第9話 リザイン


駅で美雨先輩と別れて来た道を戻る。

冬は日が短いとはいえ早め早めに昼過ぎから動き出したので、まだ日が傾きかけている時間だった。

菜露と霧華の住んでいるマンションは俺のマンションからすこし歩いたところにあった。

「ねぇ、晴海。何で先輩だったの?」

「何で、ってサンタさんのプレゼントかな?」

「あのさぁ、晴海。思いっきり殴って良い?」

「菜露に殴られても痛くは無いが」

「それじゃ……」

菜露が徐に携帯を取り出した。

「それは困る。霧華に殴られたら原型が無くなる。2日ほど完徹で仕事をさせられたクリスマスの晩に、具合が悪くなって道端に蹲っていた美雨先輩を助けたんだ。それからかな」

「ふうん、それで新学期にあれか」

「まぁ、そう言う事だ。クリスマスの晩は名前すら知らなかったけどな」

「でも、一晩泊めたんでしょ」

「何でかな、子供の頃に何処かで会った事がある様な気がしたからかもな」

「へぇ、晴海がね」


閑静な住宅街を菜露のマンションに向かい歩いていた。

「今日も菜露はバイトか?」

「うん、お義姉ちゃんの負担になりたくないもん」

「霧華はそんな事は気にしないよ」

菜露は親父の店から少し歩いた所にあるレストランバーでバイトをしていた。

理由は菜露が言っているとおりでバイト代はほとんど霧華に渡しているらしい、俺が親父の店を手伝っている時には霧華に言われ一緒に帰る事が多かった。

温かい飲み物で飲もうと自販機の前で立ち止まりブラックティーを買うと懐に北風が吹きすさぶ菜露が恨めしそうにしているのでココアを買って渡してやる。

そして道端の白いワゴン車の横を通り過ぎようとした瞬間にワゴン車のスライドドアが開き、数人のスーツ姿の男が出てきて菜露の口を塞ぎ後ろから抱きかかえる様に拘束した。

菜露を拘束している男に向かっていこうとすると腰の辺りに銃口の様な物を押し付けられた。

持っていたブラックティーの缶をコートのポケットに入れて仕方なく軽くホールドアップする。

「そいつには手荒なまねをするなよ。俺が後で酷い目に遭うからな」

俺の背後にいる男が腰に押し付けている物を押し出し何も言わずに車に乗れと促した。

菜露は悲鳴を上げることも出来ずに怯えている。

従うしかない大人しくワゴン車に乗り込むと菜露を拘束していた男が菜露から静かに離れた。

用事があるのは俺だけらしい。

ここで菜露が騒げば菜露自身にも危険が及んでしまう。

咄嗟に大声を上げないのは霧華の義理の妹たる為か、あるいは恐怖で声が出ないのか。

「そんなに心配するな。ちょっと行ってくる。この事は誰にも言うなよ。いいな」

「う、うん」

菜露は今にも泣き出しそうな顔をしているが俺の言葉は100%信用していた。

そんな菜露を拘束していた男がスライドドアを閉めて助手席に乗り込むとワゴン車はゆっくりと走り出した。


まだ空は青々としている。

日がある内からずいぶんと大胆な事をするものだ。

まぁ、日が高いあの時間だったからあの近辺には人通りが無かったのだろう。

そこで疑問がひとつ浮かぶがそれはどうでも良く思えた。

何故なら目隠しもせず、車の窓には濃いスモークが張られているだけでここが何処なのか判る。

どうやらまともな体では帰れそうにないことが直ぐに理解できた。

ワゴン車はとある5階建てのビルの前で止まり車から降ろされた。

ビルの中にはサラリーマンや営業マンには見えないスーツ姿の男が数人待ち構えていた。

学校帰りに拉致されたので黒いコートを着て学校指定のカバンを背負ったままエレベーターに乗せられ後ろ手にロープか何かで縛られてしまった。

エレベーターが最下層に着き、無言のまま肩を押されて歩けと指示される。

廊下は所々にある電球も切れ切れで薄暗い奥まった場所にある重そうな鉄の扉の前まで歩かされ、1人の男が鍵を開け重そうに軋む音と共に扉が開けられた。

するといきなり蹴り飛ばされて真っ暗な部屋の中に前のめりに倒れ、頬に冷たい塩ビタイルの床を感じた。

「クソ! 生ゴミじゃねんだぞ」

体を起こし床に胡坐をかく。

どうしたものか考えていると誰かが居る気配がして緊張が走る。

「真っ暗で何も……?」

部屋の中は蹴り飛ばされる寸前まで真っ暗だったと認識しているが不思議な事に明るいとはいえないが部屋の隅々まで良く見える。

部屋が明るくなった訳ではなく俺の目が暗闇でも見えるようになっているという事で。

理由はたった一つしか思い当たらなかった。

「ヴァンプになった所為か」

部屋を見渡すと唯の四角い箱の様な部屋で出入り口は俺が背にしているドアだけのようだ、部屋の左隅に何かが横たわる様に壁にもたれ掛かっている。

目を凝らしてみると何処かの学校の制服を着た女の子のようだった。

「あの制服はもしかして姫女か?」

姫女、つまり姫乃月学園女子高等学校・通称(姫女)の制服を着ている。

姫女の制服には苦い記憶があるので用心して近づくと、左腕は不自然に腫れ上がり顔や右腕と足には無数の痣が出来ている。

俺の気配を感じたのか虚ろな目を僅かに開けたウルフカットの女の子は俺が美雨先輩と仮契約を結んだ夜に襲ってきた人狼の少女だった。

「お、お前はこの間の……大丈夫か?」

「ひっ……助けて……」

彼女も人狼だ、俺の顔を見て怯えているという事は暗闇でも全く関係ないのだろう。

まぁ、怯えるのも無理も無い。いきなり腕をへし折った相手が目の前に現れたのだから。

それにしてもあの夜と打って変わって殺気など微塵も感じず怯えきっている。

どうみても目の前に居るのは怪我をして怯える普通の女の子にしか見えない。

「お前も拉致されたのか?」

「ち、違う。壊れた道具は要らないって、私が馬鹿だったんだ」

ゆっくり彼女に近づくと左腕を押さえながら逃げようとしている。

「お願いだから殺さないで……」

「確かに君の腕を無意識だろうがへし折ったのは俺だ。信じろとは言わないがそんなに酷くは無かっただろう」

「あいつらが反抗できないようにって」

幾ら人で無いものだからって惨い事をして良い訳が無い。

沸々と怒りが心の奥底から溢れ出してくる。

縛られたままでは埒が明かないので手首の関節を外して縄抜けをすると床に縛られていたロープが落ちた。

関節を嵌め直して手首を回すと彼女が更に怯え始めた。

そしてこの状態で近づけば彼女は満身創痍の状態で無理にでも逃げ回り危険な状態になりかねない。

どんな言葉を使ってもこの状況で信じてくれと言うのは俺が逆の立場であっても信じることなど出来ないだろう。

ここは強行策に出ることにした。

背負っているバッグを下ろし常に忍ばせているナイフを取り出すと思っていた通り、怯えきっている彼女は恐怖心からか息を呑むように気を失った。

ゆっくりと近づいても彼女は気を失ったままだった。

念には念を入れ、持っていたバンダナを捻りロープ状にして口に咥えさせる様にして後頭部で縛る。

人狼にしても人間にしても噛む力は非常に強く、例えそれが女の子だろうと到底敵わないし万が一と言うこともあるがこの方が今の状況では最善だと判断する。

彼女の折れている左腕に触ると氷の様に冷たく冷え切っている。

どれだけの時間放置されていたのだろう。

どうやら親指に近い方のとう骨が折れているようだった。

「直接流し込むしかないのか」

自分自身の中にあるヴァンプの血にどれだけの治癒能力があるのかは判らないが今はミウの話を信じてやるしかない。

止血するために彼女の左前腕部の止血点をロープできつ目に縛り筋肉をなるべく傷付けない様に腕にナイフを這わす。

痛みで暴れるが力任せに押さえ込むと再び気を失ってしまった。

彼女の右腕をとって脈を調べると弱弱しいがはっきりと感じることが出来る。

直ぐに折れている箇所が見えてきた、骨のずれを治しナイフで自分の左掌を切りつけると血が見る見るうちに蒸発して消えていく。

人ではないヴァンプになった事を再認識する。

掌を握り締め拳を傷口の上にして血を流し込むと瞬時に骨が繋がった。

繋がったと言うより元通りに戻ったと言うほうが正しいのか。

俺のヴァンプの血が流れ込んだ左腕の傷口が完全に元通りになり、直ぐに止血しているロープとバンダナを外して意識を確認する。

「おい、おい」

「う、う、うん……」

頬を少し強く叩くと虚ろな瞳を僅かに開いた。

腕や足にこれだけの痣があると言うことは全身に殴る蹴るの暴行を受けたことが容易に想像つく。

少し躊躇ったがミウが俺にした様に俺の血を口に流し込むとよほど喉が渇いていたのか必死になって飲み込んでいる。

荒く乱れていた呼吸が次第にゆっくりと規則正しくなっていく。

ナイフで切った掌の傷口を見ると既に傷は跡形も無く何処を切ったのかさえ判らなくなっている。

血を流し過ぎた所為なのか体が兎に角だるい。

今は体を休めるしかない。

冷え切った彼女の体を抱き寄せコートを掛けて眠る事にする。

ここに連れて来られた時はまだ日が高く夕方にはまだ早い時間だった。

幾ら冬で日が短いとは言えそんな早い時間に奴らが動き出すとは考え難い。

それに俺と彼女にも時を待ったほうが好都合だ、何故なら俺達は闇の世界の者だから。

俺の体を枕代わりにして彼女はまるで犬が丸くなる様な格好で小さな寝息を立てていた。

しばらくすると彼女の体温が上がり始め俺自身の体も温もりいつしか眠りに落ちていた。


彼女がモゾモゾと体を動かし眼が覚めた。

少し眠った所為で多少は良くなったが血を流し過ぎた為なのか体は不協和音を奏でだるく重いままだった。

彼女の顔を除くと驚いたように目を覚ました彼女と視線が合う。

「起きたか? 声を上げるなよ。気づかれる」

一瞬で殺気立った瞳になり飛び起きるように退くと彼女に掛けてあったコートが床に舞った。

「それだけ元気なら大丈夫な様だな」

「なっ……体が!」

余程驚いたのだろう彼女の体は人狼の姿に変化している。

そして折れていた左手の感覚を確かめるように指を動かしていた。

「何故、助けた?」

「理由なんてねぇよ。どいつもこいつも同じ事を同じ様に聞きやがる。俺は生き地獄を見て来たんだ。だから目の前で散られるのが大嫌いなんだよ」

「情けを掛けたつもりか」

彼女が動いたと思った時には既に彼女の左手で喉元を押さえ込まれ、彼女の右腕が振り下ろされていた。

鋭い彼女の爪が俺の瞳の寸前で止まっている。

「殺す」

「やれよ。今の俺には成す術がない」

「そんなはずは無い。貴様が俺の左腕をへし折ったのだ。この化け物が」

「化け物か……そうだな。俺も化け物だったな」

幼い頃の事が脳裏に浮かぶ。

周りの大人達が畏怖の念にかられながらも俺の事を見下しながら化け物と小声で蔑んでいる。

人である事、頭のどこかで無意識に否定し続けた人で無い者になった事。

俺の中でグルグルと蠢いていた物が方向性を持って一気に動き出す。

『ドクン』と鼓動が跳ね上がると俺の奥底から何かが物凄い勢いで湧き上がって来るのを感じる。

「これがヴァンプの力なのか?」

「そ、その瞳。貴様は何者だ?」

彼女が全身のばねを使って一瞬で後ろに引き下がり震えている。

体のだるさも重さも不協和音もまったく感じない。

それどころか力が湧いてくる。

「俺はお前が散る寸前にしたミウの眷属だろ」

「あり得ない。あいつよりレベルが上がっている」

「レベル? レベルって何の事を言っているんだ?」

「何も知らないのだな。まぁ俺も聞いただけだから詳しくは無いがヴァンプは力の強さで瞳の色が変わる。紫から金に近い黄色になるほど力が強くなる。あの女の瞳はブルーだった、眷属のお前があの女以上のレベルになる事などあり得ないはずだ」

「それじゃ、俺の瞳は?」

「グリーンだ。それもエメラルドグリーンと言ったほうが良いのかもしれない。何故だ?」

「まぁ、ミウ風に言わせてもらえば俺も初めて何でな。説明もできないし理由すら知らない」

「そんな馬鹿な」

「で、どうするつもりだ。俺はお前とやり合う気は無い。このまま散るのを待つか? それとも」

「外にはどう足掻いても出られない。このドアは俺の力でも破る事ができなかった。結界が張ってあるか特殊な仕様になっているかだ。貴様でも同じことだ」

「なら簡単だ。化け物の力で無理なら人間の力なら開くのだろ」

「馬鹿げた事をほざくな。高校生の人間如きの力で何ができる」

「人間は非力だけどな、その代わりにいろんな事を考え発明し時には争いの道具を作ってきたんだ」

俺は普段使いの黒いタクティカルブーツの踵を外し中から白ぽい粘土の様な物を取り出し、バックからはペンケースを出してシルバーのペンを手に取った。

粘土状の物をドアの鍵穴に詰め込むように貼り付けてシルバーのペンを粘土に突き刺す。

「きちんと調べるもんだ。まぁこんな物騒な物を持ち歩く高校生なんて日本じゃ俺位くらいだからな」

「貴様、何をしている?」

「この粘土状の物はC―4、可塑性爆薬つまりプラスチック爆弾と呼ばれている物でこのペンは起爆装置みたいなものが仕込まれているんだ」

「プラスチック爆弾? 起爆装置? 貴様は本当に何者なんだ?」

「お前やミウが闇の世界の者なら俺は人間で言う裏の世界の者だよ。今は闇と裏だから漆黒の世界と言ったほうが良いかもな。とりあえず無様にここで散る訳にはいかないんだ。逃げ出すまで邪魔だけはするな。もし邪魔をする様なら俺が情け容赦なく散らしてやる」

まっすぐに彼女を見ると静かに瞬きをした。

「あいつ等に怒り心頭だろうが無益な殺しはするなよ」

「よく言う漆黒の世界の者が」

スマートフォンを取り出し画面をスクロールするそして画面を押すと鈍い炸裂音がしてドアが静かに開いた。


俺の出る幕など全く無く、彼女が片っ端からフルボッコにしていく。

そして社長室の様な最上階の部屋で彼女は白髪交じりの男の首を掴んで言葉どおり締め上げている。

男は宙に浮いた足をバタつかせ、顔は茹蛸の様に真っ赤になっていた。

「こいつの所為で俺は……」

「その辺にしておけよ。制服が汚れるぞ」

「でも」

「俺に考えがある」

彼女の腕に手を当てると渋々だが男を椅子に下ろした。

苦々しい顔をしているが従ってくれるようだ、人狼の姿から人間の姿に戻っているのがその証拠なのだろう。

椅子に降ろされた男は首を擦りながら肩で息をしている。

重厚な作りの木の机に学校指定のバッグを置いて中からペンケースを取り出し少し太めの万年筆を取り出す。

そして分解すると中から両端がステンレスのキャップの様になっていて、中に黄色い蛍光色の液体が入った透明なカプセルが出てくる。

そのカプセルを人差し指と親指ではさむ様にして男の目で前に見せた。

「これが何だか分かるかな?」

「そんな物、子供騙しの脅しのつもりか?」

「子供騙し? これが」

白髪交じりの男は毅然とした態度で未だに眼光だけは鋭い。

それは裏でも表にしろ人を束ね上に立つ人間の気質なのかもしれない。

カプセルを挟んでいた指の力を抜くと男の目の前からカプセルが落ちていく。

床に落ちたカプセルが爆発を引き起こし白い煙が上がり高級そうな絨毯に30センチ程の穴が開き、絨毯の下のコンクリートの床が抉れた様になっている。

男の表情が強張り呼吸が荒くなっているのが判る。

バッグに視線を移すと机の上にある木製のフォトスタンドが目に付いた。

手に取るとどうやら家族で旅行した時の写真らしい。

「家族写真か。イタリアだな、後ろの建物に見覚えがある」

「貴様には関係無い」

「関係無い? 大有りだろう。それじゃ一体何をしようとしていたんだ? 俺と彼女を消そうとしたんだろう。今度はお前が散る番だ」

フォトフレームを男の頭の上に翳すと男が不思議そうな表情をする。

「大事な家族写真なんだろ。ほら、両手でちゃんと持てよ」

「私に脅しは通用しない」

「そうか、それじゃこれならどうだ」

ポケットからブラックティーの缶を取り出し男の死角である耳の後ろで缶を振ると液体特有の音がした。

「これが何だか判るかな?」

「ま、まさか」

「正解かな。先ほどのカプセルの何十倍の液体になるかな」

缶をフォトフレームに載せて男の頭に置くと慌てて両手で掴もうとした。

その手を片手で払うと男の体が震え出した。

「やめろ、馬鹿なことをするな」

「ほら、ゆっくりとフレームを持てよ」

「わ、判った」

「不安定だから気をつけろよ」

ゆっくりと男から離れ机の上においてあったバッグを取り大きな机の前にあるソファーに腰を下ろすと人狼の少女が呆れ果てた顔をしている。

「落とすなよ。それが落ちたらこのビルの最上階は跡形も無く吹き飛ぶからな」

「それならば貴様達もろとも。そうすれば結果は同じこと」

「本気でそう思っているのか? お前は彼女の正体を知っている筈だ。怪我が完治した彼女にそんな物が通用するとでも思っているのか」

座っている俺の後ろに立っている彼女を見上げると一瞬だけ鬱陶しそうな顔をしたが直ぐに人狼の姿になり男を睨み付けた。

「き、貴様は何者なのだ」

「ヴァンプ。つまりヴァンパイアだ。人狼が存在するならヴァンプが居てもおかしくないだろ」

「ふん、そんな事が信用できるとでも」

「これでもか?」

立ち上がり力を少しだけ解放すると男の後ろにあるガラスに映っている俺の瞳が宝石のエメラルドの様な光を発している。

「随分と手の込んだ手品だな」

「それならこうすれば信じられるかな」

机を挟んで座っている男と対峙して徐に左目に人差し指を突っ込み、眼球を取り出して男の目の前に突き出す。

するとまるで眼球は気化した様に蒸発していき眼球を抜き出した左目は瞬時に再生され元通りになっている。

男の顔を除き込むと冷や汗が噴出し震えが止まらないようだ。

「信じてもらえたかな」

「ば、化け物!」

「今後一切、俺達に関る様な事があれば百鬼夜行の如くお前の家族の前に現れるからな。化け物を甘く見た罰だ」

更に力を解放すると瞳がエメラルドから黄色味がかったペリドットの様に変化した。

「た、助けてくれ。何でもする。金か? 金が欲しいのなら」

「何も要らないねぇよ。それに助ける気も無くなった。それともお前達が彼女にした事を彼女にしてもらうか? 爆発で散るか彼女にボコられて散るか選ばせてやる」

「わ、私が悪かった。許してくれ」

「どうする? 許せと言っているが」

俺の言葉で彼女が牙を剥くとコトンと音を立ててフォトフレームに立ててあったブラックティーの缶が倒れる。

そして男の目の前を通り過ぎて床に向かい落ちていく。

恐らく男にはスローモーションの様に見えているのだろう。

男が白目を剥き体が崩れ落ち座ったまま糸の切れたマリオネットの様になった。

「さぁ、帰るか」

「お、俺はどうすれば」

「好きにしろ。これだけは言っておく俺達に再び牙を剥けばその時は覚悟しておけよ」

「ふん。誰がお前みたいな腹黒い奴を相手にするか。それに助けて……」

彼女の言葉が尻すぼみになり美雨先輩より大きな腹の虫が鳴った。

このまま帰るより菜露に会いに行き無事を確認させたほうが確実だし、そうすれば菜露が霧華に話すことも無いだろう。

菜露は俺が言うなと言えば決して誰にも言わないが霧華だけは別次元で、霧華の耳に入れば色々と面倒な事になる。

時計を見ると未だ菜露のバイトが終わる時間までかなり余裕があった。

「飯を食いにいくぞ。嫌じゃなければついて来い」

「貴様とか?」

「嫌じゃなければと言った筈だ。飯ぐらい奢ってやる」

「まぁ、奢ってやると言うのなら一緒に行ってやる」

最上階で糸が切れたマリオネットを放置して菜露のバイト先に向かうことにした。


菜露のバイト先は親父の店『Nero e bianco』のある並木道の先にあった。

味のある木のボードに『Night of Knight』の文字がライトで浮かび上がっている。

しっかりとした造りの木製のドアを開けるとそこにはアンティーク好きなマスターが創り出した空間が目に飛び込んでくる。

ヨーロッパの老舗のカフェと言うかバーと言ったほうが近いかもしれない。

落ち着いた色になった木の床や壁が古き良き時代を思わせる。

ドアノブなどは真鍮製で使い込まれ良い味を出してまるでタイムスリップしてしまったかのような感覚にさえなる。

カジュアル&シンプルを全面に押し出した『Nero e bianco』とは全く正反対だが俺はここの雰囲気が大好きだった。

お客は少ないが人気が無い訳でなくマスターの腕は確かで料理もカクテルも美味しい。

まぁ、高校生がカクテルの味が判ると言うのも変な話だが、俺が親父に連れまわされ今でも時々海外を転々とさせられていたのが理由だった。

天然木の一枚板で出来ているカウンターの向こうでは白いシャツに黒いベストを着た寡黙なマスターが会釈をしている。

お客がいない所為かカウンターの椅子に菜露が座って足をぶらぶらさせている。

俺の姿を見つけると驚いたような顔をして椅子から飛び降りて抱きついてきた。

「菜露、仕事中だろ」

「良いの。お客なんていないんだから。それに」

「少しだけ行ってくるって言っただろ。怪我なんてしてないよ」

「心配だったんだから」

「だから顔を見せに来たんだろ」

「で、誰? その子?」

俺の顔を変な目で見ている菜露の格好は、黒を基調として所々に白が差し色として使われている。

しかし、ギャルソンの格好とは対極のものかもしれない。

袖が膨らんだ黒いミニワンピでスカートの部分にはフリルがあしらわれ白い控えめなパニエが裾から覗きスカートが少し膨らんでいる。

黒い厚底の編み上げブーツを履いて首には白いレースに黒いリボンがついたチョーカーをしている。

いわゆるシンプルな?

ゴシック&ロリータと言われているファッションで、浮いているかと言えばそうではなくアンティークな店内に異様なほどマッチしている。

店長の趣味かと言えばそれは全否定された。

初出勤の時にシンプルな服装でと言ったらこの格好で菜露が現れたらしい。

それでもこの格好で寡黙なマスターが何も言わなかったのは、それなりに店に溶け込んでいて常連客からも好評らしい。

「で、誰なの?」

どう説明するべきか考えていたら菜露が再び聞き返してきた。

「その制服は姫女だよね。鳳条先輩という人が居るのに浮気?」

「あのな、菜露。俺がそんな事をすると思うか?」

「晴海は人でなしだもんね。女の子に言い寄られるのが面倒で適当に女の子と付き合っている振りをしていただけだもんね」

「だろう」

「でも今は違うでしょ。ちゃんと鳳条先輩に向き合っているんでしょ」

「そうだ、だから浮気なんて七面倒くさい事はしない。俺と同じ様に連れて来られていたから連れて逃げ出してきただけだ」

「ふうん、逃げ出してきたね。どうせ晴海の事だから相手が誰であろうと謝っても完膚無いくらいにしてきたんでしょ」

菜露に俺はどんな風に映っているのだろうと時々思う事がある。

霧華と暮らしている所為なのかそれとも……

「食事まだななんでしょ」

「ああ」

「それと」

「判ってる、ちゃんと送ってやるよ」

「彼女もだよ」

「了承した」

通り沿いの窓際のテーブルに腰をおろすと彼女が店内を珍しそうに眺めている。

無理も無い隠れた名店と言うか人気はあるがそれは殆どが常連客で高校生などが気軽に入れる様な雰囲気じゃないのは確かだった。

とりあえず料理と言っても軽食の部類に入るものを菜露に注文する。

俺と彼女が注文したのはスタンダードなチキンピラフだった。

「名前だけでも教えてくれないか。君は俺の事は知っているみたいだからな」

「麟堂 霞(りんどう かすみ)。姫女の2年だ」

「俺と同い年か。話したくなければ話さなくてもいいが。幾つか聞いておきたい事がある。なんだってあんな奴らと組んでいたんだ?」

「組んでいたんじゃない。仕方なく」

「仕方なくか。脅されてと言う奴か、でも君は」

俺が何を言おうとしたのか理解してあたりを見渡して警戒した。

「大丈夫だよ。俺を出迎えた菜露は血の繋がりは無いが妹の様な奴だから心配はない。それに俺達の話なんか聞こえてないよ」

「そうか、血の繋がりの無い妹か。俺は孤児なんだ。今はとても優しくしてくれる両親に引き取られて俺が人でない事を知らない。少し前に奴らに絡まれて人狼の姿を見られてしまったんだ」

「それを両親にばらすと脅された訳だ。直ぐに両親に連絡してあげた方がいいな。心配しているはずだ。優しい両親なんだろ」

「う、うん」

俺がそう諭すと彼女は安心したのか携帯をポケットから取り出して電話をし始めた。

僅かに声が漏れていて会話が所々聞こえる。

そして彼女の目には涙が溜まって今にも溢れ出しそうだった。

「あんな酷い事をしたのに。ありがとう。助けてくれて」

「礼はいらない。俺だって同じ立場なら同じ事をしていただろうしな。ミウにも俺にもあの程度の怪我は直ぐに治る。そうは言っても俺は新人だからな」

「でも、普通の高校生にしか見えないのに」

「裏の事は内緒にしておいてくれ。表の世界じゃ全く必要の無いことだ。俺も生まれた時には母親は既に居なかったし、親父ですら俺の前に現れたのは物心が付いた頃でそれまでは独りだった。そして母親の家と言うのが表では有名な名家だったが裏の顔はマフィアも真っ青な事を平気でやる家で俺にもその全てを叩き込んだんだ」

「そんな、子どもに」

「子どもも大人も関係ない。ただのチェスの手駒に過ぎないよ」

「チェス……あっ、チェスで思い出した。この店のマスターの顔をどこかで見た事があると思っていたんだ」

「ああ、そんな事か。マスターはチェスの達人だからな」

「知らないのか。あの人はサイレントエンペラーと呼ばれた凄い人なんだぞ」

「静かな皇帝ね。確かに無口でチェスはめっぽう強いけどな」

そこに菜露がピラフを運んできてくれた。

それも今日はサラダにコンソメスープ付だった。

「菜露、ピラフしか頼んでないぞ」

「マスターの驕りだって。それにこれ、マスターが載っている雑誌だよ」

それは少し古ぼけた冊子の様な雑誌だった。

「月刊チェス? またマイナーな雑誌だな」

「仕方が無いよ。日本ではチェスはあまり人気が無いからね」

「そんな事はない。チェスはスポーツであり科学であり何より芸術だぞ」

菜露と俺の会話に突然割って入ってきた麟堂の顔が輝いて嬉しそうにしている。

初めて笑った顔を見た。

今までは脅されて人で無い者を襲ってきたのだから仕方が無いのかもしれない。

カウンターに目をやるとマスターが彼女の言葉にニヒルな笑みを浮かべて親指を立てグッジョブのサインをしている。

どんだけチェスラブなんだよ。

そんな事を考えていると菜露が俺の肩を指で突っついた

「ねぇ、晴海。紹介くらいしてよ」

「そうだな、俺も名前はさっき教えてもらったんだ。名前は麟堂 霞。姫女の2年だから菜露の先輩だな」

「へぇ、晴海と同い年か。綺麗な人だよね、鳳条先輩とはタイプの違うクールって言うかツンデレ系で俺っ娘かぁ」

「言っておくが俺は」

「はいはい。でも鳳条先輩はなんて言うかな。ヤンデレにならなければ良いけれどね」

「あのな、容易に想像が付く恐ろしい事を言わないでくれ。菜露はツンデレ系だろ」

「違うもん。私はブラコンだもん」

「シスコンじゃないんだな」

「それは無い。私はノーマルだから」

ツンデレやヤンデレにブラコンやシスコンなんて言っている時点でノーマルじゃないと思うが放置しよう。

麟堂はピラフを頬張りながらまるで夢を見る乙女の様な顔をしていると菜露が突っ込みを入れた。

「麟堂先輩? マスターに勝負を挑んでも相手にしてくれないよ。マスターは一見のお客さんとは手合わせしないからね」

「ええ、そんなぁ。雲の上の人とチェスが出来ると思ったのに。ショックだな」

「でも、晴海に勝てたら考えを変えてくれるかもね」

「本当に?」

菜露と麟堂がカウンターに居るマスターの顔を伺うと寡黙なマスターがグラスを拭きながら小さく頷いた。

菜露もマスターも面倒な事をしてくれる。

俄然元気になり麟堂は男らしく? 急いでピラフを口に放り込んでいる。

折角の美味しい料理もこうなると形無しで、それでもピラフを作ったのはマスターでこういう状況にしたのもまたマスター自身だった。

そんな訳で菜露のバイトが終わる時間までと言う条件付で麟堂とチェスをする羽目になってしまった。

「リザイン……何で勝てないんだ?」

「そんな目で俺を見ても勝てないぞ。それに俺の子どもの頃は遊び相手は大人しか居なかったからな。チェスやカードでしか遊んだ記憶が無いんだよ」

「くそ、もう一回だ」

持ち時間を15分に決めてラピッドと言う快速チェスをしている。

俺自身は一度もチェックメイトしていない。

いい筋はしていると思うが場数をこなしてきた違いなのだろう、日本ではチェスをする人は多くない。

麟堂自身も両親に教わったと言っている。

最後の試合もドローに終わってしまった。

「また、勝負だからな」

「暇なら相手をしてやるよ」

麟堂を駅まで送り届け昼間と同じ道を菜露と歩いて菜露をマンションまで送り届けた。

菜露はあの姿のまま帰るのかと思っていたら学院の制服に着替えている。

俺としてもその方が有難い、流石にゴスロリ姿の菜露と歩く勇気は持ち合わせて居なかった。





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