飛べない鳥

あるコンサートホール。杉三と蘭は、オペラ「椿姫」を、鑑賞している。ヴィオレッタのアリアが終わって、オペラは終了する。

二人は、係員の誘導で、ホワイエへ出る。

蘭「杉ちゃん、本当に大丈夫だった?字幕が読めないじゃ、オペラ歌手の人たちが、何を言っているかわからなかったでしょ。」

杉三「いいの。それよりも、綺麗な声に囲まれていられるから、オペラは大好きなの。」

蘭「やっぱり変わっているな。」

ホワイエでは、出演者たちが、客と挨拶したり、花束をもらったりしている。

すると、一人のソプラノ歌手が、杉三のもとへやってくる。

歌手「ちょっとあなたたち。」

蘭「はい、なんでしょう。」

歌手「どうして私の歌に拍手をしなかったの?」

蘭「しましたけど、、、。」

歌手「そうじゃなくて、こちらの、黒大島の方よ。わたし、そんなに歌が下手だったかしら。舞台からだと、お客さんの様子は、意外に見えるものよ!」

蘭「ああ、すみません。このひと、読み書きできないから、それで、内容が分からないからだと思います。」

歌手「いまどき、文盲の人なんかいませんわ、何かたくらみでもあるの?」

蘭「ご、ごめんなさい。もう、こちらには、遠慮させていただきますから。」

杉三「不安なんだね。」

蘭「おい、君も謝れよ!」

杉三「かわいそうな人だ。」

蘭「本当にごめんなさい。僕が間違えてました。もう、ここには、連れてきませんから。今日のところは、ご勘弁を。」

歌手「あなた、、、今なんていった?」

杉三「不安なんだねって。」

歌手「あなたって、、、。」

スタッフがやってくる。

スタッフ「上野さん、はやく楽屋に戻ってくださいよ。でないと、片付けができませんよ。」

杉三「上野?」

蘭「そうだよ、この人は、ソプラノ歌手の上野雅恵さん。」

杉三「上野雅恵さん!僕は上野さんの歌が何よりも大好きです。あんなきれいな声が出るんですから、きっと、心もきれいなんだろうなって、ずっと、おもってました。でも、大間違いだったんですね。本当に悲しいです。僕が悲しいだけではなく、ヴィオレッタの心をあんなに上手に歌いこなせる人じゃなかったと知ったら、お客さんは悲しむと思います。」

雅恵「そうだったのね、、、。ごめんなさい。変なことを言ってしまって。悪い癖が出てしまったの。また、オペラをやるときは、招待状送るわ。また来てね。」

蘭「本当にすみません。この人、自閉症で、思っていることは何でも口にしてしまうので、あんまり気にしないでください。」

雅恵「いいのよ。そういってくれた人は初めてだから。お二人の住所を教えてくれる?これから、また近くでオペラをやることがあれば、必ず、招待するから。」

蘭「ああ、わかりました。じゃあ、」

と、手帳を取り出し、その1ページを切って、自分の住所と電話番号を書き、雅恵に手渡す。

雅恵「こちらの方は?」

杉三「僕は影山杉三です。住所は、わからないので、蘭に伝えてください。」

雅恵「どうもありがとう!またお会いしましょうね!」

杉三は手のこうを向けてバイバイする。係員が二人をタクシー乗り場に連れていき、二人は手配していたみんなのタクシーで帰っていく。


その数か月後。蘭とアリスの家。蘭が朝食を食べていると、

アリス「蘭、電話が鳴っているわよ!」

蘭「ああ、悪い、ありがとう。」

と、スマートフォンを取る。

蘭「はい、伊能ですが、どちら様でしょうか。」

声「上野雅恵です。」

蘭「ああ、先日は失礼しました。で、、、。」

雅恵「いえいえ、こちらこそです。あの、蘭さん、今日って、あいてるかしら。」

蘭「特に用事はありませんけど、どうしたんでしょうか。」

雅恵「あの、杉三さんにもう一度会いたいの。」

蘭「えっ、でも、彼がまた何かしでかしたら困りますし、、、。」

雅恵「いいのよ。その時は私が弁償するなり、何とかするから。」

蘭「そうですか、、、。ちょっと、彼に話してみます。でも、どこでお会いしたらいいでしょうか?」

雅恵「そうね、ポートホテルのレストランでどう?」

蘭「ちょっと、あそこは、、、。」

雅恵「ああ、お財布のことは気にしないで大丈夫よ。お願いしていいかしら。」

蘭「わかりました。じゃあ、お昼にしましょうか。12時ころ伺いますよ。」

雅恵「はい。じゃあ、予約しておくわ。」

蘭「じゃあ、またその時に。」

と、電話を切る。

アリス「いったい誰から電話なの?」

蘭「いやあ、この間杉ちゃんと、オペラをききにいっただろ、そうしたら主役の上野雅恵先生に会ってしまった。それで、もう一度来てくれというんだけど、、、。そんなわけなので、押し入れから、紋付き出してくれ。」

アリス「わかったわ。でも、杉ちゃんは、だれとでも友達になれるのね。不思議な人だわ。」

蘭「ほんとだよ。」


みんなのタクシーの中。杉三は大島紬の着流しを着て、蘭は紋付を着ている。

蘭「本当はダメなんだぞ。大島なんて。確かにお金はかかるかもしれないけど、そんな格の高い着物ではないんだからね。偉い人に会いに行くときは、こうして、紋付きとか着なきゃ。」

杉三「関係ないよ。僕は大島が一番好きなんだ。大切な人に会いに行くなら、大切な着物を着るべきじゃないか。」

蘭「ああ、まったく。君のお母さんも火の車だろうな。大島で一年中生活しているなんて。」

杉三「いいの。」

蘭はため息をつく。

運転手「お客さん、つきましたよ。正面玄関でいいですか?」

蘭「ああ、なるべく、車いすで出入りが楽なところでお願いします。」

運転手「わかりました。」

と、正面玄関の前にタクシーを止める。

硝子ごしに、雅恵の姿が見える。

雅恵「こんにちは!」

年の割にはでな着物を身に着けている。

二人は、運転手の介助でタクシーを降りる。

雅恵「こんにちは!」

杉三「あれ、今日はレストランで食事ではなかったんですか?」

雅恵「これから行くのよ。もう、レストランの席は取ってあるから、心配しなくていいわ。それにしても、二人とも、本当に地味ね。」

蘭「まあ、男性の着物なんてそんなものですよ。」

雅恵「とりあえず、レストランにいきましょう。積もる話は食べてからだわ。」

と、廊下を歩き始め、杉三たちもついていく。レストランは、シャンデリアを模した電球があるほど、豪華だった。

雅恵「ここよ。」

と、一番奥の席に連れていく。

杉三「なんだか、ヴェルサイユ宮殿に来たみたいだなあ。」

雅恵「そうでしょ。」

三人、席に着く。

ウエイター「いらっしゃいませ。当店は、バイキング方式になっております。時間は120分間です。お好きなものをどうぞ食べてくださいね。車いすのかたは、呼び出しボタンを押してくだされば、係りの者がまいりますので、ご安心ください。」

蘭「あ、ありがとうございます。」

杉三「ここ、きしめんある?」

ウエイター「はい、ございますよ。たれは、しょうゆ味と、ごまだれもございます。」

杉三「じゃあ、しょうゆ味をたくさんとって。」

ウエイター「わかりました。」

と、皿にきしめんをたくさんもりつけて、しょうゆだれをまんべんなくかけて、杉三の目の前に置く。

杉三「いただきまあす!」

といって、がつがつと食べ始める。

杉三「うまい!うまい!うまいなあ!」

雅恵「サラダなんかは食べないの?」

杉三「ぼくはこれだけあればそれでいいんです。」

雅恵「本当に好きなのねえ。蘭さんは何を食べる?あたし、取ってくるわ。」

蘭「ああ、すみません。じゃあ、ボロネーゼで。」

雅恵「わかりました。すぐ持ってくるから。」

と、たちあがり、ボロネーゼをどっさり入れた皿をもって、戻ってくる。

蘭「頂きます。」

雅恵「あたしは、ステーキセット。」

と、いい、大きなステーキが乗った、皿をもってくる。

杉三「すごい、大食漢なんですね。女の人なのに。」

雅恵「いつも、このくらい食べないと、声は出ないのよ。」

杉三「ああ、なるほど。」

雅恵もステーキを食べ始める。

杉三「それにしても、今日のお召し物はすてきですね。オペラ歌手の方が、着物を着られるとは思いませんでした。」

蘭「いわゆる、アンティーク着物というものですか?それ。秩父銘仙とかかな。」

雅恵「そうなのよ。日本の伝統も、意外と好きなのよ。これ皆、リサイクル着物だけど。いくらで、買ったと思う?300円よ!

いまは、着物が、洋服よりやすいのね!それなら、おしゃれしない手はないわ。」

蘭「ああ、そうですね。たしかに、洋装より手に入りやすいですよ。僕も、リサイクル着物は大いに利用してますし。まあ、多少汚れていたり、穴が開いていたりもありますけど、それはそれで、また何かに使えるというのが着物の持ち味ですからね。」

雅恵「そうかあ。着物って四角いもので作るだけだもんね。」

蘭「だから、本来は便利なんですけどね。でも、着物には格があって、こんな高級なレストランに、銘仙は適さないですよ。」

雅恵「あら!かわいいからこれでいいと思ったわ。じゃあ、何を着ればいいのかしら?」

蘭「訪問着か、つけ下げですね。色無地もいいけど。」

雅恵「つまんないわね。何も柄のない色無地なんて。銘仙の方がおしゃれでいいじゃない。訪問着は、古くさいし、つけ下げは地味だし。」

蘭「でも、ルールはルールですよ。」

杉三「僕は、大島をきているよ。いつでも、どこでも、何をするにも。」

雅恵「ほらやっぱり!格なんて、どうでもいいわよ!」

蘭「今の呉服屋だと、訪問着でもかわいいのがありますけどね。」

雅恵「本当に!ねえ、このあと用事ある?一緒に呉服屋に行きたいんだけどなあ。」

蘭「僕は施術の依頼が。」

雅恵「そうかあ。残念だわ。一緒に着物選びしたかったわ。」

杉三「じゃあ、他の日は?」

雅恵「そうね、そうしましょう。来週の日曜日はどう?こんなレストランじゃなくて、おしゃれな呉服屋さんに、いきましょうよ。二人とも地味すぎるから、なんとかしてあげるわ。」

杉三「わかった、じゃあ、また、ここで会いましょうか。」

雅恵「いや、私がお宅まで迎えにいくわ。」

蘭「えっ、困りますよ、僕の家は辺境すぎますから。」

雅恵「まあ、奥さんにしかられるとでも?」

蘭「そういうことではなくて、」

雅恵「わたし、浮気をしようとしている訳じゃないわ!ちゃんと娘もいるんだし。亭主は、等の昔に亡くしたけど。」

杉三「癌にでもかかったんですか?ご主人。」

雅恵「いいえ、まだどっかで生きてるわよ。あんなバカ男。代わりに、娘に愛情をかけることにしたの。娘には、あんなバカ男は、はやく忘れなさいって、言い聞かせているのよ。」

杉三「娘さんはおいくつなんですか?」

雅恵「いま、26。日本の音楽大学にはろくな人がいないから、はやばやと、ドイツの音大で学ばせてるの。いまは、一生懸命勉強しているから、そのうち、大スターになるのよ!絶対に!あの子は私よりも、きれいな声をもってるし、作詞作曲だってできるから。だから、オペラだって、椿姫だけではなく、アイーダとか、トゥーランドットとかやらせたら、間違いなくパリのオペラ座で歌えるくらいの大スターになるわ!」

蘭「そうですか。でも、順風満帆には、いかないとおもいますけどね。」

雅恵「まあ、そんなこといって!うちの子は天才なのよ!」

蘭「そうですか、、、。」

杉三「僕は心から応援しますよ。お嬢さんのお名前はなんですか?」

雅恵「上野志津子。」

杉三「わかりました。もし、志津子さんのリサイタルがあったら、聞きにいかせてくださいね。」

雅恵「ええ、もちろんよ!即日完売になるから、覚悟してね!」

蘭「おい、杉ちゃん、そろそろ帰らないと。」

杉三「あ、もうそんな時間?」

雅恵「まあ、もっと長くお話したかったのに。」

杉三「僕も楽しかったです。また、お会いしましょう。」

雅恵「ええ、来週の日曜日は、必ず来てちょうだいね。」

杉三「はい、約束します。」

蘭「じゃあ、帰りのタクシー頼もうか。」

雅恵「いいわよ、頼まなくたって。私、運転できるから!」

蘭「いや、そこまでご迷惑をかけたら、」

雅恵「だって、介護タクシーでしょ?お金がかかりすぎるくらいかかるって聞いたわよ。あなたたちには大事なお金なんだし、そんなことに、お金を使わせるなんて、いやだわ。それなら、歩ける私が、運転していくべきだから。」

蘭「僕らは車いすですから、普通の車では乗れませんよ。」

雅恵「大丈夫。それはわかっているから、トヨタのレンタカーで、福祉車両を借りてきたわ。女でも、運転できるタイプのものを借りてきたから、安心してちょうだいね。お二人はくつろいでちょうだい。じゃあ、私、お代をだしてくるから、駐車場の入り口で、待機してて。」

蘭「わかりました。」

と、レストランを出て、駐車場の入り口にいく。杉三も後からついていく。

ものすごい大きなエンジン音とともに、ワンボックスカーが地下の駐車場から現れる。しかも、軽くぶつけたりしているのか、ところどころ傷があった。

雅恵「一人づつのって頂戴。いま、スロープだすから、、、あれ、どのスイッチだしたかしら、あれ、あれ、あれ、、、。」

杉三「大丈夫かな。」

雅恵「ああ、これだわ。やっと出せた。」

スロープが乱暴に飛び出してくる。雅恵は、外へ出て、二人を車にのせ、自分は運転席にのりこむ。ワンボックスカーは、ふらふらと動き始める。道路にでると、対抗車線にはみ出しそうで、蘭はきをひけない。中央分離帯にもぶつかりそうになったり、、、。しかも、スピードの出しかたが飲み込めていないらしく、急に速くなったり、遅くなったり。

蘭「だ、大丈夫ですか?」

雅恵「これでも、運転免許はあるわよ!」

蘭「更新してないのかなあ。」

雅恵「今なんていった!」

蘭「ああ、すみません。とにかく、橋を渡って右に回れば、僕の家ですので。」

雅恵「この桜橋でいいのかしら?」

蘭「はい。白い壁が僕の家で、緑の壁が杉三の家です。」

と、いったところ、胸に違和感を覚えた。

甲高いブレーキの音と一緒に、杉三の家の前で、車はとまった。たまたま、美千恵が、洗濯物を取り込んでいて、外へでていた。雅恵は、二人を出すために、後部座席のドアを開けた。

美千恵「あら、上野雅恵さん!まあ、どうしてこんなところに?」

雅恵「ご家族の方ですか?ご家族の方が、家事をされるって珍しいわ。」

美千恵「杉三の母です。親が家事をする家庭はたくさんありますよ。」

雅恵「こちらの地区の風潮ですか?私たちが、すんでいるところでは、メイドにやらせるのが常ですわ。」

声「雅恵さん、はやく外に出して!蘭が!」

二人が声のする方に振り向くと、蘭がひゅうひゅうと喉をならしながら苦しんでいる。杉三は、一生懸命、彼の背をなでていた。

雅恵「ご、ごめんなさい!」

急いで運転席にもどり、スロープを出すボタンを探すが、慌てているから、どれなのか、わからない。適当におすと、エアコンがかかったり、スライドドアが自動で開いたり、ワイパーが動き出したり、、、。しかも、それらをとめることさへ、雅恵はできなかった。

美千恵「もう、とめるときは、このメインスイッチを押せばいいのよ。あなた、福祉車両のことをなにもしらないのね!」

杉三「お母ちゃん、はやく蘭を助けてあげて!」

美千恵「はいはい。わかったわ。アリスさんは、まだかえって来ないから、私たちの布団にねかせてあげようか。」

と、蘭を背負って家にはいる。蘭は、へちまたわしほど、軽かった。雅恵は、茫然とたっている。

美千恵「杉三、あんたのへや、蘭さんに、貸してあげて。」

杉三「わかったよ。」

と、玄関のドアをあけ、すぐ近くにある、彼の寝室の襖をあける。美千恵は、敷いてあった布団に蘭をねかせる。

美千恵「大丈夫よ。平脈だから。まあ、車に酔うのがつよく出ただけじゃないかな。」

事実、呼吸は安定を取り戻していた。

杉三「よかった、、、。」

美千恵が、雅恵を非難のこもった顔でみる。

美千恵「もうすこし、勉強してくださいね、上野雅恵さん!いくら有名人だからって、ある程度の常識は、覚えておいてください!」

雅恵が、わっとなきだす。そのなき方は、幼児そっくりで、いかにも無知そのものである。

美千恵「恵まれすぎているひとは、そうやって、泣くことが手段になるのよね!あたしたちは、泣いていてはいられないのに、あなたみたいな人は、そうじゃないから、本当腹が立つわ!すぐ出ていって!」

杉三「お母ちゃん、この人は寂しいんだよ。」

美千恵「そんなことは、ぜったいないわ!回りからいつでも、ちやほやされて、何かあれば新聞広告で騒ぎ立てられて、別れることも簡単にできて、子供にも、よい教育を簡単にできて。私たちは五千円稼ぐのだって大変なのに、あなたはそんなことをしなくても、莫大なお金がはいってくるでしょ!あなた、オペラ歌手であっても、金遣いがすごい荒いときいてるわよ。そんなの、私たちにはできることじゃないわ!」

雅恵「ごめんなさい!私って本当にだめね。」

美千恵「具体的にどうするかをいってもらいたいんだけどな。」

杉三「お母ちゃん、何か訳があるんだよ、この人は。」

美千恵「そうだけど、こういう風になってしまっても、大人であれば弁償できることだと、おもうんだけどな。あなたみたいな、若いときからちやほやされていたひとは、本来やるべきことをやれなくなるのよね!」

杉三「でも、この人は、悪い人じゃない。」

美千恵「私は、芸能人なんて大嫌いなの!あなたも、娘さんがいるんだったら、もうちょっと、しっかりしないと、共倒れになるのよ!」

と、ピシャン!と、ドアを閉めてしまう。

美千恵「あんたも、部屋に戻りなさい。」

部屋へ戻ると、正気を取り戻した蘭が、

蘭「ちょっとおかしいよな、あの人。」

杉三「おかしいんじゃなくて、かわいそうな人だなあと思った。成長するきっかけがなにもないんだね。」

蘭「満たされ過ぎていたんだろ。なんでもそろうと、うれしいけれど、逆に不安で物足りなくなって、本来できるはずの事が、みんなできなくなっていくんだよね。」

美千恵「よかった、蘭さん。たいしたことなかったみたいで。」

蘭「すみませんでした。勝手に布団なんか借りてしまいまして。」

美千恵「いいのよ、あんな馬鹿なオペラ歌手より、よほどいいわ。」

蘭「まあ、階級が違うんですね。」

美千恵「そうね、そう思えばいいわよね。上の階級の人には、下に支えてもらっていることに、もうちょっと、気がついてもらいたいものだわ。」

蘭「なるほど、それは、大笑いだ。」

杉三「ねえ、上野雅恵さんの娘さんって、どんな人?」

美千恵「ああ、上野志津子?どうせ、母親と同じ運命だわ。」

杉三「ドイツにいってるって、、、。」

美千恵「そう。すごい高い評価があるけど、きっと雅恵の捏造よ。」

蘭「それは、本当ですか?」

美千恵「そうよ。女性雑誌に書いてあった。いまは、上野志津子は、母親になっているらしいけどね。その子はきっと、早死にするんでしょうね。」

蘭「へえ、じゃあ上野雅恵は、もう、おばあちゃんになるんですね。」

美千恵「ああ、もう、芸能人の話はやめましょう。聞いただけで、吐き気がしてくるから。」

蘭「今日、彫る予定の方がいたけど、これじゃ、無理だなあ、、、。あとで、謝罪の電話しなきゃ。僕は、やっぱりだめだなあ。」

杉三「そんなことないよ。悪いのは上野雅恵だよ。僕、文句いいに行ってくる!」

蘭「な、何を考えているの?」

杉三「だって、かわいそうだもん。いろんな事を知らなすぎているから、教えてあげたい!」

蘭「よしてくれよ。下手をしたら、警察に捕まるよ!」

杉三「嫌だ。教えることは、教えないとだめだよ!」

美千恵「杉三!何馬鹿な事を言っているの!蘭さん、また倒れるわよ!」

杉三も、火がついたように泣き出す。美千恵は、杉三の頬をひっぱたき、

美千恵「忘れなさい!」

蘭「本当に、すみませんでした。僕のせいです。彼には、善悪はわからないんですから、泣いてもしかたありませんよ。」

美千恵「そうね、こんなとき、健全な男性が居てくれたらいいけど。あ、蘭さんには、失礼だったわね。ごめんなさい。」

と、仏壇の方を見る。夭逝した、杉三の父親の写真。

美千恵「とにかく、ここで、しばらく休んでいただいて、私の方から、アリスさんに、連絡いれるから。ゆっくり眠るといいわ。ほら、杉三、あんたは出るのよ!」

といい、杉三を押して、部屋を出る。


翌日。

杉三が一人で縫い物をしていると、インターフォンが鳴る。

声「すみません。」

杉三は、急いで移動してドアをあける。一人の男性がいた。紺色の小さな手帳を見せられ、

刑事「ちょっとお話をいただけますか?影山杉三さんですね。」

杉三「はい、でも、どうして僕に?」

刑事「実はですね、上野雅恵さんが、今朝、ポートホテルの部屋で死亡しているのが、見つかりました。争った形跡もないし、凶器らしきものもないので、自殺と断定されましたが、いくつかきいておきたいことがありまして。」

杉三「えっ!雅恵さんが、亡くなった?」

刑事「はい。杉三さん、テレビはみないのですか?トップニュースで、やっておりますよ。」

杉三「僕は、読み書きができないから、テレビは見ないのです、、、。」

刑事「杉三さん、貴方と、もう一人のお友だちと二人で、上野さんと、食事にいかれましたね。そのとき、上野さんは、どんな態度をとっていましたか?」

杉三「明るいけど、何か辛そうでした。」

みるみるうちに、涙が溢れてくる。

刑事「辛そうでしたか。」

車いすの音がして、蘭がやってくる。

刑事「あ、すみません。警察です。上野雅恵さんの自殺について、こちらの方から、話をききたいのですが。上野さんは、二人の車いすの男性と食事をした直後に亡くなったそうなので。あ、あなたはもしかしたら、伊能蘭さん?」

蘭「はい、まさしく。上野さんのニュースは、先程、テレビでみました。洗剤を飲んで亡くなったとか。」

刑事「はい、ポートホテルの近くに、ドラッグストアがありまして、そこへ上野雅恵さんが、洗剤を買いに来たと、店長が証言しております。」

杉三「刑事さん、雅恵さんに会わせてくれませんか?」

蘭「杉ちゃん、」

杉三「たぶん寂しかったんだなと、思うから。」

刑事「いいですよ。娘さんも、ドイツから帰ってこれないそうですし、他の芸能関係の方も、誰も寄り付かないそうですから。お二人が、最期のお別れに立ち会ってくれれば。今日はワンボックスですので、車いすのお二人も、すぐにのれます。」

といって、杉三と、蘭をワンボックス式のパトカーにのせる。

杉三「お巡りさんは、出し入れが上手ですね。」

蘭「だって、職業みたいなものですから。そういうこと。」

杉三「悪い人をやっつける人じゃないの?」

刑事「面白いこといいますね。杉三さん。じゃあ、いきますよ。」

と、パトカーを走らせていく。

杉三「お巡りさん、運転がうまいですね。上野さんはもっと、ふらふらと運転しておりました。」

刑事「上野さんが、車にのったんですか。長年のペーパードライバーでしたから、ものすごく下手でしたでしょうね。」

杉三「蘭は、発作まで起こしてしまって。

刑事「それはまた、大変でしたなあ。免許をとって、数年後には、お抱えの運転手がたくさんいて、運転なんか全くしていなかったようですからねえ。」

蘭「そんなに、雇える経済力があったんですか。」

刑事「はい、しかも、金遣いは非常に荒くて、競馬に1億円近く使ったりとか、年に何十回も、海外にいったりしたみたいですよ。」

杉三「へえ。物好きな人だなあ。」

刑事「物好きというか、度を越してますな。」

蘭「まあ、多少はあるでしょ。」

杉三「でも、お巡りさん、僕らが会ったときは、リサイクル着物を身に付けていました。」

刑事「リサイクル着物?」

蘭「はい。あれなら、300円で買えるはずです。」

刑事「そうなんですか!上野雅恵さんが買いに来たとなれば、店の店主さんもビックリしたでしょうな。」

蘭「そんなに金遣いが荒いひとが、リサイクル着物なんて、着るでしょうか?たぶん、300円では、ごみと思うかもしれません。」

刑事「ははあ、なるほど。よい証言をありがとうございます。さて、もうすぐ署につきますよ。」


富士警察署。

正面玄関のまえで、杉三と、蘭は下ろしてもらう。

刑事「こちらです。」

と、二人を中にいれ、廊下をわたっていき、霊安室に。

刑事が、ドアを開けると、雅恵の遺体があった。

杉三「(その顔を眺めながら)楽に、、、なれたのかな。何にも、苦しそうじゃないから。」

蘭「本当に、美しい死に顔だ。」

すると、若い刑事がやってきて、

若い刑事「あ、課長。先程、上野雅恵の娘から電話がありました。私どもは、葬儀にでてほしいですが、到底無理ですね。」

課長「また、どうして。」

刑事「はい。母のように、誰かに管理されていないと行動できないおばさんにはなりたくない、と、いっておりました。まあ、彼女も母親になったばかりですし、おんなじ人生にはしたくないんでしょう。」

課長「同じ人生って、、、。だって、上野雅恵も、上野志津子も、にたようなもんじゃないか。」

杉三「どういうことですか?」

蘭「杉ちゃん、あんまり口を挟むなよ。」

杉三「ねえ、課長さん、どこがにたようなもん、なんです?」

課長「ああ、気にしないでね、捜査のことだから。」

杉三「だから、どこがにたようなもんなんです?」

刑事「なんですか、この人は。おんなじことを何度もきいて。」

蘭「どうか許してください。このひとは自閉症のせいで、一度気になると、解決するまで、納得しないんです。ごめんなさい、止めさせますから。」

刑事「自閉症か、、、。ちなみに、学校はいきましたか?」

杉三「僕は、三日しか行きませんでした。行っても仕方ないから、家で古筝を弾いていました。」

課長「なるほど。上野志津子の学歴は、調べたか?上野雅恵は、ドイツの大学に行かせたとかして、すごい娘自慢を繰り広げたそうだが。」

刑事「いや、いったというより、避難させたと言うべきでしょう。上野志津子が、小学校の時の、担任教師に話をききましたが、志津子は、親指にたこができるほど、指をしゃぶる癖があったそうです。それが原因で上野雅恵は、ドイツのシュタイナー教育を中心とする学校に、志津子を送ったということでした。」

杉三「いじめでもあったの?」

蘭「まあ、母親の乳をすっているようにみえるから、指しゃぶりというのはあるらしいんですが、きっと、彼女も、母親が欲しかったんでしょうね。たしかに、いじめられることもあるでしょう。上野雅恵があまりにも有名すぎて。」

杉三「で、志津子さんと雅恵さんが、同じ人生というのは、」

課長「君はまた、同じことを聞くんだね。

自閉症であればそうだろう。志津子さんも、いまは、お母さんになったけれど、志津子さんの子供もまた、学校で問題をおこしているんだ。」

刑事「課長、この人に話しても仕方ないじゃないですか。」

課長「いやいや、長年この仕事をしていると、杉ちゃんのような人は、メサイアのように見えてくるもんなんだよ。」

杉三「人間は歴史からは学べない。」

課長「偉い。よくいった。」

蘭「もしかしたら、亡くなる前に僕たちと一緒に食事をしたのは、彼女の遺書だったかもしれません。きっと、彼女は、僕たちがふだんしているような生活をして見たかったんだと思います。安いリサイクル着物を身に付けていました。」

刑事「なるほど!上野は、大の浪費家で、高級品ばかり身に付けていましたからね。他の芸能人でさえも、彼女の浪費家ぶりに、あきれていたほどですから。」

杉三「浪費して、ほしかったのは、心だったのかもしれないよね。それは、娘さんにも繋がっていくのかな。」

しばらく、霊安室は静かになる。

課長「まあ、娘さんが、彼女の葬儀には、参列したくないというので、我々で荼毘にふしますが、、、。」

杉三「僕もいきます。」

課長「そうしてください。人数は多い方がいい。」

蘭「もう、彼女は疲れてしまったんですね。」


数日後、自由霊園。上野雅恵、上野志津子の墓、とかかれた石碑に、杉三と蘭は、すずらんを添えた。娘、志津子の誕生花であった。

蘭「あの二人、あの世で、ほんとうの親子になっているかな、」

杉三「ああ、きっとね。」

町では、上野志津子が自殺とかかれている号外配りで、なにかしら話題になっていた。

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