第7話 クリスマス・イヴ


翌朝、僕は少し早起きをして円さんの朝食を作っていた。

ご飯を炊いてお豆腐の味噌汁を作り、出し巻き玉子にほうれん草のおひたし。

それに焼き魚、これぞ日本の朝食って感じなのかな。

「円さん? 朝ですよ! 起きてください。円さん?」

僕が円さんの寝室の前で呼ぶと、あの怖い顔で円さんが起きてきた。

「うるさいぞ、コオロギ」

「また、人を殺しそうな寝起き顔ですね」

「お前、本気で殴られたいのか?」

「円さんに殴られるのなら良いですよ」

円さんが目を擦りながら僕の顔を怪訝そうに睨んでいた。

「お前、怒られて凹んでいないのか?」

「僕は男の子ですから、へこたれないです。朝ごはんにしましょう」

テーブルに座って食事にする、円さんの顔は疲れ切った顔をしていた。

それでも味噌汁に口をつけると黙々と食事し始めた。

「コオロギ、お代わり」

「はい、どうぞ」

「急いで食べると消化に悪いですよ」

「うるさい、お茶」

「はい、判りました」

僕は食事をしながら円さんの顔をずーと見ていた。

美味しそうに食べる円さんの顔を。それに気付いて円さんの目が光った。

「なに見ているんだ? 俺の事なんて見ていて楽しいか?」

「楽しいというか、嬉しいですよ。ご飯を美味しそうに食べている円さんの顔を見ているのが僕の幸せです」

「バーカ」

円さんが準備をしている間に綺麗に片付け物を済ませた。


編集部に出勤すると電話が鳴りっぱなしで宇多野さんと鳴滝さんが対応に追われていた。

「おはようございます」

「おーす」

「いい所に来た。編集長、取材の問い合わせが殺到しています。3番お願いします」

「3番だな、判った」

しばらくするとデスクと常盤さんも出社してきた。

「おいおい、何の騒ぎだ? 鳴滝」

「判らないです、朝から電話が鳴りっぱなしで」

「株の方が落ち着いたら今度はここが急騰かよ、まったく」

「おい、コオロギ。原稿取って来い。常盤、お前は取材だ。アリスと打合せしろ」

「はーい、了解です」

「うぃーす」

デスクの指示が的確に飛ぶ。

僕はデスクに言われて原稿取りの準備をする。

常盤さんは円さんと打合せを始めた。

「デスク。あのガキ、今日は妙に元気ですけど昨日なんかあったんですか?」

「さぁな、あいつはあいつなりに精一杯生きているんだよ」

「おい、鳴滝。昨日片付けた俺の資料はどこだ?」

「はぁ? 編集長が自分で片付けていたでしょ。ガキのケツは俺が拭くって言って」

「円さん、これですよ、資料。それじゃ行ってきます」

円さんに資料を渡して僕は編集室を飛び出した。


「今日はクリスマスイブだと言うのに残業確実だな」

「鳴滝さん、小説の方どうします?」

「宇多野ちゃんが書くか?」

「そんな悪い冗談止めてください」

「俺も出てくる鳴滝、午後の会議までに何とかしろ。行くぞ常盤」

「は、はい」

「うぃーす」

編集長と常盤が取材の為に編集室を出ると、デスクが宇多野にフラッシュメモリーを渡した。

「何ですか、これ?」

「サンタからのプレゼントだ」

宇多野が不思議そうな顔をしながらもフラッシュメモリーをパソコンに繋いだ。

「もう、デスクまで。悪い冗談言わ……って、これ『初恋・幽霊の時』の原本データじゃないですか。どこからこんな物」

「宇多野ちゃん、今はそんな事言ってないで会議の資料だ。時間が無い」

「鳴滝さん、判りました」

宇多野と鳴滝は大急ぎで午後の会議の資料を作り始めた。


一時間ほどで僕が原稿を持って編集室に戻るとデスクが窓の側に座って窓の外を眺めていた。

「デスク、戻りました。これ原稿です」

「俺の机に置いておけ」

「はい。他の皆はどうしたんですか?」

「アリスと常盤は出たまんま、鳴滝と宇多野は会議室で資料の準備をしているよ。山ノ内は相変わらず鉄砲玉だ」

「あはは、山ノ内さんとは1回も会えなかったな」

「なぁ、コオロギ。本当にこれで良いのか?」

「良いんです、これで。最後に楽しい思い出が出来ましたから。これ円さんに渡して置いてください」

僕は、デスクに綺麗にラッピングされた細長い箱と1通の手紙を託した。

「これは?」

「今日はクリスマスイブですから。そろそろ時間なので僕はこれで、皆に宜しく伝えてください。突然現れて、突然居無くなる事を許してくださってありがとうございます。本当に短い間でしたがありがとう御座いました」

僕はデスクに深々と頭を下げて楽しかった思いを胸に編集室を後にした。


「間に合った。これで、編集長の首も繋がったよ」

「でも、どうしてデスクがデータ持っていたんでしょうね」

鳴滝と宇多野が編集室に会議の準備を終えて戻ってきた。

2人が編集室に入るとデスクは書類の整理を、常盤は相変わらずパソコンに向って仕事をしていた。

「あっ、デスク。聞いても良いですか? あのデータは誰が?」

「お、お疲れさん。コオロギだよ。あいつが作者だったんだ。」

「えっ? 今、デスク何て?」

「あのガキがですか?」

「鳴滝、コオロギはお前が思っている程ガキじゃねぇよ。コオロギから直接預かったのだから間違いない。仕事も住む所も失い、アリスに振り回されて小説どころじゃなかったのだろう」

「それじゃ、あのガキはどこに居るんですか?」

鳴滝の問いにデスクは答えず窓の外を見た。

そんなデスクの姿を見た宇多野が大きな溜息をついた。

「やっぱり、帰ってしまったんですね」

「宇多野は何か知っているのだな」

「私、偶然に香乃木君の電話しているのを聞いちゃったんです。円さんに助けてもらわなければ僕は死んでいた、死ぬのなんか怖くない。クリスマスに帰るって途切れ途切れで良く聞こえなかったのですが、そうしたら香乃木君が話してくれたんです。僕には会った事も無い許婚がいて20歳の年のお正月に結婚しなきゃいけないんだって、それが嫌で逃げ回っていたと言っていました」

「とことん逃げ回ればいいじゃねえか、だからあいつはガキなんだ!」

「そうは行かなくなくなったんだよ。今回の件で」

「今回の件? 何をさっきから訳判んない事言っているんですか、デスクは?」

鳴滝が苦々しい顔をしてヒートアップしてデスクの嵐山に噛み付いた。

「株の買収、取材拒否の一連の騒ぎはコオロギの母親がコオロギを連れ戻す為に起こしたんだ。今までも何度と無く仕事先に手を回されてコオロギはバイトを転々としていた。そしてアリスと出会った。アリスを守る為に母親と取引をしたんだ。手を引かせるために実家に帰る事と恐らく結婚を了承したのだろう」

「ガキじゃないですかまるで、ガキが考えそうな事だ、守りたいのなら側に居て守れば良い。大体嫌がらせされたぐらいで潰れるような会社じゃないし取材拒否だって他を取材すれば良い事じゃないですか」

「それは、どうかな」

常盤がパソコンのマウスを操作しながらボールペンを咥えて口を挟んだ。

「常盤さん、どう言う意味ですか?」

「楿(かつら)財閥、頭首・香乃木 薫 楿(かつら)流古武道宗家 最高師範 コオロギの母親だ。俺等が束になっても蛙の面に小便だ。女系家系だと聞いたことがある。父親はコオロギが幼い頃に他界。どんな事をしてもコオロギを連れ戻すだろうな」

「常盤、お前知っていて」

「知っていてどうするんですか? デスク? 言ったでしょ蛙の面に小便だって」

「楿財閥って……デスク……」

「うちを潰す事なんて赤子の手を捻るより簡単だ。だからコオロギは逃げ回るのを止めた。これ以上周りに迷惑を掛けない為に」

鳴滝が納得の行かない顔をした。

「それじゃ、デスク。あのガキは……」

「そう、惚れた女の為に自分の人生と自分の本当の気持ちを切り捨てたんだ。アリスの夢を守る為にそして俺達に迷惑を掛けないようにな」

「ああ! ムカつく! ガキじゃねぇ、大馬鹿野郎じゃねえか」

「デスク、何とかならないんですか?」

鳴滝が声を荒げ。宇多野がデスクに哀しそうな目で問いかけた。

「無理だな、住所くらいは判るが。コオロギがそこに居るとは限らない、それに俺達が首を突っ込んで良い問題じゃないだろ、アリス次第だ。しかし手詰まりだな、コオロギの居所がわからなければ」

そこに編集長の円が戻って来た。

「アリスのご帰還だ。鳴滝、会議の準備をしろ」

「俺、嫌です」

「お前に何が出来る! コオロギの気持ちを少しでも汲んでやれ! 一番辛いのは誰だ? テメエか? 鳴滝!」

デスクの嵐山が鳴滝の胸倉を掴んで怒鳴り飛ばした。

「おいおい。俺が戻るなり何の騒ぎだ、一体? デスク、何を熱くなっているらしくねえぞ。鳴滝、行くぞ」

「判りました。デスク、すいませんでした」

鳴滝がデスクの手を振り解いて頭を下げて編集長の円と会議に向った。

「ほれ、宇多野。しょぼくれて居ないで仕事しろ」

「は、はい」

「しかし、どうしたものかな」

デスクの嵐山は深い溜息をついて天井を仰いだ。


イブの会議は日が暮れるまで続いた。

会議が終わる頃には夜の帳が下りて街にはクリスマスソングが流れ、星空が舞い降りて来た様にイルミネーションが光輝いていた。

編集室では会議の終わるのを皆が待っていた。

デスクの嵐山は椅子に座り腕を組んで天井を見上げ。

無精髭を生やした常盤はボールペンを咥えパソコンのモニターを見ながら。

三つ編みメガネの宇多野はほお杖を突いて溜息を量産していた。

そこに編集長の円と鳴滝が編集室に戻って来て円が皆に声を掛けた。

「よし、会議も大成功だ。久しぶりに飲みに行くぞ! 鳴滝は何でそんなしけた顔しているんだ?」

「アリス、コオロギからクリスマスプレゼントだ」

デスクが円に香乃木から預かっていたプレゼントと1通の手紙を渡した。

「へぇ~でコオロギは?」

「いねえよ」

「あの馬鹿、しょうがない奴だな」

そう言いながら円が綺麗にラッピングされた箱のリボンを解いて箱を開ける。

箱の中には世界一美しい蝶と呼ばれているモルフォの綺麗なメタリックブルーの本物の蝶の羽を使った、蝶の形のペンダントトップのネックレスが入っていた。

手紙には急に実家に帰らなければならなくなった事とお世話になった礼が綴られていた。

「そうかコオロギは実家に帰ったのか。いらねぇ気なんか使いやがってこんな蝶のネックレスなんか置き土産にしやがって最後まで小賢しい奴だ」

「蝶ですか、プシュケですね」

「宇多野、しゃれた事言うなお前も、やっぱり俺と違って女の子なんだな」

「良いんですか? 編集長、香乃木君このままで」

「コオロギは自分の意思で帰ったんだ、それで良いじゃねえか」

そこに髪の短いツンツンヘアーの背の高い痩せ型の大学生風の男が編集室に駆け込んできた。

「あれ? 皆さんおそろいでどうしたんすか? 今日はイヴなのにまるで葬式か通夜みたいすよ」

「山ノ内、俺に挨拶は? いつも鉄砲玉みたいに飛びまわりやがって」

「あっ、編集長。休みください」

「てめぇ、殺すぞ。この忙しいのに休みくれだぁ?」

編集長の円が凄んでも山ノ内はヘラヘラとしていた。

「いや、急に実家の親父が帰って来いって。何でも得意先の楿(かつら)流古武道宗家で急に婚礼が決まったから店手伝えって急にいわれたんすよ。実は俺んち地元じゃかなり有名な仕出し屋なんすけどね」

「おい、山ノ内。テメエ、今なんていった!」

「な、鳴滝さん? いきなりなんすか?」

「どこの婚礼だって?」

鳴滝がいきなり山ノ内の胸倉を掴むと山ノ内が突然の出来事に動揺していた。

「な、なんすか? 俺の地元にある楿流古武道宗家ですよ。でっかい屋敷であそこの1人息子は中学の時の後輩すから」

「はぁ? そいつの名前は?」

「こ、香乃木 進って奴でチビで童顔の」

「ふっはははは……鳴滝、離してやれ。山ノ内、婚礼はいつだ?」

デスクの嵐山が笑いながら鳴滝と山ノ内に言うと、渋々鳴滝が手を離し。

山ノ内が胸を撫で下ろしながら答えた。

「明後日が結納で、たしか婚礼は正月あけって親父が言っていたような。だから慌てて戻って来たんすよ。そうしたら怒鳴られるばっかで、訳わかんなんないすよ」

「俺が許可するから好きなだけ休め。連絡は入れろよ」

「あざーす。失礼します」

山ノ内は鉄砲玉の様に編集室を出て行った。

「おい、アリスどうする気だ? お前、会議前の俺等の会話聞いていただろう」

「えっ? 編集長?」

「宇多野なんだ、その顔は。俺は聞いてねえよ、何の事だ?」

「惚けるな、俺が気づかないとでも思っているのか? アリスの態度をみていれば直ぐに判る。俺とお前は腐れ縁だぞ、伊達に腐るほど付き合っている訳じゃねえんだ」

見透かされて円が肩を落として溜息をついた。

「俺なんかと居るより実家で結婚した方が何不自由なく幸せに暮らせるだろ」

編集長の円が窓の外に顔を背けた。

「編集長、良いんですか? 俺はああゆう馬鹿は大好きですよ、最初は大嫌いでしたけどね。俺には真似出来ませんよ。たかがPsyche(プシュケ)なんて女性誌を守る為に自分の人生切り捨てるなんて事は。あいつはガキなんかじゃなかった。俺より大馬鹿な男だった」

「編集長、迎えに」

「行かねぇ、俺が行ってどうする。おめでとうでも言うのか?」

口を真一文字にした宇多野が円の頬を平手で撃ち抜いた。

宇多野の目には涙が零れそうになっていた。

「最低! 私は編集長がそんな腰抜けだと思わなかった! こんな人に今まで付いてきたのかと思ったら、自分に腹が立ってきた! 鳴滝にPsyche(プシュケ)なんて雑誌とまで言われて自分の夢だなんて言っていたくせに! 香乃木君は編集長の言った通り編集長なんかと居ない方が幸せかもね。俺様のプライドはどこに行ったの? 鳴滝、朝まで飲むから付き合え!」

「宇多野ちゃん? おいおい、そんなに引っ張るなって」

宇多野が怒り狂ったように叫んで鳴滝の腕を掴んで編集室を出て行ってしまった。

「常盤は今夜どうするんだ?」

「デスク、いつもの所に居るんで」

「おー、お疲れ」

常盤が編集長に一礼して編集室を後にした。

「結局、皆コオロギの事が大好きだったんだな。不思議なやつだよなコオロギは」

「馬鹿な奴だよ、まったく」

「大馬鹿だな、コオロギはお前の本当の気持ちを知らないまま。一生後悔するんだろうな」

「なんだそれ」

「アリスがコオロギを怒鳴り飛ばして帰した夜に、コオロギにあいつの本心を聞いたんだ。あいつ、泣きながら言っていたよ。大好きだから大好きな人の夢を壊したくないってな、自分では守れないからって。そんな事言いやがる、だから俺は聞いたんだ。自分の気持ちに正直にならないと一生後悔するぞって。そうしたら俺を見据えて言いやがったんだ。僕は一生後悔しても構いません。円さんならきっと良い人と出逢えると、綺麗で優しい人なんだから、僕が保障しますってな。お前の所にはサンタクロースが来てお前の夢とその蝶のネックレスを置いて行った。そして俺らには小説のプロジェクトをプレゼントしてくれた。でも、あいつの所にはサンタクロースは来ない」

「馬鹿みたい、私なんかの為に」

「そうだな、アリスと出会わなければコオロギは今頃死んでいたのかもな、あの時のお前のように。仕事なら何回もやり直せるが人生はやり直せねぞ。自分の気持ちに素直になれ、どいつもこいつもニブチンなんだ、言葉で伝えねぇとわからねぇぞ。これ以上俺達は何も言わない、アリスの好きなようにしろ」





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