」

「あはは」


 柔和な笑顔を浮かべるこの小柄な青年、名をヘンリクという。

 先生と呼ばれるようにこの館で書の守り番をしながら子供達にもの・・を教える仕事をしており、こういった役職をアニム族ではリベラスと言うのであった。

 明るい鈍色の髪色と銀細工の片眼鏡が知的な印象ながら人好きする笑顔と分かりやすい教え方で里の人々に親しまれている。


 親しまれてはいるのだが、

(あの奔放な先代からどうやったらこんなに良い子が……)

 という思いが含まれているのも確かである。


「さて、そろそろ始業時間です。中に入りましょうか」

「はーい」


 背を向けたヘンリクのローブの端から鼠の尻尾がはみ出している。

 ゆらゆらと揺れるそれを追って、二人も館の扉をくぐった。


 館の玄関はかつての名残かそれなりに広い楕円形の造りになっており、左右の壁際には二階へと続く階段がある。二階はリベラスの私室があり、よほど貴重か古いか、はたまた特殊な書籍に用でもなければ訪れる機会もない。


 三人はエントランス正面、観音開きの重厚な扉の先へと進んだ。

 既に建築当初の面影はこの部屋に残っていない。

 利便性のために遥か昔に柱を残して壁は取り払われてひと続きの広間に作り変えられた上、壁のほとんどは“大樹”が侵食したかのような様相で、さながら大きなうろの中に後から部屋を作ったようにも見える。

 それでも不思議なもので樹は決して本棚や家具を飲み込むことはなく、床も薄萌黄色の羅紗らしゃ張りがそのまま残っている。


 放射状に整然と並べられた本棚の中央は元気なクリスタが走り回れる程度に円形に空いており、今は四人の子供が柔らかなクッションで車座に座っていた。

 少し離れて一人座っていた気弱そうな少年が嬉しそうな笑顔で手を振った。クッションから飛び出した黒豹の尻尾と頭頂部の耳がピンと立っている。

 見れば、その横には二人分のクッションが確保されていた。


 この少年、兄妹の親友サンテリである。

 濡羽ぬれば色の髪のしどけない美しさと、幼いながらも精悍な顔立ちなのだがそこに滲む気弱さがなんとも「愛執あいしゅうを誘うような……」なさけなさなのである。

 それでいて里では珍しくエリアスの出自に一切忖度そんたくしない度量の深さもある。

 そういう居心地のいいところを兄妹はいたく気に入っている。


「私こっち!」


 元気よく走り寄ったクリスタが早々に席を取った。

 エリアスのために空けた席をサンテリとクリスタで挟む形である。


「おはよ、サンテリ」

「おはよう、二人とも」

「いつもありがとな」

「そんな、こっちこそ……」


 何が恥ずかしかったのか照れて俯くサンテリに苦笑しながらエリアスが近寄った。

 と、聞こえるか聞こえないかの程度の舌打ちが響いた。


 眉根を寄せたヘンリクの視線がサンテリの向かいに座る三人に映った。

 左からアッツォ、ラッセ、イスモの順に並ぶ彼らはエリアスたちとは相容れない間柄である。

 

 一番小柄な少年ラッセは細面の団子鼻で、そのつり目がいかにも斜に構えたラッセの性格を表しているようにも思える。

 蜜柑みかん色の髪の毛から飛び出た尖った猫耳をピクピクと動かすのが癖であり、ことあるごとにエリアスに噛みつくのである。


 ラッセの隣に座っているのは弟のイスモである。

 五尺を優に超え、同年代からは一つ抜き出たその体躯を縮ませるようにしている。

 丸顔で福々しい顔つきであるが別段太っているわけではない。むしろ、その長身を鑑みれば痩せているといっても過言ではない。

 ぼんやりとした挙動と喋り方は少しばかりとろい・・・ようにも見えるのだが、垂れ目から覗く瞳は殊の外思慮深い光を湛えている。


 最後に残ったのがアッツォである。

 横に寝た丸っこい猫耳がなんとも特徴的で、紺鼠こんねず色の癖っ毛が目立つ紅顔の美少年ながらどこか拗ねたような傲慢さが透けて見える。

 従兄弟の二人を配下のように引き連れて歩くことが多く、同族の中でも意見が分かれるような振る舞いの少年である。


 あまり口を開かないイスモはともかくとして、アッツォとラッセは若い者の中では顕著な人間嫌いなのである。

 先の舌打ちが彼らのいずれかであることは確かである。

 しかしエリアスは何も言わずにクッションに腰掛けた。


 この程度のことを気にしていては人間がこの里で生きるのは難しい。

 人通りに混じれば不躾な視線や態度に接することもある。数は多くないが正面から文句をいう者とているのが現状である。

 少年が年に似合わぬ落ち着きを身につけたのも必要ゆえであった。


「さて、今日は何の話をしましょうか」


 空気を変えるように口を開いたヘンリクの声色は努めて明るい。


「うーん、そうですね。それじゃあこよみの話をしましょう」

「こよみ?」

「ええ。それじゃあまずはラッセ、今年は何年でしょう?」

「三二四三年」


 問いかけられてラッセが言い捨てるように答えた。

 何が気に入らないのか、その表情は小馬鹿にしたようにも見える。


「そうですね、正解です」

「それがどうだっての?」

「では聞きましょう、どうやって最初の一年目を決めたんでしょうか」

「どうって。……そりゃ誰かが決めたんでしょ」

「それではいったい、誰が?」


 ヘンリクの言葉に子供達は押し黙った。

 生意気盛りのラッセすら、苦いものを飲んだような顔で思索している。

 こういうところは生来真面目なアニム族である。


「もっと言いますと、一年が十二ヶ月と決めたのは、一週間を六日に決めたのはなんでしょうか」

「それが、暦?」

「正解です、クリスタ。つまり……」


 うまく誘導しながら子供達にも分かりやすく教えるヘンリクの言うことをおよそまとめると、


 今から三千年以上前、暗王決戦があった頃の古代の王国セオドの二代目国王だったルドルフ王の肝いりで制定されたこの暦はその名を冠して“ルドルフ暦”と呼ばれている。

 初代国王の即位を紀元とした紀年法と太陽歴による暦法を備えており、数度の修正こそ入ったものの未だ大きな瑕疵かしなく機能している優秀な暦であることは歴史が証明している。

 一年を三百六十五日とし、四年に一度の閏年を定め、十二ヶ月のそれぞれに神話の賢者達の名前を当て、当時すでに広く膾炙かいしゃしていた六曜制を正式に採用して一週間を六日に分けて神々の名前を当て、さらには一日を一二等分した時法を提唱したこの暦は今でも大陸中で種族の違いなく使用されている。


 ということになる。


 日本ならば中学生にもならない年齢の子供たちが学ぶには小難しい内容ではあったが、ヘンリクの教え方がいいのか生徒の真面目さのおかげか、皆それぞれに考え納得し紙片に自分なりのメモを書き残していた。


「さて、このルドルフ暦に従うと今日は|ファノエ(二月)三十日のムートラとなります。……そレではイスモ、みんなはどうやってそれを知るでしょう?」

「…………ファス、ティ」

「そう、正解です。この里のほとんどの家にはその年の暦を書いたファスティがあります。実はあれは僕と引退したアネルマさんで毎年作っているんです」

「よくやるよな。タダで配ってるんだろ?」

「あはは、アッツォも正解です。だけどこの館は里のみんなのおかげでやっていけているんです。ちょっとした恩返しですね。それに自作のファスティだって珍しくない。人によって創意工夫がされていてなかなか見応えがあるものもあるんですよ!」

「ふぅん」


 勢い込んだヘンリクの言葉に、けれどアッツォはつまらなそうに息を吐いた。

 実のところアッツォは自作のファスティなど見たことはなかったし、見たところで面白いものだとは思えなかったのである。


 ヘンリクはどこか縋るような目で他の子供たちを見渡した。

 さすがに同意しかねるのかエリアスたちも目を逸らし、ラッセに至っては堂々と首を振って否定している。

 幾分寂しそうな表情を浮かべる青年に優しい言葉をかける者はいない。


「さ、さて、少しばかり話がそれましたね」


 態とらしいまでに仕切り直したヘンリクに、さすがに追い討ちはない。


「せっかく暦のことを学んだし、ついでにルドルフ王のことも話しましょう」

「暦を作った王様のことですか?」

「正解です、サンテリ。なにせ三千年以上も前、皆が言う“古代”の人です。あまり詳しいことはわかりませんが、それでも一応のことは伝えられています」

「セオド王国。確か今のガウル王国の東、霊峰の北にあったていう国の王様だよね」

「よく勉強していますね、エリアス」

「ふんっ、本を読むしか能がないだけじゃん」

「ラッセ!」

「はーい」


 ヘンリクの叱咤に、しかしラッセは謝るつもりもないようであった。

 エリアスもまた仕様のないことと思っているのか無視しているようで、けれど何も感じていないわけではないのはその目を見れば分かる。


「……それじゃあエリアス、セオド王国がどんな国だったか知っていますか」

「えっと、暗王決戦の時に活躍したって。おとぎ話とか絵本とか叙事詩とか、いろんなので題材にされてるよね」

「うん、その通りです!」


 嬉しそうにそう答えるヘンリクにエリアスは照れたように笑みを浮かべた。

 ラッセやアッツォなどは渋い顔を隠そうともしていない。

 ヘンリクは幾つかの詩編や物語を上げながら王国の話をしてみせるとお終いに一つの逸話を口にしたのである。


「幾つかの古い文献や聞き伝わっている伝承によると、セオド王国はまさに“王道レース楽土ウィルトース”だったと言われています」

「レース、ウィルトース?」

「そう。理想的な王様の元で、公平で平和な国が作られていることを意味します。もともとルドルフ王のお父さんが創った言葉ですね」

「分かるような、分かんないような」

「ふふ、少なくとも公平であったのは確かですよ。セオド王国ではアルヴもドヴェルグもアニムも人間も差別なく暮らしていたようですから」

「そりゃ、……すげえな」


 どこか憮然としつつも、アッツォが驚いたのは無理のない話であった。

 今では亜大陸のどこに行っても大なり小なり種族同士の諍いがある。

 異種族迫害を行ったガウル王国はもとより、霊峰の向こうにあるローム帝国をはじめ多くの地域で大なり小なり摩擦があるものだ。


 各地に存在するドヴェルグやアルヴ、アニム族の集落とて閉鎖的で、長い辛酸の歴史が彼らをなお頑なな態度にするのである。

 このオーストレームであってもそれは同様であった。


「そんじゃ、そのルドルフ王ってのはアルヴだったのか? なんかドヴェルグって感じでもねえし」

「いや、確か……」

「ひょっとしてアニム族じゃねえの。それかご先祖さま」

「ところが、そのどれでもありません。ルドルフ王はメナス族です。人間族の先祖と言われている種族ですね」


 エリアスの呟きを遮ったラッセが露骨に嫌そうな顔を浮かべた。

 一瞬驚いた顔を見せたアッツォもヘンリクの説明を聞くとじきに不機嫌そうにそっぽを向いてしまった。


 ひっそりと、ヘンリクが溜息を溢した。

 彼らの人間嫌いはもはや思い込みと言っても違いない。人間という言葉がつくものには端から嫌悪をむき出しにするのだ。

 この里の中で済むのならば良いが、ことメナス族のことは少しばかり問題がある。


 長きに渡り確執を抱えてきた人間に対して悪感情を抱くのは仕方ないにしても、メナス族はその卓越した能力もさることながら清廉で誇り高い性格であり過去にはアニム族も幾度となく助けられている。

 古代から偉大な王を数多く輩出する種族でありながら、この時勢に至っても他種族との繋がりが広く深い奇特な人々でもある。


 人族に比べればずっと少ないが今も市井に混じって生きており、オーストレームからずっと西へ行ったところにあるコントゥラータという場所では大規模な集落もあると聞く。

 まして彼らの中には時折この里を訪うものもいるのだ。もしもアッツォたちが彼らに出会ったら、ぞっとしない話である。


 いかにして彼らの誤解を氷解させるべきか。

 ちょっとした難題に頭を悩まされていたヘンリクは、“メナス”の名前が出てからにわかに豹変しつつあった人物を見落としてしまった。


「いいですか。勘違いしているようだから言っておきますが、メナス族は他の種族に対して迫害を行ったことは一度としてありません。それどころか我々アニム族からしても多くの恩があります。間違っても彼らに喧嘩を売るような真似だけは……」


 ついつい冗長な口調で説教するヘンリクに、アッツォもラッセも憮然として不満を隠そうともしなかった。


「んなこと言っても人間の先祖なんでしょ、似たようなものじゃん」

「ラッセ、それは違……」

「ふん。人間がまともなわけないだろう。そのメナスってのも、こいつと同じ脆弱な恩知らずに決まってる! どうしようもない三下さ!」

「なっ……!?」

「アッツォ!!」


 あまりといえばあまりの言いようにヘンリクは絶句した。


 その間隙を縫って大音声を上げたのは、眉根を寄せて何かを言いかけたエリアスでも目を潤ませて怒りに震えていたクリスタでもなく、意外なことに最もおとなしいサンテリであった。

 真っ赤になった顔色に日頃垂れている眉先を釣り上げ、立ち上がったその背中の仄かに膨らんだ尻尾と前方へ伏せた耳が怒りのほどを表している。


「おじさんを! 僕の親友をバカにするな!」

「サンテリ……?」

「はっ、急に喋ったと思ったらそれか。いくじなしに何が分かる、人間風情はアニム族の下についていればいいんだ!」

「このっ……!!」


 柳眉りゅうびを逆立てたサンテリは、溢れ出る激情に突き動かされた。

 およそ自己主張らしい自己主張というものをしない少年の変容は困惑と驚きをもたらし、ヘンリクはもとより多少なり鍛えているエリアスやクリスタですら一瞬出遅れたのである。

 まして、慢心していたアッツォたちはなおさらであった。


 つんのめるようにして飛び出したサンテリにアッツォの体がよろめき倒れた。胸元を狙った拳の一撃はさすがに逸らされたものの、それでも思いのほか強く左肩を捉えたのである。


 直後に、兄妹が同時に飛び出した。

 血が上ったまま襲い掛かろうとしていたサンテリに抱きつくようにしてクリスタが組み付き、エリアスが目前に回り込んで押さえ込んだ。

 さすがに数年来の親友の顔が目の前に飛び込んできては意表を突かれたのかサンテリの真っ赤な顔からゆっくりと血の気が引いていく。


 ほろほろと、落涙がサンテリの頬を伝う。

 未だ年若い少年が内包する思いをエリアスたちは知らない。

 容易に踏み込めるものではないと分かりつつも胸中に苦いものが湧き上がる。


 そうして何かを口にしようとしたエリアスは、しかし不意に反転すると目前に迫る拳を全身で払うようにして受け流した。

 自然、ふかふかとした床に転がったのはアッツォの方であった。

 その目は怒りに燃え盛っていて我を忘れているのが一目で見て取れる。

 駆け寄って助け起こそうとしているラッセもまた憤怒を隠そうとはしていなかった。

 ただ一人イスモだけがその場から立ち上がってオロオロとしている。


「このやろうっ……!!」

「ヘルミアクア!」


 再燃したアッツォが起き上がろうとするやいな凛とした声が響いた。

 直後、いずこともなくあらわれた緩やかな水流が拳を握りしめた少年の顔を直撃した。鈍い叫び声を水泡に巻かれながらアッツォは床の上に二度転んだ。


「そこまでです」

「先生!」


 先ほどまでの狼狽はどこへやら。確りとした顔つきに厳しい表情を乗せたヘンリクは小振りなステッキをまっすぐと構えていた。

 荒事にはとんと縁のない青年ではあるが実のところ魔法を遣わせれば、


『まぁ、あれほど実直で美麗な魔法の遣い手は昨今なかなか珍しいね』


 諸国を遍歴した経験を持つヨウシアをしてもそう言わせるだけの逸材なのである。


「なにすんだッ!」

「アッツォ、さっきの言葉はとても許容できるものではありません」

「な……!!」


 愕然として動かないアッツォは捨て置かれ、ヘンリクは厳然とした視線をサンテリに移した。サンテリもまた頭が冷えたのか悄然とした面持ちで涙を拭おうともしていない。

 その様子を見てヘンリクはステッキを下ろしながら徐ろに口を開いた。


「サンテリ、理由はどうあれ暴力はいけません。叱られる覚悟はできてますね」

「……はい」

「それじゃあ二人とも、里長のところに着いてきてもらいます」

「俺は何も悪いことはしてないだろ!」

「言い訳はアルトゥーリ殿のところですることです。自覚はないでしょうが君の発言は非常に危ういものだし、当たらなかったとはいえ反撃しています。自己責任のある大人ならともかく、子供である以上これは里長預かりのことです」

「うっ……」


 とうとう項垂れたアッツォとサンテリを引き連れ、残る生徒たちに終業を言い渡したヘンリクは館を後にした。

 さすがにこれ以上騒ぐのはまずいと思ったのかアッツォたちも何も言わないが、それでも恨みがましい視線をエリアスに向けていた。


 肌を刺すようななんとも言えない空気が一室を満たす。

 先に耐えられなくなったのはどうやらラッセの方であった。苛立ちを隠そうともしない声音で弟を促して足音も荒く退室していく。


 イスモも慌ててそれを追いかけ、部屋を出る直前にエリアスとクリスタにそれぞれちょこんと頭を下げた。

 年齢に見合わぬ巨軀でそういう動作をされるとどうにも毒気が抜かれるものである。

 先ほどまでの張り詰めた二人の顔色も一気に柔らかくなった。


「サンテリ、大丈夫かな」

「ああ」

「そうかな?」

おさなら喧嘩両成敗、拳骨一発で終わりなんじゃないか」


 実体験のある啓吾は苦笑しながらそう答えた。


「そっか……。なんだか、気が抜けちゃった」

「そうか? なら今日はもう家に帰ろうか」

「えー、やだよ。今日も行くの」


 急に爛々とした眼光を宿したクリスタの姿にエリアスは思わずクスリと笑いを溢した。

 つい先ほどまで泣きそうになりながら義憤に駆られていたのをケロリと忘れているようにも見える。


「サンテリはどうするんだよ」

「いつもの場所にいたらすぐに来るんじゃない?」

「それもそうか」

「すぐに行く?」

「バカを言うなよ、ラッセが出てすぐだぞ。少し待ってからにしよう」

「はーい」


 仲良く騒ぐ兄妹は、扉の向こう側でラッセたちが二人の会話を耳聡く聞き留めていたことに気づくことはなかった。

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