第8話 香乃木家

僕は編集部を辞めた日の夜に実家に戻った。

翌日から僕の周りはバタバタと結納や婚礼の準備に追われていた。

僕は縁側に座り庭から見える門を見ていた。

あの門の外には自由があった。

昨日の事なのになんだか懐かしいような気がした。

「ほら、進。邪魔だ、どけこの役立たず」

「痛いよ、一美姉さん」

「お前がそんな所でボーとしているからだ」

「ゴメンなさい」

縁側に座っている僕を蹴り飛ばしたのは長女の一美姉さんだ。またここに帰ってきてしまった事が体感できる。

「お母様。あれ、何とかならないの? あんなのに継がせるのなら私が継げば良かった」

「あらあら、困ったものね」

僕は家に居る時は一切反抗や口答えする事を止めた。

そんな事をすれば倍以上に返って来るからだ。

まぁ、大人しくしていてもあまり変らないのだけど。

それはそれでしょうがない事なのだと思っていた。

「おい、進。お前本当に結婚する気があるのか?」

「三波姉さんは何を言っているの、戻ってくるように仕向けたのは誰なの?」

「だから進は駄目なんだ」

「そんな事、子どもの頃から知っているよ、散々言われ続けたからね。僕には何の力も無いから」

屋敷のどこに居てもこんな感じだった。

僕と一番歳の近い三波姉さんでもこんな感じなのだ。

仕方なく縁側を後にする。

「あの、ボケナス。私が結婚すれば良かった」

「あらあら、三波もそんな事言わないの」

「だって、あんなのと結婚する人が可愛そうでしょ」

自分の部屋に行こうと2階に上がると今度は双葉姉さんに出くわした。

「進、どこに行くんだ?」

「自分の部屋だよ。双葉姉さんには関係ないでしょ」

「お前の為に皆準備しているんだろ」

「僕の為じゃないでしょ、家の為でしょ。僕の意思なんかどこにも有りはしない」

「お前、覚悟を決めて帰って来たんだろ」

「覚悟を決めて帰って来たよ。約束だからね、それで良いでしょ。僕がここに居れば何も問題は起きないんだ」

「進、お前家を継ぐ気あるのか? お嫁さんに対して失礼だろ」

「何を言っているの? 一度も会ったことの無い相手に対して思う事なんか1つも無いよ」

次女の双葉姉さんが眉間に皺を寄せて、僕を睨みつけながら掴みかかってきた。

「進は本当に人間の屑だな」

「人間の屑のほうがまだマシだよ、僕はただの木偶人形みたいなものだからね。手を離して、姉さん達に僕の気持ちなんて判らない。判ってもらいたくも無いけどね」

そう言って自分の部屋に戻った。

「あっ、お母様」

「進は?」

「部屋に引き篭り。あの馬鹿、ギッタンギッタンのボコボコにして家から追い出してやる」

「あらあら、双葉まで。面白い事になりそうね」


編集室はとても静かだった。

「なぁ、デスク。どうなるんだ?」

「俺に聞くな、鳴滝。覚悟だけは決めておかないとな」

三つ編みメガネの宇多野は窓の外を眺めていた。

「でも、昨日。編集長が出勤して来た時には、本当に私ここを辞めようと思いました」

「まぁ、アリスの覚悟だけですまなければ辞める事になるだろうな」

デスクの嵐山の手には円の辞表があった。

そこに常務が慌てて駆け込んできた。

「おい、嵐山。どうなっているんだ?」

「はぁ? 入稿は終わっていますよ」

「そうじゃない、円君はどうした」

「昆虫採集に行きましたよ。虫取り編みと虫篭を持って閻魔様の所に2~3日で戻ると思いますよ」

「必ず、事の顛末を報告しろ。いいな」

そう言い残して常務が編集室を出て行った。


翌日、結納の日は僕の心の中とは裏腹に抜けるような青空が広がっていた。

紋付羽織袴を着せられて座敷には緋毛氈が敷かれ。

結納の品々が白木の献上台に綺麗に並べられていた。

祝いの席と言う事もあり、屋敷には楿流古武道の28支部の支部長も集められていた。

結納が終われば僕の人生も終わる香乃木 進が死ぬ訳ではないが、香乃木 進と言う器だけが生き続けるだろう。

まだ、相手の女性は到着していなかった。

門の方に目を向けると門前に1台のタクシーが止まるのが見え中から1人の女性が降りてくるのが見え、僕は声を失い目を疑った。

その女性は黒い長い髪を風に揺らしながら鼻筋の通った顔をこちらに向けて歩いてくる。

黒いペイズリー柄のワンピースを来て軽くて温かそうなアイボリーのカシミアのコートを羽織って、大きく開いた胸元にはとても綺麗な青い蝶が揺れていた。

その女の人が門をくぐるなり叫んだ。

「コオロギ! 帰るぞ、俺の下僕が勝手な事しやがって、出て来い!」

「円さん、何で……」

窓を開けて庭に下りると着物姿の母が円さんに向って歩いて行くのが見える。

すると僕の方を見て僕の近くに居た双葉姉さんと三波姉さんに指示を飛ばした。

「双葉、三波。進を取り押さえなさい!」

「お前はここに居ろ!」

「進は動くな!」

母の声に反応した2人が僕を後ろから羽交い絞めにした。

「離せ、離せよ!」

「コオロギ!」

僕の姿を見つけた円さんの叫び声が聞こえる。

僕は姉2人に頭を押さえ込まれて顔を上げることすら出来なかった。

「祝いの席に土足で踏み込んできて、ただで済むと思ってらっしゃるのかしら。あなたの会社など潰す事などなんとも無いのよ」

「もう、俺はあの会社とは何も関係ない。俺は有栖川 円だ、コオロギを返してもらう」

母と円さんの会話が聞こえてくる。

何で会社を? 

どうして僕なんかのために? 

円さんの夢を僕が……

「誰を返せとおっしゃっているのかしら。財産目当てのでしょ。進はあなたの様な女だか男だか判らないような人には渡しません。会社に戻り、体でも武器にしてくだらない雑誌でも作っていなさい」

財産目当て? 

体を武器に? 

円さんが夢だと言った雑誌を……

沸々と湧き上がり赤々と燃え盛るマグマの様に怒りがこみ上げてくる。

「言いたいのはそれだけか? あいつは俺が連れて帰る」

何かを打ち抜く様な甲高い音が聞こえ母のどすの利いた声がする。

「楿流古武道宗家 最高師範 香乃木 薫を舐めるのも大概にしなさい。今度は口の中を切っただけじゃ済まさないわよ」

音に驚いて力任せに顔を上げると円さんが座り込んでいての口元から一筋の血が流れていた。

それを見た瞬間、僕の中で何かが弾け飛んだ。

「ウッワァァァァァァーーーーー!!」

何が起きたのか自分自身でも判らなかった。

雄叫びを上げて力任せに起き上がり後ろから羽交い絞めにしている双葉姉さんと三波姉さんを掴み、体を捻り回転させながら振りほどく。

2人の体がふわっと、宙に舞い上がった。

双葉姉さんは何とか受身を取ったが、三波姉さんは受身も取れず地面に叩きつけられた。

「楿流古武術 木の葉返し?」

双葉姉さんのそんな声が聞こえてきた。

そんな事に構わずに円さんの元に向い走り出した。

「円さん、何でこんな事を」

円さんの前に座り懐からハンカチを出して円さんの口元の血を拭き取ると、円さんの吸い込まれそうな茶色がかった切れ長な瞳から大粒の涙が溢れ出した。

「こ、コオロギはもう居ないと思ったら……胸が潰れそうに苦しくなって……」

「しょうがない人だな、決心が揺らぐじゃないですか」

「私……コオロギが……好き……大好きなの……うぅぅぅ……どこにも行かないで……」

円さんが僕に抱きついて泣き出した。

まるで小さな女の子が体を震わせながら泣き叫ぶように。

優しく抱きしめると円さんのいい匂いがした。

「もう、どこにも行きませんから。ね」

円さんの体を抱き上げて門の下に座らせる。

「僕を信じて、ここで待っていてください。必ず迎えに来ますから」

「うん」

円さんの顔を覗き込んで頭を撫でると円さんが小さく頷いた。

立ち上がり母の正面に立ち対峙する。

「円さんを侮辱する事も傷つける事も僕が許しません。それが例え親のあなたであっても」

「あなたに何が出来るの? 何も出来ずに逃げ帰って来たあなたに」

母の目を睨んだまま羽織を脱いで地面に落とした。

「あなた、それの意味が判って居るんでしょうね」

「これが僕の本当の決心です」

「判りました」

僕の目を射抜くように母が見つめて大きく息を吐き振り返った。

「双葉、三波を片付けて四神二十八宿の準備をなさい」

「しかし、お母様。はい、判りました」

双葉姉さんが母の気迫に押されて、三波姉さんを起こし肩を組んで屋敷に入っていく。

「進、あなたも準備なさい」

僕は何も言わずに円さんの元に向った。

円さんは少ししゃくり上げていたが大分落ち着いたようだった。

「こ、コオロギ、何が……」

「ガチンコの勝負です。何が起こるか判りません、僕がもし負けた時は僕の事は忘れてください。良いですね」

「私は、コオロギを信じる。私の下僕なのだから」

「ありがとうございます」

円さんが真っ直ぐに僕を見て言ってくれた。

おでこにキスをして立ち上がり母に一礼して屋敷に戻った。


「円さんと言いましたか? 公平を期す為に少し説明をさせていただきます。四神とは青龍の進、朱雀の三波、百虎の双葉、玄武の一美をそう呼んでいます。そして二十八宿とはその下つまり楿流古武道28支部の支部長を言います。支部長全員と手を合わせして無事通り抜ければ四神とそして最後は黄龍の私と勝負します。進が勝ち抜ければ願いを聞いて差し上げましょう」

「あなたは着物のままで……」

「あなた、進が私の所までたどり着けると思っているのかしら。進は18までしか鍛錬を積んでいない。今まで黄龍までたどり着いたのは私が知る限り祖父ただ1人、今回は青龍の進が挑み、朱雀の三波が使えない為に四神は2人、ちょうどいいハンデかしらね。あなたが手出しすれば進の負けが確定する。そろそろ準備が出来たようね」


僕が道着に着替えて庭に出ると僕より遥かに体の大きな28人の支部長がウォーミングアップをしていた。

その向こうには一美姉さんと双葉姉さんが道衣に袴姿で仁王立ちしている。

その少し後ろに母が門の所に円さんが立って僕を見ているのが見えた。

裸足になり軽く体を動かし深呼吸をする。

僕に気付いたのか師範達が2列に並び待ち受ける。

18までは鍛錬していたとはいえ2年のブランクがあり小柄な僕には長期戦は不利だ。

そして師範に打撃を加えても急所をピンポイントで狙わなければ効果が無い事は重々承知だった。

一点突破を狙うしかない。

「セイ!」

気合を入れた掛け声と共に師範達のど真ん中目掛けて走り出す。

突きを受け流しこめかみにハイキックを打ち込み。

蹴りを掻い潜り懐に潜り込み突きを放つ。

立ち止まれば確実に仕留められてしまうのは目に見えていた。

右から突きを打ち込まれる。

腕でガードするが体の軽い僕は弾き飛ばされてしまった。

歯を食いしばり着地と同時に全身のばねで飛び上がり。

顔面目掛けて蹴りを繰り出す。

そのまま数人の師範の上を跳び越すが着地点に入られて蹴りが左脇に突き刺さる。

ガードなどほとんど効果も無く吹き飛ばされてボールの様に地面を転がった。

「がはっ! うえぇぇ、げほげほ」

未消化の胃の内容物がいやおうなく口から穿き出る。

それでも止まってはいられない。

走り出し袖で口を拭う。

蹴りを飛び越しそのまま顔面に膝を打ち込む。

攻撃が最大の防御だ。

蹴りを受け流し。

鳩尾に突きを放つ。

崩れた相手の体を駆け上がると。

下からアッパー気味の突きを受ける手で堪え。

反動を利用して体を回転させ肩に踵を打ち込んだ。

着地すると数人の師範の向こうに一美姉さんと双葉姉さんが腕を組んで笑っているのが見える。

間を縫うように走り込むと両脇から同時に段差を付けて回し蹴りが飛んでくる。

無意識に蹴り出された2本の足に向かい飛び込んでいた。

起き上がると突きが顔面目掛けて打ち込まれる。

寸で交わすが頬をかすり痛みが走る。

フック気味に突きを打ち抜きそのままの勢いで体を回転させて左手でもう1人に裏拳を懐に打ち込んだ2人の師範の体がぐらつくと道が開けた。

片膝を突いて息を整えていると双葉姉さんが走りこんできた。

体制を整える暇も無く左から蹴りが飛んでくる。

何とかかわし軸足を払おうとするとそこには軸足が無く後ろ回し蹴りが頭目掛けて飛んできた。

鉄骨で殴られた様な衝撃を受けガードごと吹き飛ばされた。

起き上がると軽い脳震盪を起こしフラフラした。

「楿流古武術 旋風(つむじ)」

双葉姉さんの声が聞こえ、気付くと一美姉さんが視界から消えていた。

殺気を感じ振り返ると目の前に蹴り足が見える。

咄嗟に腕をクロスさせガードするが後ろに吹き飛ばされた。

「余所見していると殺すぞ」

情け容赦なく攻撃してくる。

2人相手では分が悪い何として1人ずつ仕留めるしかない。

起き上がる間もなく拳を打ち込まれる。

体のばねで一気に置きあがると姉2人に蹴りで挟み撃ちにされてしまう。

全身に力を入れて腕でガードするが衝撃が体の芯まで響き体から力が抜ける。

膝から崩れた所に2人に回し蹴りを同時に叩き込まれ壊れた人形の様に吹き飛んだ。

「死んだか?」

「これで、終いだ」

遠のく意識の中でそんな言葉が聞こえてくる。

「コオロギーー!!」

円さんが僕を呼ぶ叫び声で、辛うじて意識が繋がり目を開けると頭の上から拳が振り下ろされる。

拳を掌底で受け両足を一美姉さんの首に巻きつけ体を捻り投げ飛ばす。

起き上がると後ろから双葉姉さんの突きが飛んでくる。

体を屈め後ろ蹴りを放つと踵が姉さんの鳩尾にめり込んだ。

「かはっ」

小さく息を吐いて双葉姉さんの体が崩れ落ちた。


時間が無いうえに体力は限界に近かった。

意識は朦朧としていて、辛うじて一美姉さんの攻撃を避けていた。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

自分の荒い呼吸音だけが聞こええる。

次で決まるそう思った瞬間、一美姉さんの上段の蹴りが炸裂する。

咄嗟にかわすが右頬の皮膚が裂けて血が流れる。

体を回転させ肘を一美姉さんのわき腹に打ち込む。

「うげぇ!」

うめき声が上がりやったかと思った瞬間、一美姉さんが体を反転させた。

一美姉さんの膝蹴りが僕の鳩尾に食い込んだ。

「げぇぁっ」

胃の中には何も無く血反吐を吐いた。

「あっぁぁぁぁ……」

やられる、そう思ったが背後で何かが倒れる音がした。

腹を押さえ血反吐を吐きながら立ち上がり振り返ると一美姉さんが地面に倒れこんでいた。

黄龍こと楿流古武道宗家 最高師範の母の方へフラフラと歩き出す。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」

母の後ろでは円さんが泣きながら首を振っていた。

「もう、止めて……死んじゃう……お願いだから。もう、止めて……」

道着で口を拭き、円さんに微笑み返す。

母の前で、静かに息を吸うと意識がフェードアウトしながら体が膝から崩れ落ちる。

母が崩れ落ちる僕の体に拳を叩き下ろした。

「駄目ぇぇぇぇーー」

円さんの絶叫が遠のく意識の中で聞こえる。

僕に柔らかい物が覆いかぶさり。円さんの優しい匂いがする。

刹那、意識が繋がり体を捻り円さんの体を庇い抱きしめ、背中に叩き込まれるだろう母の渾身の突きに身構える。しかし、拳は打ち込まれず母の声が頭の上から聞こえた。

「香乃木 進、あなたを楿流古武道宗家より破門いたします」

そこで僕の意識が途切れた。

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