第122話 あなたのすべて、きみのすべて
俺の体調を気遣ってか飲み疲れたか。
それとも俺たち二人を気遣ってかはわからないが二次会は無かった。鶴が「アリナの介護よろしくね〜」と満面の笑みで言うと乱暴にアリナを突き飛ばし、俺は踏ん張って彼女を正面から受け止めた。肋骨を全て折ったがまぁ問題ない。わお、あばら骨が皮膚を突き破っちまってるぜ。是非ともこれからは力を加減してほしいものだ。
その後他の連中は散っていき、結局具合の悪いアリナさんを介抱することになってしまった。
「う〜……」
耳元で呻くアリナ。
彼女は店のトイレで嘔吐していたらしい。自分の限界も知らず飲み続けた結果であるその惨めな嘔吐シーンを録画できていたらいったいいくら稼げていただろうか。美少女の嘔吐に興奮を覚える特殊な人間なら高価で買い取ってくれるはずだ。理解しがたいがそういう人間もいるのである。俺がトマト中毒であるように世界は変人で溢れている。
そんなロクでもないことを考えながら千鳥足の彼女の腕を肩に回して闇夜を歩く。時折呻いて体調の悪さを訴えるが強引に歩かせる。野放しにしていたらこいつは絶対に寝る。
「ほら、頑張って歩け。俺のリハビリよりかはマシだが情けないぞ」
「話しかけないで。今きもいから」
タイミングが悪いことに彼女のヒールが側溝にはまった。バランスを崩した彼女は倒れそうになったが間一髪で支えて手を握った。
「こんなにデロンデロンになるならヒール履いてくるなよ。帰宅難易度を自ら上げていくな。だがプロの帰宅部員がいて良かったな。帰ることに関しては誰にも負けん。だから俺は目を覚まして家に帰れたわけだ。最強の帰宅部員、これ伏線です。死にません」
「そんなこと言わないでよ。私だってお洒落したかったんだから」
「はいはい――あっおい、吐きそうな顔するな」
「うぐぅ。あぁ出そう、出そうよ」
「艶めかしく言うな」
ふふふ、と含み笑いをして彼女は俺の右手をぎゅっと握り返した。気まずくなって離そうとしたがぐいっと引っ張られ、ムッとした抗議のお顔をもらった。
「この右手。あなたが眠っている間、一度も握れなかったわ」
「いきなりなんだなんだ」
「よく映画であるでしょう? 病室で大切な人が包帯ぐるぐる、意識不明で頭ぐるぐる。その人の手を握っておでこに当てて祈るの。わかる?」
「なるほどな、アリナの視界が今ぐるぐるってことか」
「私にはそれができなかった。もし冷たかったらって思うと怖くて――」
しんみりとした雰囲気が漂い彼女のヒールの音だけが小さく響く。
三年も彼女にそんな思いをさせてしまっていたことに気付き、衝動的に彼女を抱きしめたくなった。純粋な「ごめん」を伝えるために。彼女もそれを察したのかそっと俺に身を寄せた。
しかし俺に彼女を抱きしめる勇気なんて無く、彼女も恥ずかしくなったようで結局お互いぎこちなく顔を逸らした。そのまましばらく黙って歩いた。
「あなた、覚えてる?」
「ん?」
「私がずっと待っていること」
「あぁ……覚えてる」
突然アリナは足を止めて俺から離れた。
悲痛、儚げ、決断、願い。彼女の顔にはそういった思いが表れている。
答えなければならない。
胸に手を当てて美しい眼でじっとこちらを見詰める彼女に答えなければならない。
彼女への答えはこの喉までもう来ているのだ。
だがどうしても最後の一歩が踏み込めない。三年も彼女を待たせておいて俺はまた彼女を待たせるのか? ただ口に出すだけなのにどうしてここまで胸を締め付けられるのだろうか。
これは冗談ばかり言ってきた罰か? 本音を言えない口になってしまったのか?
アリナは小さく微笑んだ。でもそれは空元気のような心が痛くなるような笑みだった。
それを見てとても不安に駆られた。彼女がどこか遠くへ行ってしまうんじゃないかと。あとを追うこともできないくらい痕跡を残さず消えてしまうんじゃないかと何故かそう思った。
咄嗟に俺は口を開いた。
「アリナ」
「なぁに?」
「今度、水族館に行こう。あの水族館だ」
「今はなきカップルを監視した時の水族館ね」
「そうだ。でも今回は二人っきりだ。俺とアリナ。二人だけで行かないか?」
「……すごく嬉しい。楽しみだわ」
紅潮したアリナは前髪でうまく表情を隠して俺の傍にまた近寄った。肩が触れそうで触れないこの絶妙な距離の中でお互いの指がぴくりと動く。意識と関係なく惹かれ合い、そして相手の甲に当たった。ゆっくりと恐る恐る手を交差し、五本の指で確認し合う。
彼女と指を絡め、手をつないで思った。
彼女がすべてだ。他は何もいらない。
「なに笑ってるのよ。わ、私まで恥ずかしくなるじゃないっ!」
「いやいや。俺の妹はいつも正しいことを言うなぁって思ってな」
「他の女の話しないで」
「実の妹なのですが」
「だめ。ゆるしません」
「愛が重いッ!」
「ちょっ、あっあああ愛だなんてもうばか!」
「そこはいつも通り適当に受け流せよ……」
「私だって女の子だからその分野は弱いのよ」
「高校時代もそうだったら良かったのにな。あの頃のお前は読書しか眼中になかったからな」
「やめなさい。辱めを受けている気分だわ」
タクシー乗り場に着いてここで別れることにした。
俺はここから徒歩で帰れるが、少し距離のある彼女の実家の場合だと電車もバスもなくなった現在時刻ではタクシーしかない。
「じゃあ連絡待ってるわ」
「おう。気をつけて帰れよ。大学にはちゃんと行けよ」
「夏休みだから心配無いわ。あなたも気をつけて」
ドアが閉まり、ゆっくりと発進した。せわしなく走る車両の流れにのって見えなくなるまで目で追った。
彼女の香りがまだ微かに残っている。その余韻は街の光も環境音もすべて掻き消してしまうほど心の中で波打ち続けた。目を閉じると麗しく毅然とした彼女の姿が浮かんだ。
そのまま想いだけを伝えてみた。
大丈夫、言える。
大丈夫だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます