第5話 編集室
僕が円さんに助けられて住む所も仕事も与えてもらい。
そんな生活に慣れてきた頃には、もうクリスマスが直ぐそこまでやって来ていた。
そして色々な事が動き出してしまう、良い事も悪い予感も。
小さな歯車が少しずつ大きな歯車を動かすように。
良い事って言うのは僕が出版社の円さんの編集部以外の人達に認知されて来たって言う事なんだけど。
それはそれでなんだか微妙な感じだった。
「コオロギ君、おはよー」
「おはようございます」
「きゃー可愛い! ぷにゅぷにゅ、ほっぺ触らせて。いやん、柔らかい」
そんな事を言ながら僕の頬を摘んで来る他の部署の女性社員や中には……
「あっ居た。コオロギ君おはよー、ほらほらお姉さんが柔らかい胸でハグしてあげる」
「おはようございます。言ってから抱きついて着てくださいね」
「もう、クールなんだから」
なんだか顔を覚えられるのは嬉しいのだけど、どこかのマスコットキャラみたいな扱いなのだ。
お陰様で最近じゃ女の人に対する免疫が出来てきて、円さんに抱きつかれようが胸を押し当てられようが顔が赤くなる事はなくなってきたからそれはそれでいいのかもしれない。
「おっ、コオロギ君。頑張っているか。円の事、宜しくな」
僕の頭をなでながら渋い声で言ってくる、この人は何でもこの会社の常務さんらしい。
背が高くがっしりとした体格で、ロマンスグレーの髪の毛をいつも綺麗にセットしてキリッとした目鼻立ちの格好良いおじさんである。
女子社員の間ではナンバーワンの人気で愛妻家だと聞いたことがあった。
「おはようございます。遅刻しそうなのでこれで失礼します」
一礼をして編集室に向う。
編集室に入ると直ぐにデスクが声を掛けてきた。
「おい、コオロギ。お茶を入れてくれ」
「はい、判りました」
編集室の隅にある小さなキッチンでお茶を入れる。
人数分のお茶葉を急須に入れ少し冷ましたお湯で1分ほど蒸らしてから湯飲みに入れてスタッフ全員に配る。
「デスク、ここに置きますよ」
「おお、悪いなお茶汲みなんかさせて」
「そんな事無いですよ、僕には雑用以外に出来る事ないですから」
「しかし、コオロギが入れたお茶は美味いよな。何が違うんだ?」
「僕に言われても判らないですよ。普通に入れているだけですから」
そんな事をお喋りしながらお茶を配って歩く。
「なぁ、デスク。最近うちの会社の株を買い占めている輩が居るらしいじゃん。大丈夫なのか」
「鳴滝が気にしてもしょうがねぇだろう。仕事しろ、仕事」
「へぇい」
これが最近良く聞く悪い噂と言うか悪い予感なんだ。
そこに出ていた円さんが帰ってきた。
「お疲れ様です、円さん。今、お茶入れたんで」
「おお、悪いなコオロギ。しかしまいった。また取材拒否だよ、このままじゃPsyche(プシュケ)に穴開くぞ。午後からまた出てくるからな。デスク、山ノ内は?」
「鉄砲玉」
「常盤は?」
「写真撮り」
「はぁ~年末はただでさえバタバタなのにこの騒ぎどうにかならないか? 鳴滝、例の小説はどうなっている?」
「今、宇多野ちゃんが調整中です」
Psyche(プシュケ)と言うのはここの編集部が出している、今人気の女性誌の名前で。
名前のPsyche(プシュケ)の由来は、ギリシャ神話に出てくる人から神になった女の人の名前らしい。
神となったプシュケは「愛」を支えるのは見ることでも確かめることでもなく、相手を信じる「心」であると恋人たちにささやく役目を担うと言われてて。
試練の過程で人間として初めて生きながらに冥界の川を渡ったことから、その名は「魂」を指すことともなって。
そして魂の象徴は蝶なんだって。
だから愛の伝道師や魂、そして魂の象徴の蝶を表しているんだって。
全部、円さんの受け売りなんだけれど。
そして何よりこの雑誌は円さんが全身全霊を賭けている雑誌なんだ。
「イヤー!! どうしよう。やっちゃた」
宇多野さんが頭を抱えながら叫んで皆の視線が宇多野さんに集まった。
「どうした宇多野ちゃん?」
「鳴滝さん、やっちゃいました」
「はぁ? まさかまたか?」
「はい」
宇多野さんの話では何か大切なデータを消去してしまったらしい。
「おい、宇多野。俺が戻るまでに完全修復させておけよ。いいな」
「はい、編集長。判りました」
円さんは取材の交渉のために急ぎ足で編集室をでて行った。
「なぁ、宇多野ちゃん。PCオタクの常盤さんが居ないんじゃお手上げだぞ」
「どうしましょう、鳴滝さん」
「そんな目で、俺を見られてもな。俺は女専門だから、復帰できなかったら大騒ぎだぞ、編集長はただでさえカリカリしているのに。誰かの首が飛ぶぞ」
宇多野さんは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
この間までは僕はPCを持っていて使いこなしていた、火事で炭と灰になっちゃったんだけど。
だから多少のトラブルなら解決できると思い宇多野さんに声を掛けた。
「宇多野さん、ゴミ箱も全部空なの?」
「はい、この上のホルダーに保存したつもりなんですけどゴミ箱に入れちゃったみたいで、気付かずに空にしちゃったんです」
「ちょっといいかな。僕が復帰させてみて良いかな?」
そう言って宇多野さんPCの前に座りPCを確認してこれならいけると思った。
その時、鳴滝さんに肩を掴まれた。
「おい、ガキが。勝手な事するんじゃねえよ。仕事の邪魔をするなと最初に言ったはずだぞ」
「鳴滝さん、何もそんな言い方をしなくてもいいじゃないですか」
「宇多野ちゃん、このガキは部外者だ。俺はガキが大嫌いなだけだ」
「鳴滝さん。僕にも多少PCの知識はありますから。もし駄目なら僕が駄目にしたって円さんに報告して構いません。何もしないで手を拱いているよりは良いでしょ」
僕が、鳴滝さんの顔を見ながらそう言うと、鼻で笑われた。
「勝手にしろ、どの道編集長には怒鳴られるんだ。他のデータまで駄目にしたらここから追い出すからな」
「判りました。宇多野さん空のROMありますか?」
「はい、これ」
宇多野さんからROMを受け取りPCを借りて作業を始める。
カタカタとキーボードを叩く音とカチカチとマウスをクリックする音が編集室にこだまする。
バックアップしてから検索作業をする。
宇多野さんにファイル名と更新日を聞きながら作業をすすめた。
「これかな、Enterと」
「うわぁ、凄い。助かりました。香乃木君ありがとう」
引っ張り出したデータを見て僕は驚いた。
それはこれから書籍やアニメ化・映画化される予定の携帯小説のデータだったのだ。
「あれ? これって携帯小説の」
「香乃木君、知っているの?」
「宇多野さん、実は僕、携帯小説フリークですから」
「へぇそうなんだ。あのね、編集長には言わない方がいいよ」
「円さん、駄目なんだ」
「駄目じゃなくて大嫌いかな、今でこそPsyche(プシュケ)があるからいいけれど。配属当時はこんなオタク編集部なんて辞めてやるって一悶着あったってデスクから聞いた事があるの」
「香乃木君。これが、今一番人気の『初恋・幽霊の時』だよ。もう直ぐでラストなのだけれど中々アップされなくて」
「こ、これって」
「香乃木君、何か知っているのか?」
「あはは……わ、忘れてた……へぇ? そ、そうなんだ」
僕はバイトを首になってからのバタバタで忘れていた事を思い出した。
「変な香乃木君。この他数点の作品の中から選考して、直ぐに映画化しようとプロジェクトが進んでいるんだけど一番人気のこの作品がなぜかラストがアップされていなくって作者ともメール出来なくて困っているんだよ」
「そ、そうだったんだ。それじゃ僕は自分の作業に戻るね。鳴滝さん、データ復帰しました」
「ほぉ~このガキがね、意外と使えるじゃねぇかガキのくせに」
僕は円さんに言われた書類の整理を再開するために作業に戻ろうとすると鳴滝さんが腕を組みながら目を細めて僕を見ていた。
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