第2話 痛み

 私は幼かった頃、祖父の友人がいる屋敷のあるイギリスに短期間滞在をしました。

 その時に私の日常のお世話をしてくれた一人のメイドがいました。

 彼女はとても博識でした。

 彼女は高い学歴はありませんでしたが、非常に好奇心旺盛で歴史、宗教、経済、数学、地理などに興味を持ち、又多くの言語にも精通していました。

 屋敷の主が、自由に使用人にも書庫を使わせていた為、学ぶ機会には恵まれていたそうです。

 彼女の屋敷勤めの期間はとても長く、一緒に暮らしている孫が大学を卒業すると同

時にお屋敷を去ると彼女は決めていました。

 その時期がちょうど、私がイギリスに滞在している時と偶然重なった為、彼女は私に最後の勤めとばかりに私への世話に強い思いを込めていました。 

 私は幼くして両親をなくし、今の祖父母に育てられました。

 彼女は私が3番目の息子の孫によく似ていると、いつも口癖のように私に語りました。

 私が、両親を早くなくした話をすると、彼女は涙を流しながら私を優しく抱きしめてくれました。

 私はその時、なぜそんなに彼女が私に同情を寄せるのかわかりませんでした。

 私は両親がいない事が当たり前であり、今までに何度も彼女からされた同情を多くの大人から受けてきました。

 彼女の優しさは、私にとっての初めての体験ではありませんでした。

 それでも、彼女に抱きつかれ、両親がいない事で同情され、優しい言葉をかけられてた時、私は初めて大きな声で泣きました。

 私は「自分の父と母はもうこの世に居ない」という事を強く自覚しました。 

「家族は何にもかえがたいもの。あなたはその痛みに慣れすぎてしまっていたの。あなたはその痛みに今気が付いただけよ。大丈夫。痛みを知ったあなたは人に優しくなれるわ。それに女は痛みに強いのよ?自信を持っていいわ」

 彼女は私に言いました。

 私が日本に帰る日、彼女はとても寂しいそうに、本当に名残惜しそうに私を優しく抱きしめてくれました。

 私は彼女に、「なぜ、私に優しくしてくれる?」と尋ねました。

 彼女は言いました。

「私はメイドだからね。お屋敷にお見えになられたお客様にご奉仕するのは当たり前のことよ。でも、ちょっぴりあなたは特別ね」

 彼女は深いしわの入った目尻をより一層細め、私を見つめます。

「あなたは、もう少し自分を優しくいたわってあげた方がいいわ。私はメイドだけれど、自分を犠牲にしてまで人様に奉仕はしないわよ?犠牲のない奉仕が本当の奉仕なのよ」

 彼女はお転婆な少女のように私にウインクをしました。


 ”カランコロン”

 店内に軽やかな金属音が響きわたる。

 私は我に返りました。

 私はお店の入り口に駆け寄り、出来る限りの笑顔をします。

 これ見よがしに、先輩メイドからの冷ややかな目線が私に突き刺さる。

 ”いつまで持つのかしらね”

 ”・・・・オーナーに色目使ったんじゃなの?”

 ”ちょっと顔がいいからってなんなのあれ?”

 ”バイトなんだから適当にやればいいのに”

 ”すごい面倒なんですけど?”

 冷笑とため息の混じった先輩メイド達の囁きが私の耳にまで届く。

 私は今すぐ駆け出したかった。

 感情を押さえつけられる時期の限界はとうに越えている。

 私は今すぐ、この手にある金属製のトレーでありったけの力を込めてぶつかって行きたかった。

 わずかな時間ながら、私の世話を焼いてくれたあの年老いたメイドはこんな時、どうしてたの?

 ”カランコロン”

 再び、軽やかな金属音がなる。

 先輩メイド達はけだるそうに入り口に目を向けるがそこに見慣れた人物を見つけると、さも今まで全力で仕事に取り組んでいたかのように態度を急変させる。

「おつかれさまですう、オーナー。」

 先輩メイドのリーダーが体をくねらせ、来訪客に近づく。

 私はオーナーに近づく気にもならず、テーブルを拭いて回った。

 私の中の怒りがまだ収まらず、立ち止まると自分でもどうなるか不安でしょうがない。

 オーナーと先輩メイド達の談笑が私の耳に入る。

 私は笑い声が聞こえる度に胸に痛みを覚える。

 私は目頭が熱くなり、手に力が自然と入る。

 今すぐ、この感情をあの輪の中に向ける事が出来たのならどんなに気持ちがいいのだろう。

 私だって、彼女達の様に笑いたい時だってある。

 いつもいつも、お客様に笑顔を向けられる時ばかりじゃない。

 私は「メイド」でいなければ、自分を保てない。

 今、ここで、全てを、ぶつけられれば、何もかも、終わる、終わらせられる。

 このテーブルを拭き終わったら、あの輪の中に飛び込もう。 

 きっと、私は楽になれる。

「もう十分綺麗だよ、そのテーブルは」

 オーナが私に声をかける。

 私は自然とオーナーを睨み付けていた。

「あれ?なにか気に障ったかい?そんなに怖い顔しないでくれよ」

 私は何も言えず、顔を下に向ける。

 涙が自然と溢れてくる。

 ”先輩メイド達が私を見ている”

 私はそう思うと益々悲しくなってきた。

「ああそうだ、うっかりしてたよ。僕としたことが買い忘れたものがあったよ」

 オーナーは私にメモ書きを渡した。

「ちょっと隣町にまで買い物に行ってきてくれないかな?」

 私はもう用済みなんだ。

 笑顔を作れないメイドは店の中に居てはいけない。

 そんな事はだれでもわかる事。

 私はメモを強く握り、店の裏口から屋外に出る。

 私はしばらく歩き、頭を冷やした。

 私はメモに目を通す。

 メモにはこう書かれていた。

「いつでも自由に暴れていいだよ?君は本当に真面目だね。でも、助かってるよ。ありがとう。そして、これからもよろしくね。君の素敵な素敵なオーナー様より」

 私は呆れかえった。

 同時に自分の幼さと小ささに惨めさを感じた。

 私は誰かに声をかけて欲しかっただけなのかもしれない。

 理解して欲しかっただけなのかもしれない。

 私の胸の中に詰まっていたものが徐々に溶けていく。

 でも、完全には消えない。

 私は、少し遠回りをして店に帰る事にした。

 帰ったときにはもう、オーナーは居ないはず。

 先輩メイド達の態度も元に戻っているはず。

 それでも、私は大丈夫。

 私にメイドのやさしさを教えてくれた彼女の言葉を思い出す。

「女は痛みに強いのよ?」

 女だからメイドなのか、メイドだから女なのか。

 私は強くありたい。メイドとしても、女としても。

 お客様にとってのメイド喫茶は”我が家”

 メイドにとってのメイド喫茶は”戦場”

 違うかもしれないけど、少なくとも今の私にはそう言える。

 見えない傷を抱えても、私は前に進みたい。

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