第一章 転生した剣客
壱 家族
ルドルフ暦三二四三年、レナシル亜大陸の西を抑えるガウル王国は平地と山地が入り混じりつつも肥沃な農地と有力な領主や騎士を擁する大国であった。
国中を席巻した異種族迫害に端を発し百年以上前に勃発した“迫害紛争”を皮切りに、紛争で低下した王権と地方領主達との諍いや海を挟んだ隣の七王国との領地を巡っての戦争を経て、三二二六年にロベールⅠ世が即位するまでこの国は激動の歴史を歩んできた。
その長い乱世が精兵を育て国家を強くし現在の大国へと拡大する切っ掛けとなったのである。
さて、このガウル王国の南東には霊峰と呼ばれるアルプ山脈の西端があって大小の山々や深い森に囲まれている。
その中でもガウルの隣、ローム帝国との国境にほど近い大樹が生い茂る森メンカルトゥールは群を抜いて古い森であり地元の猟師や冒険者でも立ち入ることのない土地であった。
このメンカルトゥールの森のさらに奥深くにアニム族最古の隠れ里“オーストレーム”がひっそりと存在している。
無数の古樹と猛獣や魔獣に守られた深奥にポツリポツリと拓けた平地があって、これに堀や塀を巡らせてその中に集落を構えたものがいくつかある。
オーストレームはこれらの中核として長らく森を鎮守してきたのであった。
動物と同じ耳や尻尾を持ち、卓越した素質を秘めた肉体を備えるアニム族であってもこの森に暮らすのは並大抵のことではないのだが、太古の先祖から連綿と続く里を捨てるようなことはできなかったのであろう。
その歴史は先史時代にまで遡るというのだから相当なものである。
一方で、人族の社会から隔絶した苛酷なその環境が幾度もこの里を外敵から守ったのも事実である。
実際、先の異種族迫害や紛争においてもオーストレームは侵攻されることなく、里から送り出した援兵の他に大きな被害もなかった。
それゆえこの里は保守的ながらも平穏な時を刻んでこられたのである。
ところで、この里の東に見える山脈から一年を通して
この川が流れている辺りは
アニム族というのはもっぱら狩猟と採集を得意とする種族ではあるが、それは決して文明の程度が低いというわけではない。
現にリーウス川の両岸は石積みの堤が張り巡らされ、遊水池や木製の農業用水が引かれているのが見て取れる。
そのリーウス川の上流、遊水池近くの堤内に小さいながらも瀟洒な白い家屋がある。
背が高くなりすぎないよう整えられた樫の木に囲まれており、二階建ての木造はなかなか悠然としている。その外壁にはたっぷりと漆喰を使われ、傍目にも
「エーリーアース!」
「うぐっ」
今、その家の一室で二人の子供の声が響いた。
ベッドに寝ていたエリアスの上に元気よく飛び掛ったのは妹のクリスタである。
この頃の一般的なベッドというものは木製の土台の上に柔らかな毛皮や毛布を厚く敷いたものであるからして、これはなかなかに「痛い!」ものであった。
クリスタは兄の上に堂々と横になり、楽しそうに顔を見上げる。
八歳になろうかという歳の割にはしっかりとした躰つきは種族特有のそれであり、母親譲りの端正な顔立ちにはいたずら小僧のような笑みが浮かんでいる。
エリアスの胸元に零れ落ちる肩口まで伸びた髪は
一方で毛布に包まって
襟元まである霞色の髪とクリクリとした
九歳という年齢に見合ったその体格は他に比べれば相対的に小柄な方で、それゆえにこの
「うぅ、痛いよクリスタ」
「だってエリアスはこれくらいしないと全然起きないんだもん」
「い、言い返せない……」
「そんなことより、鍛錬の時間だよ! お父さんが待ってるよ!」
「嘘だろっ、もうそんな時間!? 怒られる!」
「あはは、だから言ったのにぃ」
慌ててパジャマ代わりの貫頭衣を脱ぎ捨てて着替え始めるエリアスを眺めながらクリスタは楽しそうに笑い声を上げた。
どうにも朝に弱い体質のこの兄は、定期的にこうして寝坊しては妹に起こされている。
エリアスとしてはなんとも恥ずかしいことである。
それでいて、もう一方のクリスタは日頃しっかり者の兄が唯一見せる可愛らしい弱点が気に入っているのだから仕方もない。
「もう行くよう」
「あ、ちょ、ちょっと待って。今行くよ」
「じゃあ、十秒だけ」
「そりゃないよ!」
「いーち、にーい……」
「わ、わ、今行くったら」
どうにかクリスタが十を数え終わるまでには準備を終えたエリアスは、こけつまろびつしながら妹を追いかけた。
慌てて準備したにしてもきちんと上下を着込んで革鎧を装備した姿はさすがに両親の教育が行き届いているのが見て取れる。
「あらあら、ふふふ。エリアスのお寝坊さんかしら」
「うっ。お、俺急いでるから!」
「あー、お兄ちゃんが照れてるー」
「うるさいよ!」
「けがしないようにねー」
二人が裏口から飛び出すようにして庭へ出ていく。
ランプの柔らかい光に照らされた台所から母エミリアが笑顔で見送っている。
この家の裏庭は大部分が剥き出しの踏み固められた地面であるが、南側の一角には多種多様な草花、香辛料になる植物やハーブの類が見目にも整った様子で植えられている。
エミリアのちょっとした趣味である。
その庭に、未だ長鳴き鳥も起き出す前から父ヨウシアがいた。
エリアスとクリスタよりも半刻(一時間)余りも早くから、暁の前の仄暗い只中で無駄口の一つも叩かずにただただ黙然と木太刀を振るっている。
その六尺ほどもある体は無駄のない引き締まった体躯なのだが、ゆったりとした衣服はむしろヨウシアに線の細い印象を与えている。
鼻筋の通った顔立ちはすっきりとしており、まさに“
日頃柔和な物腰と優しい笑顔が目立つ男ゆえに、ひとたび剣を持った途端に刃物のような鋭利さと氷山のような緊張感を
ヨウシアには木々の揺らぎも鳥虫のざわめきも聞こえていない。
ただ黙然と木太刀を振るう。
正眼に構えた木太刀を、上段に移し刹那に振り下ろすのだ。
滑るように前進したヨウシアの体は無駄な力が抜けており、“斬る”瞬間に集中した動きが木太刀を加速させ美しい軌道を見せていて、寸分違わず同じ軌道を描いて上段の構えに戻りながら後退するとピタリと元の姿位置になっている。
そうして、また同じことを繰り返す。
春先のまだまだ寒さが残る時期とはいえ、ヨウシアは汗ひとつかいていない。
そこへ、バタンと大きな音を立てて兄妹が飛び出してきた。
二人が出てくることをとうに気づいていたヨウシアは驚くこともなく、さすがにまだまだ九歳と八歳の子供に叱るつもりもない。
ただ一言、「遅い」と告げるのみである。
とりわけ大きな声でも苛立った声音でもないのだが、子供たちはびくりと体を震わせると異口同音に、
「ごめんなさい!」
と口にして、それぞれに自分の木太刀で父に習った。
曲がりなりにも剣を学び始めて四年足らず。
素振りと型稽古しか教えられていないとはいえ、父親の両脇で木太刀を振るう様はなかなかどうして堂に入ったものである。
実のところ、ヨウシアは七歳頃になるまでは、と思っていた。
ところが、何が駆り立てたのか、エリアスは物心がついた頃から剣術に非常な興味を示したのである。
余りに熱心なエリアスに先に根を上げたのは両親の方である。
一度やってみればすぐに嫌になるだろうと稽古をつけてみたところ、まるで水を得た魚のように生き生きと剣を振るうのだから仕方がない。
(こうなった以上は……)
とばかりにヨウシアの方が思い直したのである。
兄にべったりのクリスタが「私も!」と言い出したのもすぐのことで、半ば諦めまじりに稽古をつけてみればこちらも実に楽しそうに剣を振るのである。
「子供の成長を喜ぶべきか、もっと子供らしくあって欲しいと悩むべきか」
いつであったかパイプをやりながら愚痴をこぼしたヨウシアに、妻エミリアは苦笑を返すことしかできなかったものである。
朝靄の突き刺すような冷気の中、正面、袈裟、逆袈裟、胴など計二百本の素振りを終えた兄妹に合わせてヨウシアは木太刀を止めた。
これからヨウシアが打ち手となってエリアスとクリスタ交互に型稽古をつけるのである。
「よろしくお願いします!」
声を上げる二人の衣服は既に汗みずくであったが、まさに意気軒昂の面持ちである。
末頼もしい子供たちに、涼しい顔をしたヨウシアはしかし満足げに頷いてみせた。
結局、いつも通り半刻ほどで稽古は終わった。
二人は息も絶え絶えで、庭の片隅にある井戸で水浴びを済ませた頃には既に清々しい朝を迎えていた。
「ふぃー、気持ちいー」
「あはは、おじさんみたい」
「言ったな!」
「こらこら、じゃれてないでこっちに来なさい」
肌着一枚で追いかけっこでも始めかねない様子である。
そんな兄妹を
卓越した剣術遣いとして知られるこの男も、剣を離れ子供を前にすると心優しい父親である。
一足先に水浴びと着替えを済ませたヨウシアが、長髪を瑠璃色の髪紐で縛りなおして兄妹の支度に掛かる。
溢れるように笑うエリアスもクリスタもまた無邪気なものである。
そこはそれ、まだまだ子供らしい可愛さの残る二人であった。
三人が裏口を潜った時にはすでに食卓の用意ができていた。
ちょうど小振りな鍋に入ったスープを机に乗せたエミリアが笑顔で出迎える。
「おつかれさま」
わずかに傾げた
どこかあどけなさを残す
「ただいまっ」
飛びつくようにしてクリスタが母親に抱きつき、一歩遅れてエリアスもはにかみながら抱きつく。
「んー、お母さんの匂い大好き!」
「あらあら、甘えん坊さんね」
「ううん、お兄ちゃんにはかなわないよ」
「なんだよバカにして」
そうは言いながら、エリアスも母から離れようとはしない。
大人ぶる癖のついている少年も家族の前では童心に帰り、とりわけ包み込むような優しさを体現するエミリアにはすこぶる甘える。
それが妹には面白いし嬉しい。
一方の父にとっては少しばかり寂しい。
師弟でもある以上仕方がないとは分かっているのだが。
「さ、そろそろご飯をお食べ。勉強の時間に遅れるよ」
苦笑気味にヨウシアが声をかけてやっと皆が食卓についた。
アニム族は朝食を重んじる。
机の上はなかなかに豪勢な装いである。
この日はこんがりと焼いたバケットにとろとろに溶かしたチーズを垂らしたもの、季節の野菜を煮込んで塩とハーブそれもとりわけコリアンダーの葉と果実を利かせたスープ、それに
さすがにエミリアは包丁もよく遣うようである。
とりわけヨウシアなどは、オーストレーム全域で飼育されているモンスという大型のヤギのような獣の乳から作られるチーズやバターをことのほか好んでおり、
「あぁ、独特の香りとコクの強さがもう……」
などと言ってはばからない。
いまも、
「んー、おいしー!」
「クリスタ足を揺らすなよ、行儀が悪いぞ」
「ぶー、お兄ちゃんだってだらしない顔してるじゃない」
「どういう意味だ」
「そういう意味だよー」
「これ、二人ともよさないか。まったく忙しないな」
「ふふ、相変わらず仲が良いわね」
益体もないことを言い合いながら競うようにかっこむ二人をヨウシアもエミリアも微笑ましく見守っている。
幸せを絵に描いたような家族の団欒がそこにある。
いよいよ時間が怪しくなってきたエリアスとクリスタは程なくして慌てて出かけて行った。
二人を見送ったヨウシアとエミリアは穏やかに朝食を終えて一休みしている。卓上は既に片付けられてハーブティの入った茶碗があるだけであった。
月白色の狐尾と黄橡色の狼尾がゆらゆらと仲良く揺れている。
「ちょっとごめんよ」
徐ろにヨウシアは腰のポーチからパイプを取り出した。
細長いチャーチワーデンのオリーブパイプはシャンクの部分に振り返った狐がなかなか緻密に彫り込まれていて実に美しい。
心得たもので、エミリアが裏庭に面した小窓を開け放ちに行った。
灰皿片手に彼女が戻ってきたのは、ちょうど良い具合に煙草を詰め終えたところであった。
ダンパーを左手にパイプを咥えたヨウシアが右手を持ち上げた。
と、その人差し指に小さな火が灯ったのである。
ヨウシアは熱がるそぶりも見せずに
やがて満足したのか、右手を軽く振るって火を消して仄かな紫煙を遊ばせた。
本来ならそのままたゆたうはずの煙が、これまた一定の距離を離れた途端にまるで何かに導かれるように小窓から外へと運ばれていく。
そうして甘い上等なブランデーのような香りだけがヨウシアの周りから漂った。
「いつもごめんなさいね」
「なんの、私の趣味なのだからこれくらいはさせておくれ」
「ふふ、ありがとう。あなた」
「あはは、これはなんともこそばゆいね」
エミリアはどうにも煙草が苦手である。
匂いはそうでもないが煙がいけない。
こればかりは我慢できないのだが、といってあまり我儘を言わない夫の趣味までは口を出したくない。
そういうことをよくよく心得ているヨウシアはいつも魔法を使って互いに心地よく過ごせるように気遣っている。
先ほどの不思議な光景はそれゆえであった。
それではヨウシアのような魔法が普通か、というとそうでもない。
ドヴェルグ族やアルヴ族は言うを待たず、アニム族もまた精霊信仰が厚い種族であり従って魔法を十分に遣う者が多い。
ところが、この二人ほどになるとこの里にも数えるほどしかいないのだ。
さらに言えば、この二人はオーストレームの出身ではない。
今では珍しい流浪する一族に生まれ、幼少から旅に慣れ親しんでいたのである。
なんでも一族の祖先がオーストレームから旅立ったのが始まりであったらしいのだが詳しいことは彼らも知らない。
二人が一族から離れたのは成人して間もなくのことで、シェラド山地の奥、コントゥラータというところで卓越した師に出会ったことが契機となって
ヨウシアが剣を、エミリアが弓を取るようになって数十年をそこで過ごした。
動乱期を戦場で過ごした二人が並々ならぬ修羅場を潜り抜け魔法の技量も相応のものになっていたのである。
全てが落ち着いた頃には二人がまあ
今でも彼の地では双剣のヨウシアと必中のエミリアと言えば知らぬものはいないというが、本人たちは「どうでもよいこと」と言ってむしろ微妙に恥ずかしがるのであった。
その実力に似合わぬほどに牧歌的な二人である。
今も、知らず知らずのうちに物思いに黙ってしまったヨウシアを、エミリアは何も言わずにただ楽しそうに見つめている。
ヨウシアは裏庭に面した小窓の
パイプを咥えていた口からほわりと飛び出した煙が、ぼんやりとした鳥の形になって小窓へと飛んでいく。
手慰みの魔法の成果を見届けながらヨウシアは徐ろに口を開いた。
「あの子たちは強くなる」
「……どうしたの、急に」
「いや、ね」
「何かあった?」
「なぜか知らないけれど、剣を持つ二人の目を見ていて師父を思い出したんだ」
感慨深げな夫の顔色とは対照的に、エミリアは嬉しそうに笑みを浮かべた。
「あら、良いことじゃない」
「そうかもしれないね」
「そうですよ」
「はは、それもそうか」
「うふふ」
屈託無く笑う二人の脳裏に浮かぶのは老いてなお底の知れぬ強さを持っていた師の姿であった。
ある日ふらりと住処を出てそのまま旅に出てしまった師の技量に、二人は今もって追いつけないでいる。
自分たちの子供にその面影が見えるというのは、
「なんとも頼もしい」
ことではある。
「それにしたって……」
「うん?」
「エリアスのおかげね」
「何がだい」
「二人ともとっても良い子だわ」
「そうだね、エリアスは素晴らしい兄になった」
何かを言いさして、エミリアの顔色が曇った。
再び口を開いた彼女の思うところにヨウシアはすぐに気づいた。
「私、今でも……」
「エミリア」
「あなた」
「あの日の君の決断は正しかった。それは間違いないさ」
優しく微笑みながらヨウシアはエミリアの頭をゆっくりと撫でる。
それを、エミリアは静かに目を閉じて受け入れた。
彼女の瞼には過去の情景が蘇っている。
六年前のエミリアがクリスタを身籠もった時、コントゥラータは政情不安定な
母体はもちろん、生まれてくる子供のことを考えた二人は知己であるオーストレームの長アルトゥーリを頼ってこの地に逃れたのである。
有史以来オーストレームは冥王や暗王の特殊な例を除けば敵に攻められたことがない。
山の恵みを一身に受けるメンカルトゥールの森は深い密林と魔獣によって人の手が入らず、知る者の手引きなしには奥地に踏み入ることさえ困難な場所であり天然の要塞として機能して隠れ里を守ってきたのである。
二人がこの地を選んだのは当然とも言えた。
ヨウシア一行は冬が明けると同時にコントゥラータを旅立った。
しかしメンカルトゥールの森に到達したのは春も盛りの頃であった。
オーストレームから来た案内人が付いているとはいえ、人間の目を避ける旅であり、またエミリアは身重の体ゆえ一行の足取りはゆっくりしたものだったのだ。
ところが、森に入ってしばらくしてエミリアが不思議なものを拾った。
それは人間の赤ん坊であった。
柔らかな産着に包まれてあどけなく眠るそれは間違いなく人間であったが、不思議なことに周りには保護者がいた形跡すらない。
魔獣に殺されたにしても血痕すら残さないわけがない。
第一に、浅いところとはいえこの森の中に赤ん坊を連れてくる人間など尋常に考えてありえなかった。
旅も終わりに近づいているとはいえ、場所が場所である。
この森こそが旅で最も危険な山場であった。
人間を毛嫌していた案内人はもちろん、ヨウシアですら身重のエミリアのことを考えてこの赤ん坊を見捨てることを主張したのだが、エミリアは違った。
この時のことを彼女はうまく言い表せないのだが、とにかく
(運命にも似たなにか……)
としか言いようもないものを感じ取っていたという。
とかく強硬に自分が育てるというエミリアに最初にヨウシアが折れた。
起きても泣き出すどころか、天使のような笑みを浮かべて皆に懐く赤ん坊にとうとう案内人も何も言えなくなった。
誰とて、無垢な赤ん坊の命を見捨てることなどしたくはなかったのであろう。
この赤ん坊はその場で“エリアス”と名付けられた。
男の子が生まれたら、とヨウシアとエミリアが前々から考えていた名前であった。
その後、一行は無事にオーストレームに辿り着くことができた。
エリアスを拾って以降、ほとんど魔獣に襲われることなく順調に進めたのである。
また、エミリアに母乳が出るようになったことも良かった。
妊娠中とはいえかなり早いことであったし、まるで見計らったかのように始まったそれを、彼らは精霊の導きと信じるしかなかった。
そうでもなければオーストレームまでエリアスの命が持ったとも思えない。
それゆえエミリアの精霊への感謝は
ともかく、この時すでに一足早くエミリアに母親としての自覚が生まれていたことは確かであった。
里への移住を果たしてのち、二人は忙しく働いた。
その経験を買われたヨウシアは里の戦士の指導を、エミリアは身重の体でありながらも家のことを一手に引き受けたのである。
その点、わりかし素直で夜泣きも少なく誰にでも懐くエリアスは手が掛からない方であった。
そうして半年ほどが過ぎた頃に玉のような女の子が生まれたのである。
それが今のクリスタである。
一家の生活は大きな災いもなく過ぎていった。
唯一の例外がエリアスが人間であることであった。
赤ん坊でなかったら、一時的な疎開でなかったならば、彼が里に入ることは許されもしなかっただろう。
それほどに、オーストレームの里に暮らすアニム族の間には人間に対する因縁が横たわっている。
ヨウシアもエミリアもそれを苦にしたことはない。
長く共に暮らし、付き合いが増えるにつれエリアスのことをちゃんと見てくれる人も随分と増えたのだからなおさらである。
だが、本人はどうか。
今でもエリアスのことを人間として蔑む者も少なくはない。
まして子供たちは色々と気難しいものだ。
可愛い息子が家の外で苦労していることは両親も知っている。
赤子であった頃はさすがに表立って嫌がらせをするような輩もいなかったが、物心がつきエリアスが自分で歩くようになると様相は随分と変わった。
年かさの子供達からの仲間はずれなどましな方で、大人の中にも無視や蔑みの視線を寄越すものが多かったのである。
一度など、泥にまみれ体のあちこちに擦り傷をこさえた状態で帰ってきたことすらあったのだ。
後で分かったことであるが両親のことまで馬鹿にされたエリアスがとうとう怒り、喧嘩になったのである。
さすがにその件は里長預かりの問題となりエリアスも含めた子供たちは喧嘩両成敗の拳骨一発をもらい、無用な悪口を言った子供は懇々と説教されたものである。
いずれにせよ、エリアス自身がそうしたことを隠そうと、また気にしていない様に振る舞うのである。
子供の自主性を尊重したいと思う反面で、どうにかしてやりたいとヨウシアもエミリアも苦慮していた。
なまじ親が出てきて
この里ではエリアスは一人きりの人間であり味方も決して多くないのだ。
だからこそ兄としても人としても強く育ちつつあるエリアスのことが頼もしくも嬉しいのだ。
だからといって、複雑な思いを抱かないで済むわけでもないのだが。
「きっと、あの子は師父のような男になれるさ」
「……そう、ね。きっとそう」
「何より私たちの子供なんだ、当たり前さ」
「ふふ、そうね。それならあの子はあなたみたいになるわね」
ようやく笑顔を見せたエミリアが嬉しそうに頭上の耳を動かした。
「ふむ。ならクリスタは君みたいになるに違いない」
「あらあら、それなら弓も教えてあげないと」
「……まあ、ほどほどにね」
苦笑するヨウシアにエミリアが
慌てて魔法をかけ直して煙の動きを変えるヨウシアに、エミリアはクスリと笑う。
煙草は嫌いだけれど、煙草を吸う夫は好きなのだ。
この煙臭さも夫の匂いに混じればただ不快なそれとは違うのだと、エミリアはそう思う。
その照れたような顔にヨウシアは安堵したようにパイプを咥えなおした。
二人の尻尾が仲良く絡まり合う。
心地よい香りと静かな時間が部屋を満たした。
裏庭から黒歌鳥の美しい
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