第8話 イギリスにいたの?


席に戻りしばらくするとマスターが怪訝そうな顔でグラスとワインを大事そうに持ってきた。

「のっち、本当に飲んじゃうの?」

「もちろん、マスターも一口どうぞ」

「本当に良いの? もう駄目って言ってもテイスティングさせてもらうわよ」

そう言いながらグラスを配り終わるとワインを丁重に抜栓して、皆のグラスに注いで回った。

「マスターそのワインは?」

双葉さんが不思議そうな顔をしていた。

「のっちのコレクションよ。イタリアワインの元祖シンデレラワインと呼ばれている、ルーチェの2005ね」

「それじゃ、いただきましょう。チンチン」

何故かマスターが仕切っていた。

「う~ん、美味しい。最高ね」

「本当だ、凄く美味しいし香りが素敵」

「それはそうよだってスーパートスカーナだもの、お値段もスーパーよ」

「マスター、そろそろカウンターに戻った方が良いかと」

「あら、お子様に怒られちゃった。それじゃご馳走様。のっち」

「お子様ものっちも言うな! 健太が!」

「嫌~ん、のっちの馬鹿!」

自分の本名を言われて泣きながら女の子走りでマスターはカウンターに帰っていった。


「うふふ、いつもの野神さんに戻ったわね」

「俺の地ですから」

「そうかしら。幼い頃に母親と死別し父親に引き取られる。その後は小中高一貫教育の有名私立高校を卒業して海外暮らしをしていた。それ以外の事は何も判らないのよね。どう調べても」

「調べたのですか? 個人情報を?」

「あら、今時個人情報なんて調べようと思えばいくらでも調べられるわよ。私達にかかれば」

まるでどこぞの序列つきのメイドさん達みたいだと思いながら話題を変えた。

「それより、今日は何の為にここに呼び出したのですか?」

「それは判っているんじゃないの? 野崎君。さっき雰囲気が変った時に」

さすが藤堂のお姉さんの大親友と言うべきか双葉さんの洞察力も並外れているのを感じた。

隠してもたぶん大抵の事はお見通しなのだろう。

「一ノ瀬さんの事ですよね。でも俺には心当たりがなくて」

「それじゃ、これでも?」

双葉さんが徐に一ノ瀬さんのポニーテールのリボンを解いた。

「えっ? はっ! も、もしかして……」

「野神、どうしたんだ? おい野神?」

一弥の声が右耳から左耳に抜けていき、体から力が抜けて椅子にへたり込んだ。

そんな俺を見て一弥が俺の肩を揺らした。

そこで何とか意識を繋ぎとめた。

「俺が助けた女の子って、もしかして一ノ瀬さんだったの?」

「はぁ? マジで言っているのか? 瑞貴」

一弥も驚いて冷静さを欠いている。

俺を下の名前で呼ぶくらい動揺している一弥を初めて見た。

髪の毛をおろした一ノ瀬さんは間違いなくあの女の子だった。

すると、一ノ瀬さんが泣き出してしまった。

「ご、ゴメン。俺、気が付かなかった。だってあまりにイメージが遠くって」

「これが凛子の素顔なの」

「わ、私、野神さんに嫌われちゃったから……」

嫌われた? あの時、女の子が泣きながら走り出した訳が初めて判った。

「それは、誤解というか一ノ瀬さんだって判らなかった訳だし。もしもだよ、前の日に初めて出会った人が次の日に自分の家の前で待っていたらどう思う?」

「ええ、凛子さんそんな事したの?」

「だって、お礼がどうしても言いたくって」

「そりゃ、駄目しょ。まるでストーカー見たいじゃん」

「うぅ……」

御手洗さんの突っ込みに一ノ瀬さんが俯いてしまった。

しかし、真実が判ったのは良いが明日からの事を考えると憂鬱になる。

他の大多数の社員の誤解はそのままなのだから。とりあえずその問題は放置した。

考えても答えなど無いのが判っていたから。

「それで、いきなり涙なんか流したんだ」

「えっ? 野神君それってもしかして社内で噂になっている営業一課のマスコットがミス侍を泣かせたって言うやつかしら?」

「まぁ、マスコットはともかく。そうですね多分」

「凛子も花と一緒ね。まだまだ鍛え甲斐があるわね」

「あうぅ……ゴメンなさい」

一ノ瀬さんがテーブルに頭が着くくらい俯いてしまった。

「まぁ、噂なんて良いですよ。そのうち無くなりますから。謎も解けましたし、これで誰かさんが言ったみたいにストーカーに刺される事も無いでしょうから。なぁ一弥」

藤堂の渾身の突きが俺のわき腹に炸裂した。

「へぶぅ! 一弥お前なぁ」

「突くぞ」

「突いてから言うな!」

今度は俺が一弥の首を絞めて揺すった。

「ぷっ、ふふふふ。面白い」

俯いていた一ノ瀬さんが肩を震わせながら笑っていた。

「でも、まだ判らない事があるだろ。屋上のキ……」

左手で目の前の皿にあったバケットを一弥の口に突っ込んで言葉を瞬殺した。

「塞ぐぞ!」

「ぷふぁ、死ぬかと思った。塞いでから言うな!」

一弥がバケットを口から吹き出して叫んだ。

一弥の事だ、半分マジ切れだったのだろう。でもそれは1人の笑い声で有耶無耶になった。

俺と一弥の目の前で一ノ瀬さんがお腹を抱えて大笑いしていた。

「あ~苦しい、でも面白い」

一ノ瀬さんがひぃーひぃー言いながら笑い転げていた。

「初めてみた、凛子さんがこんなに笑っているの」

「そうね、やっぱりのっちは凄いわ」

一ノ瀬さんのお陰で一弥もいつもどおりに戻っていた。

少し顔が引き攣っていたがそこは無視をする。

「それで、野神君は凛子の事をどう思っているの?」

「はぁ? 双葉さん……いきなりとんでもない爆弾発言を、いったい何を言っているんですか?」

「そのままよ、凛子の事が好きなのか嫌いなのか」

「ちょっと良いですか? 俺は一ノ瀬さんの事を何も知らないんですよ。そりゃ入社して1年経ちましたから秘書課のクールビューティーで人気ナンバー1のミス侍と呼ばれている事と、こんな言い方は失礼かも知れませんが、こんな可愛いらしいところがある事を今の今知った訳で、いきなりどうかと聞かれても返答に困ります」

「さすが、真面目ね。とりあえず付き合ちゃおうなんて考え無いのね」

「他の奴等はどうか知れませんけど、俺はいきなり付き合ってくださいなんて言って付き合い始める奴を信用しません、男も女も」

「一目惚れでも?」

「それは稀なパターンですよ」

それは俺の本心だった。

「本当に真面目で良い子ね。でも凛子は野神君が入社する前から知っていたみたいだけれど」

「一ノ瀬さんが俺の事を入社前からですか?」

俺には覚えが無かった。

確かに会社に居る時とのイメージとかけ離れていたので、俺が助けた女の子が一ノ瀬さんだと判らなかったがそれでも、入社前に出会っていた記憶が無いのだ。

「ほら、凛子。ちゃんとしなさい」

「でも、私……」

「私達が何も知らないとでも思っているの? 屋上で寝ている野神君にキスしたくせに」

「私、驚いたもん。凛子さんがあんなに積極的だなんて」

一ノ瀬さんの顔が真っ赤になった。

やはり一ノ瀬さんだったんだ、真実を晒されてなんだか気恥ずかしい。

「野神君も気付いていたんでしょ?」

「いや、何となく。ですね」

「謎が解けたな」

「まだ、解けてない」

一弥の言葉にボケも突っ込みも出来なかった。

すると一ノ瀬さんが1枚の写真をテーブルの上に置いて俺の方へ差し出した。

その写真を手に取って見る。

「これって、俺だ。それじゃあの時の女の子が一ノ瀬さんなの?」

「はい!」

その声は意思のあるはっきりした返事だった。

一弥が俺の手から写真を取った。

「ビックベン? ロンドン?」

その写真はロンドンのビックベンをバックに立っている俺と女の子の写真だった。

「ロンドンってのっちはイギリスに居たの?」

「ええ、まぁ」






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