第33話 て、テニス……?

 営業にとって辛い夏が終わっていく。

 心地よい秋風が頬をすり抜けていく。

 静かな平凡な日々が続いていた。

 それはいつも隣に愛しい人が居てくれる幸せ。



 って一瞬、夢見てた? 

 俺はここで何をして居るんだ……


「はぁ、はぁ、はぁ……勘弁してください」

「ほら、のっち。立って」

「もう無理、心臓が口か出そう」


 週末の土曜日だというのに俺はテニスコートで倒れていた。


「鬼が二頭見えるんですけど」

「鬼言うな!」


 御手洗さんがそう言うとテニスの硬式ボールが唸りを上げて飛んできた。


「鬼だ……」


 フラフラになりながら立ち上がる。


「はい、次!」


 双葉さんがサービスをして飛んできたボールを何とか打ち返した。

 俺は何をしているんだろう……



 金曜日の帰り際に藤堂が話しかけてきた。


「野神はテニス出来るのか?」

「はぁ、テニス?」

「そうだ」

「うんにゃ、出来なくは無い」

「曖昧だな、明日」

「お先!」


 藤堂の会話を瞬殺してブリーフケースを持つと会社を飛び出した。


「ふぅ~危ない、危ない」


 テニスは出来ない訳ではないが嫌な思い出がありあまりやりたくなかったのだが……

 マンションに帰ってくると未だ一ノ瀬さんは帰ってきていなかった。

 基本料理が出来ない俺は彼女がいないと食事に事欠く状態だった。

 まぁ、帰りにコンビニでも寄って弁当を買ってくれば良いのだが、何度か実践して怒られた経験があった。


「なんで、待てないの?」

「いや、毎日じゃ悪いなと思って……」

「それじゃ、私一人で食事をしろと? 電話ぐらい出来ないかなぁ」

「ゴメンなさい」

「まぁ、瑞貴君は私が作る料理よりコンビニ弁当の方が好きみたいだからネ!」


 その後、数日はコンビニ弁当の容器に詰められた晩御飯を食べさせられた。

 それもご丁寧に冷凍食品まで買って来て味付けまで再現されていた。

 そんな訳で、とりあえず風呂に入り自分の部屋に篭りネットを始める。

 しばらくすると一ノ瀬さんが帰ってきた。


「お帰り、お疲れ様でした」

「ただいま、瑞貴君こそ」

「んにゃ、俺はぼちぼちなんで」

「ぼちぼちじゃなくてもう少し営業成績を上げた方が良いんじゃない?」

「ん~、平々凡々が座右の銘なんで」


 そんな事を話していると一ノ瀬さんが着替えを済ませて食事の準備に取り掛かった。

 独り暮らしの時には食事は外食か弁当、スーツやシャツはクリーニングにそれ以外は全自動洗濯機に放り込むだけ。

 掃除も時々するくらいだったので、俺の家事能力は皆無だった。


 時々思う事がある。これで良いのか……

 一ノ瀬さんに甘えぱなしで……


 そんな事をリビングで考えていると食事の用意が出来たらしい。


「瑞貴君、ご飯にしよう」

「はーい」


 今日はイタリアンだった。カポナータにベーコンが入っているパスタにカプレーゼとイタリアンオムレツ・サラダetc


「いただきます」

「はい、いただきます。ゴメンね、何だか時間が無くって簡単な物になっちゃって」

「んにゃ、簡単じゃないよ。凄く美味しいし」

「うふふ、ありがとう」

「でも、良いのかな? こんなに凛子さんに甘えてて」

「そんな事ないよ。私だって甘えさせてもらってるもん。家賃も払ってないし光熱費だって、それより何よりこんな広いお家に私一人じゃ住めないもん」

「まぁ、無駄にデカイからね」

「それに、大好きな人に何かをしてあげられるって幸せな事なんだよ」


 そう言われて俺は考えてしまった。

 俺は凛子さんに何をしてあげられるんだろうと……

 凛子さんを守ると言いながら実際の所は自分が怪我をしてしまって心配ばかりかけている。

 俺にしてあげられる事なんてあるのだろうか……とても不安になる。


「瑞貴君?」

「ん? 何? 凛子さん」

「何を考えているの?」

「…………」

「あ、またどうでも良い事考えているでしょ」

「どうでも良い事?」

「そう、たとえば私に何をしてあげられるとか」


 何でこんなに鋭いんだろうと時々思う事がある、不思議だ。


「女の感かな」

「う、うう。あははは」


 堪らず笑ってしまった。


「瑞貴君でも不安になる事あるんだ」

「まぁ、色々とね」

「たとえば?」

「俺の事を全部話したら凛子さんが居なくなってしまうんじゃないかとか……」

「平気だよ、瑞貴君は瑞貴君だから」

「それじゃ、俺が経済界を牛耳る大物の息子でも?」

「うん」

「それじゃ、世界有数の大企業の社長でも?」

「うん、瑞貴君は瑞貴君でしょ。何も変らないよ、そんなのただの肩書きじゃん」

「そうだね、ありがとう。ただの肩書きか……」


 ただの肩書き、そんな事を言う女の子は凛子さんが初めてだった。

 本当に俺自身を見ていてくれる。

 それがただ嬉しかった。


「あのね、私の不安は瑞貴君が時々そんな哀しそうな顔をする事だよ」

「ゴメンね」

「もう、直ぐに謝るんだから」

「そうだね」


 食事を済ませて片づけをする。

 片づけを手伝うのが俺の唯一の家事だった。

 片づけを終わらせてリビングでまったりとする。それが金曜の夜の過ごし方だった。


「それじゃ、お疲れ様」

「うん」


 俺はウイスキーをそして一ノ瀬さんは紅茶にブランディーを少し入れて飲んでいる。


「美味い!」

「何を飲んでいるの?」

「スコッチウイスキー・『ウシュクベー ストーン フラゴン』だよ」

「ウシュクベ?」

「うん、生命の水と言うゲール語でウイスキーの元になった言葉をつけたウイスキーだよ」

「ふうん、そうなんだ。お願いがあるんだけど」

「凛子さんのお願いなら何でも聞くけど」

「本当に?」

「うん」

「明日、買い物に付き合って欲しいの」

「買い物?」

「うん。テニスのウエアーを見に行きたいの」

「て、テニス……?」


 藤堂に言われた言葉が蘇り滅茶苦茶に嫌な予感がしたが何でも聞くと言った手前、それ以上突っ込む事が出来なかった。


「それでね、その後……」

「もしかしてテニスがしたいと」

「うん。瑞貴君はテニスできるんでしょ。ラケット持っているみたいだし」

「あははは……一応」


 土曜日。午前中の早い時間に買い物を済ませて、一ノ瀬さんに連れて行かれるままテニス場に向うと……

 秘書課の双葉さんと御手洗さん、そして藤堂が手招きをして立っていた。

 そして軽く手合わせをする。


「野神君の実力はこんな物じゃない筈」

「のっち、真面目にやってるの?」


 そんな事を言われて双葉さんと御手洗さんに2人掛りで扱かれる羽目になったのだ。


「もう、無理。本当に勘弁してください」


 隣のコートでは藤堂と一ノ瀬さんが楽しそうにラリーを続けていた。


「完全に騙された……」


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