第6話 公園
夕方になり円さんが疲れ切った顔で戻ってきて椅子に倒れこんだ。
そこにあのダンディな常務さんが血相を変えて駆け込んできた。
「おい、円君。どうなっているんだ? 取材の方は」
「今、全力で調整中です」
「時間が無いんだぞ」
「判っていますよ。常務に言われなくても、皆、必死にやっているんです」
「全く、どうなっているのだ。この会社は、どこの財閥か判らんが理由も無く株が買い上げられて」
常務と円さんが言い合いを始めてしまった。
そして僕の頭の中には1つの嫌な予感がしていた、常務の話を聞いていると僕がカードを使った翌日くらいからおかしな株の買取が始まったのだ。
財閥そして取材拒否、明らかに大きな力が動いていた。
「宇多野さん、申し訳ないのだけど携帯を借りられないかな。電話をしたいんだけどここじゃあれだから」
「ええ、良いよ。気にしないで使って、データを復帰させてもらったんだもん。ドンドン使っていいから」
「ありがとう、それじゃ借りるね」
宇多野さんから携帯を借りて編集室をでて少し先の廊下で電話していた。
「おい、宇多野。コオロギは?」
「あ、今電話中です」
「良いから呼んで来い。あの馬鹿が仕事を中途半端で終わらせやがって」
僕は宇多野さんが呼びに来たのに気付かずに電話をしていた。
「……もう止めて! これ以上は編集部の皆に迷惑が掛かるから。……約束? 忘れてないよ。でもこれ以上何かするのなら僕にも覚悟があるからね。……結納の準備? すれば良いさ。これ以上手出しするのなら僕は死ぬのさえ厭わないからね。円さんに助けてもらわなければ僕は死んで居たんだ。死ぬのなんか怖くない……判ったから直ぐに手を引いてクリスマスには帰るから」
「こ、香乃木君? 結納って?」
僕が振り返ると宇多野さんが真っ青な顔をして立っていた。
たぶん興奮して大きな声になっていたから結納や死ぬの云々を聞かれてしまったのだろう。
「あはは、宇多野さんそこに居たんだ、聞かれちゃったかな?」
「ご、ゴメン。聞く気は無かったんだけど編集長が呼んで来いって」
「皆には黙っていてくれるかな。実は僕には家同士で決めた会った事も無い許婚がいるんだ。それで20歳になった年の正月に結婚しなきゃならないんだ。でもそれが嫌で逃げ回っていた、その事で皆に迷惑かけちゃった。円さんには心配かけたくないから何も言わないで」
「うん、良く私には判らないけど。約束する。呼んでいるから行こう」
「ありがとう」
宇多野さんと2人で編集室に戻ると常務は仕事に戻って編集室には居なかった。
直ぐに円さんに呼ばれて怒られた。
電話をしていて僕が中途半端に仕事を残したからいけなかったのだ。
「すいませんでした。以後気をつけます」
「いい加減な仕事をするな。中途半端な事しやがって」
「鳴滝、小説の方はどうなっているんだ?」
「今、急いで調整中ですよ」
「調整中、調整中っていっこうに進まねえだろうが」
「そんなにキャンキャン言わないで下さいよ。先月の末から作者と連絡が取れないんです。どうしようもないでしょ、ネットの上じゃ」
編集部がバラバラになりそうになっていた。
ギシギシと音を立てながら今にも崩れそうなのが判った。
全部僕の所為なんだ。
「イブの会議までに何とかしろ。最悪このプロジェクトは中止だ、俺が責任をとる」
「そんな無茶な。Psyche(プシュケ)はどうするんですか? 編集長の夢なんじゃないんですか?」
「だから、何とかしろと言っているんだ!」
「円さん、その実は……」
「お前はゴチャゴチャと引っ掻き回すな! 邪魔だ! 帰れ!」
円さんが声を荒げて僕に言い放った。
円さんは一日中、足が棒になるくらいまで歩き回って居たんだと思う。
それでも駄目で疲れはてて上からは急かされて身動きが取れなかったんだと思う。
そこに僕が余計な事を言うから。
全て僕が悪いのに……
何も言えずに何も出来ずに、僕は円さんに言われたとおりにするしかなかった。
「すいませんでした。お先に失礼します」
そう言い残して深く頭を下げて編集部を後にした。
僕と入れ違いでデスクが戻って来た。
「おいおい、何があったんだ? コオロギの奴。今にも死にそうな顔していたぞ」
「編集長ですよ。頭ごなしに怒鳴り飛ばすから、あのガキじゃ本当に死ぬか居なくなりますよ」
「うるせえ、鳴滝がとっとと進めないからだろうが」
「はいはい、俺の責任です、小説の件は。でも理由くらい聞くべきじゃないですか?」
「理由だ、そんなのは言い訳に過ぎねぇだろ」
「編集長、実は……」
「宇多野ちゃんは俺付きだから、俺が言う。宇多野ちゃんのデータを完全に復帰させたのは悔しいけれどあのガキです。俺達じゃ手も足も出なかった。それをあいつは常盤さん以上の速さで終わらせたんです。それに時間を取られて自分の仕事が遅れたんですよ!」
鳴滝が机を叩きつけて叫んだ。
「…………」
編集長の円が何も言わずに椅子に座り込んだ。
「相変わらず、しょうがない奴だなアリスは。コオロギは俺が何とかするからお前ら残りを手分けして片付けろ。いいな」
デスクがそう言って香乃木の後を追いかけた。
鳴滝と宇多野が編集長のデスクにやって来た。
「編集長。どの書類を、片付けるのですか?」
「あいつのケツは俺が拭く。2人は自分の仕事をすれば良い……」
編集長の円の声に張りが無くうな垂れて指示を出した。
鳴滝と宇多野は肩をすぼめた。
僕が円さんに怒鳴られて編集室を後にして歩いて円さんのマンションに向っていると後ろからデスクの声がした。
振り返るとデスクが膝に手を当てて息を整えている。
「おーい、コオロギ。少し付き合え。あ~疲れた」
「デスク? どうしたんですか? そんなに慌てて」
「これから時間あるか?」
「家に帰って円さんの夕食作らないといけないから。そんなに時間は無いですけど」
「お前、そんな事までしているのか?」
「だって悪いじゃないですか。家賃払っている訳でもないのに」
「本当にお前は不思議な奴だな。それじゃ、そこの公園でいいから付き合え。お前に男同士の話がある」
「判りました」
デスクに連れられて道沿いの公園に向って、途中の自販で温かいコーヒーを買ってベンチに座った。
「なぁ、コオロギ。アリスの事を許してやってくれないか?」
「えっ、許すもなにも僕の責任ですから」
「そうか、アリスも大変なんだよ。女があんなに癖のある連中を纏めるんだ」
「そうですよね。それに余計なお荷物まで抱えて」
「あのな、あまり自分を卑下するな。お前は良くやっている」
僕は缶コーヒーを両手で持って膝に肘をついて誰も居ない街灯に照らされた薄暗い公園の広場を見ながらデスクの話を聞いた。
「デスク。聞いても良いですか? 何で円さんはその苗字で呼ばれるの嫌がるんですか?」
「それは苗字の有栖川って呼ばれるのが嫌なんじゃなくってアリスと呼ばれるのが嫌なんだよ」
「僕が聞いて良い事か判らないんですけれど理由は何でですか?」
「コオロギなら良いだろ、と言うかコオロギに聞いてもらいたくて追いかけて来たんだ」
デスクの思いもよらない言葉に僕は驚いた。
円さんの過去を話すために僕をデスクは追いかけてきた事になる。
なぜか追いかけてきた理由のほうが気になった。
「アリスと俺が親戚なのは知っているよな」
「ええ、初耳です。それ本当ですか?」
「まぁ、美女と野獣ほど全く似てないがアリスは俺の姪だ。それじゃここからが本題だ」
「判りました」
僕はデスクの方に体を向けてデスクの顔を見た。
「アリスには大学生の時に付き合っている男が居たんだ。俺が近くに住んでいたのもあって良く相談されたよ。その度に別れろと言ったのだがあいつは聞かなかった。大好きだったんだろうな、どうしようもないくらい。結婚をちらつかされて貢ぐだけ貢いで身も心もボロボロにされて捨てられたんだ。そして街を彷徨って歩いているのを俺が見つけたんだ。もう少し俺が見つけるのが遅ければアリスは死んでいたと思う。それくらい酷い状態だった。大学卒業を控えた冬の事だ、年は明けていなかったからちょうど今時分だな、だからコオロギの事が余計に気になったのかもな。自分と同じように街を彷徨っているお前に」
「円さんにもそんな辛い事があったのですね」
「そして何とか大学を卒業させて俺が今の出版社に強引に入れた。元々アリスには才能があったのだろうメキメキと頭角を現した。女だからなんて言わせないとその頃からアリスは女である部分を切り捨てた。男に対する反発もあったのだろう、男言葉になり格好まで男になった。アリスというのは大学時代の呼び名だ。あいつが女の子だった時代の呼び名だから嫌がるんだ。それでも俺はあいつに大切な物を忘れて欲しくなくってアリスと呼んでいる」
「それで、いつもあんな格好であんな口調なんですね」
「なぁ、コオロギ。お前はアリスの事どう思っているんだ?」
「えっ? 僕ですか? 円さんの事は好きですよ、時々とんでもなく酷い事されるけど優しくしてくれるし」
「アリスは不器用だからな、不器用と言うより怖いのかも知れないな」
「何の事ですか?」
「人を好きになる事、誰かを愛する事。コオロギの事を面白おかしく構うのは愛情表現だよ。時々やり過ぎでお前を困らせるけどな。お前が始めて編集室にやって来たあの日、俺はお前を追い出そうと思っていた。でも賭けをした時アリスはお前を信じると言った。正直驚いたよ。そしてお前がアリスにキスをされて気を失った時に確信したんだ。お前の顔を覗き込んだあの顔は恋をしている顔だと、そしてアリスはこうも言ったお前と一緒に居ると凄く落ち着くと」
「でも、知り合ったばかりですよ」
「恋に堕ちるのに時間は関係ねぇよ」
「だけど弟みたいだって言われて」
僕が俯くとデスクが溜息をつきながら僕の肩を掴んで真っ直ぐに僕を見た。
「本当にどうしようもないニブチンばかりだな。香乃木 進、テメエの気持ちはどこにある。お前はアリスとどうしたいんだ?」
「僕は円さんと一緒に居たいですよ、一緒に居たいけど一緒に居れば今回のように迷惑をかけてしまう。僕は円さんと一緒に居ちゃいけないんです」
「香乃木、お前何の事を言っているんだ?」
デスクが怪訝そうな顔をして僕の顔を見た。
「実は今起きている騒ぎは、僕を連れ戻す為に僕の母が手を回しているんです。今までも何回もバイト先に手を回されて首になって。それでも僕は実家に戻るのが嫌で逃げ回りました」
「良く判らんが、なんで居場所がバレたんだ。お前はうちに来たばかりだろう」
「たぶん、円さんが良く買い物をする百貨店で僕がカードで買い物したからだと思います。円さんに喜んで欲しくって見栄を張って。それが元で円さんを苦しめてしまって、馬鹿ですよね」
デスクは何も言わずに僕の話を聞いてくれた。
そしてしばらく2人の間に沈黙が流れた。
空を見上げると半分に欠けたお月様が笑っているように見えた。
「でも、もう大丈夫です。母には手を引かせました。僕が実家に戻り母に従うと言う条件と引き換えにですけど」
「それじゃ、お前……」
「それ以上言わないで下さい、デスク。いや嵐山さん。僕の決心が揺らいでしまうから、僕はここに居てはいけないんです。円さんの事は大好きですよ、嵐山さんに言われなくても。でも大好きだからこそ、大好きな人の夢まで壊したくないんです。ゴメンなさいこれ以上は、僕……僕じゃ……円さんを……守れない……」
止め処も無く涙が溢れてきた。
胸が押し潰れそうで苦しくって哀しくって。
デスクは僕が落ち着くまで何も言わず横に座っていてくれた。
「なぁ、コオロギ。お前に最後に言っておきたい事がある。自分の気持ちに正直に生きないと一生後悔するぞ」
僕は夜空を見上げて大きく深呼吸をして立ち上がり。
デスクこと嵐山さんの正面に立つと、嵐山さんもきちんと僕を見てくれた。
「僕は一生後悔しても構いません。円さんならきっと良い人と出逢えますよ。だってあんなに綺麗で優しい人なのだから、僕が保障します。何も心配いりませんよ、クリスマスにはサンタクロースが素敵なプレゼントをくれるはずです」
僕は満面の笑顔で嵐山さんに答えた。
「それとこれ、宇多野さんに渡してください。中を見てもらえれば判ると思います」
「フラッシュメモリーじゃないか」
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