第16話 婚約者

カレンダーは2月に変わり寒い日が続いた。

北海道以来、美雨先輩は学院に姿を見せる事が無くなった。

その代わりに美雨先輩の実家の噂話が学院中に広まっている。

「なぁ、亀梨は知っていたのか?」

「何がだ? 東雲は藪から棒に」

「鳳条先輩の実家の話だよ。それに先輩は最近姿を見せないだろ」

「まぁ、そうだな」

「何を暢気な事を言っているんだよ。お前の大切な人なんだろ」

「それなら一緒に迎えにいくか? 街から少しはずれにある大名屋敷みたいな家に」

「そ、それは無理だな。そんな度胸は無い」

「美雨先輩は美雨先輩だ。実家は実家だろ。俺がそう言う世界の人間だったからって東雲は俺との付き合いを変えるのか?」

「まぁ、そうだな。亀梨は何があっても親友だ」

「だろ、学院に来ないのは家の事情かもしれないけどな」

「でも、何で?」

「やっぱり北海道が原因かなぁ」

「北海道?」

学食の端で東雲と話をしていると菜露の一言で東雲が声を上げ注目を浴びてしまう。

それは美雨先輩の事を知りたがる輩は多いが、一番事情を知っているのが俺で俺には怖くて聞けないからだろう。

その後で東雲に北海道に行っていた事を洗いざらい白状させられてしまった。


そんな事があって数日が経ち。

学院でも巷同様にお祭り騒ぎに仕立て上げられた2月の一大イベントが迫っていた。

久しぶりに大教室で講義を受けるために移動をしているといつもの面子が集まり始める。

「ご主人様!」

「霞、ご主人様は止めろ。俺はお前の飼い主じゃない」

「ああ、晴海だ!」

「菜露、俺は物か?」

「ん~。パラダイスだね。俺っ娘の下僕属性に妹属性に先輩属性か」

「東雲はオタク属性だな。霞、報告しておけよ」

「す、すまん。ご主人様それだけはご勘弁を」

「冗談だよ。それより2人は何処に行くんだ?」

「えっ? A棟の3―1教室だよ」

「それじゃ、東雲。俺は帰るからな」

「亀梨、俺達と講義は受けられないと」

明陽学院大学付属高等学校は複数の校舎からなっていて、生徒が普段使用するのはA・B・C棟の3棟でC棟は特別教室が集められA棟とB棟が普通教室になっているそして3階の第一教室と言うように割り振られている。

何が悲しくて小動物に囲まれて突き刺さるような視線を浴びながら授業を受けたい奴がいるのか聞いてみたいものだ。

「行くぞ、亀梨」


東雲に連れられて渋々大教室の後ろの席に陣取る。

3学期も後半が迫り遅れを取り戻そうとこの時期の大教室は大入り満員になる事が多くなってきている。

そんな大教室に講師の先生と見慣れない長身の男に見覚えのある小動物が一緒に大教室に現れた。

見慣れない男はクラシコ・イタリアンと呼ばれるオーダーメイドのスーツを着ている。

グレーのピンストラップの3ピースタイプのスーツを身にまとい白いシャツにシルバーのネクタイを締め手入れの行き届いた黒い革靴を履いている。

軽くウェーブのかかった黒髪を後ろになびかせて彫が深くへーゼル色の瞳をしていた。

周りの女子が落ち着きを無くすくらい美男子なのだがスーツの色と相まってとても冷たい印象を受ける。

そして隣に立つ美雨先輩は俯いたままで顔を上げようとしなかった。

すると講師が口を開いた。

「ええ、鳳条さんはご実家の事情でしばらくお休みしていましたが今日から戻ってこられました。それと新しい英語の講師を紹介します。では自己紹介を」

「私はディーノ・オルコと言います。生まれはイタリアです。これから英語の担当になります。よろしく。それと直ぐに判ってしまう事になると思うのでこの場を借りて皆さんに伝えておきます。私は鳳条美雨さんの婚約者です」

流暢な日本語で喋っているオルコ先生の言葉に一瞬静寂が訪れ大教室が絶叫に包まれた。

それもその筈で散々俺に絡んできていた美雨先輩の婚約者が突然現れたのだから。

「それじゃ、鳳条さん。席について」

美雨先輩は何も言わずに頷き空いている席に腰を下ろした。

すると俺の脇腹に東雲と菜露が肘鉄砲を撃ち込み、霞は教科書を丸めて俺の後頭部に突きを叩き込んだ。

溜息を付いてどうしたものかと頭を掻くと数倍の力で再び同じ攻撃を受ける。

授業中だと言うのに酷い仕打ちだ。

俺に今すぐに駆け出して行き美雨先輩を抱きしめろとでも言いたいのか。


授業が終わった途端に俺は東雲に.

そして俯きながらこちらに向って来ようとしていた美雨先輩は裏のプロも真っ青な早業で菜露と霞によって人気の無い屋上に拉致されていた。

「ハル君、私……」

「家の事情なんだろ」

俺にいきなり抱きついてきた美雨先輩の泣き声だけが屋上に響いている。

北海道から帰った晩にあの男に会わされて婚約者だと父親に言われたらしい。

そしてそれに反発して部屋に鍵をかけ食事も摂らずに閉じ篭っていたと説明してくれた。

今の俺には慰めてやる言葉も無くただ抱きしめる事しか出来なかった。

「お迎えが来たぞ」

「嫌だ!」

屋上のドアが開いてオルコが現れた。

「美雨、次の授業に行きましょう」

「勝手に行けば良いでしょ。私は私の足で歩いていく。あなたなんかに指図されたくない」

「判りました。それならば」

「やって御覧なさい。覚悟は出来ています」

「あのな、美雨。こんな所で覚悟だなんだは勘弁してくれ。俺達も授業に戻るからそれで良いだろ」

「う、うん。ゴメン」

美雨先輩の耳元で『影』と一言だけ言うとハッとした表情になり校舎に戻っていった。


その晩、俺はマンションのキッチンでバレンタインに向けての試作を繰り返していた。

「居るんだろ」

「う、うん」

独り言を呟くように言うと俺の影から頭が徐々に見えてくる。

「あのな、気味が悪い事をするな。とっとと出て来い」

「うん」

直ぐに俺の背後に小柄な美雨先輩が申し訳なさそうに所存なさげに佇んでいる。

流石に心が僅かに揺らぐ、それでも前に進めないといけない。

振り返るとそこには初めて出会った時と同じ格好の美雨先輩が俯いて立っている。

そして床には光るのもがポタポタと落ちていた。

「美雨、俺があの男の事を気にしているとも?」

「……」

首を振るだけで返事はしてくれない。

「それじゃ」

「ハル君は優し過ぎるんだよ。私は」

「白鷺会鳳組・組長の娘だから?」

「えっ?」

「言った筈だ。俺も裏の人間だって、それを知っても美雨は言ってくれたじゃないか? 力は使いようだって俺から永久に離れる気はないって。小次郎さんに言われたよ、本気かって。恋愛なんて気づいた時には手遅れなんだって。俺自身もそう思う」

「それって……」

「多分、出会った時には堕ちていたんだ」

そんな事は最初から判っていた手遅れだって、それでも俺自身が拒んでいた。

色々と理由付けをして、仮契約だってそう言わなければあの場は収まらないと思ったから。

今は今しかない。

それは一瞬の事で儚い事なのかもしれない。

一瞬、一瞬が連続して時が流れていく。

ほんの一瞬でも良いから本気で目の前に居る女の子を抱きしめたくなった。

例えそれが最初で最後になろうとも。

「ハル君?」

「ゴメン」

「なんで? ハル君が謝るの?」

「……が大好きだから」

マンションのキッチンに今まで聞いたことも無い様な美雨の泣き声が響いた。


オーブンの電子音が鳴り焼き上がりを知らせる。

キッチンにはショコラの香りが立ち込めている。

一頻り泣いた美雨は満面の笑顔で俺の隣に居る。

その笑顔が俺の心を揺さぶる。

踏み込めば踏み込むほど傷は深くなる。

それが俺に課せられた対価なのだろう。

「出来た?」

「まぁ、まぁかな。これで中から出てくれば成功かな」

オーブンから取り出し一つを皿に載せフォークで半分にすると中から熱々のチョコレートが流れ出てきた。

「うわぁ、美味しそう」

「明後日に試食会があるから菜露達と『Nero e bianco』に来ると良い」

「本当に行っていいの?」

「婚約者は並ばないと入れないけどな」

「ぶぅ、意地悪」

美雨と作ったフォンダンショコラは大成功でレシピをこと細かく書いていたメモを大事そうに持って『皆に作ってあげるんだ』と嬉しそうに俺の影を通って美雨は帰っていった。

そして俺はスマホで連絡を付けた。

『明後日、決行』と。

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