第123話 そして毒舌薔薇はかく語りき
最初は厄介な人だと思った。
私の意思と関係なく私の学校生活に干渉してきた。私を捻じ曲げようと必死で、あらゆる環境と人とイベントを私に与えた。
変わった人だと思った。
彼はいつも面白い喋り方をした。彼の冗談はとても独特で、不思議で、楽しかった。飽きることはなくいつだって私の心をたくさんの色で染めてくれた。
友達になったと思った。
自然と彼と一緒の時間を過ごすようになり、それが日常になった。いつも傍にいたし、いつも私の視界に彼はいた。一緒に笑顔になれるようになった。
特別な人になったと思った。
私の秘密を知って、私の過去を知って。彼は私を理解しようと努め、そして約束してくれた。私が抱える問題を解決すると。
素敵な名前だと思った。
美しい響き。美しい漢字。私は何度も心の中で練習した。スイ、スイ、彗。いつかちゃんと呼べるように心で呟いた。『あんた』とか『あなた』じゃなくて名前を呼んでみたかった。
好きだと思った。
彼が誰かといると私は嫉妬するようになった。そしていつも寄り添っていたいと思うようにもなった。けれどプライドの高い私は素直じゃなかった。
愛してると思った。
彼の記憶を失った時も彼を失った時も彼を思い出した時も、私は一貫して彼を愛していた。どれだけ遠くにいても、違う世界で意識を溶かしていても、たとえ彼が亡くなったとしても私の気持ちは不変だと思う。
最初は面倒な奴だと思った。
口を開けば不平不満。すぐに暴力をふるいやがる。こんな問題児をなぜ俺が世話しなくてはならないのかと自分の運命を呪った。
面白い奴だと思った。
問題児のわりにはしっかりとした自分だけの哲学を持っていた。他人はすべて敵というような雰囲気だと思っていたが、意外とそうでもなかった。
気の毒な奴だと思った。
二重人格、記憶喪失、家庭内暴力。彼女はボロボロで、悲惨な道を歩いてきたと知った。彼女の美しさが痛々しく思えるほどだった。
気が合う奴だと思った。
俺も変人だが彼女も変人だった。彼女は毒舌ばかりで俺は冗談ばかり。どちらも口を開けばうるさいスピーカーだったが、似た者同士だと思った。
綺麗だと思った。
彼女の容姿は誰もが認める美しさだった。彼女と出会う以前から綺麗な人だと思っていたが、それだけだった。彼女を知れば知るほど美しさを上回る感情が徐々に身体の隅々に侵食していった。
特別な人だと思った。
きっかけがあったわけじゃない。気づいたころにはそういう人物になっていた。いつも傍にいたし、いつも彼女のことを考えていた。
とても素敵な声をしていると思った。
初めて名前を呼ばれたときの新鮮さは忘れられない。どうして心安らぐ魅力的な声を発せるのだろうと不思議に思った。
運命だと思った。
彼女に出会えたこと。本当に奇跡だ。
俺の残りの人生でこれ以上の奇跡は舞い降りない。
今日にいたるまでを振り返るとアリナと俺は実に運が悪かったと思った。
歩み寄ろうとすればいつもどちらかが遠くへ歩いていく。アリナは俺を忘れ、俺は目を閉じた。肝心なところで俺たちは静かに黙り込んだ。
だからこそ強く求めあったのだと思う。二度と手を放すまいとお互い必死だった。特にアリナだ。彼女はもはや病んでるレベルだと思う。
「どうかしら」
彼女は手を後ろに組んで輝かしい笑顔で私服の感想を求めた。
「宇銀の七兆倍素敵だと思います」
「宇銀ちゃんの扱い雑すぎでしょ。反応に困るじゃない」
「すまん、宇銀……兄ちゃんはお前を裏切ってしまったようだ……」
真夏ということもあって自然と露出が増えるのはしょうがないとしても彼女のショートパンツは反則だった。非常に目のやり場に困るのだが正直なところ目が腐り落ちるまで眺めていたい。3Dプリンターって人間の脚も再現出来るんですかね? 玄関に飾ろうかな。
この水族館は高校生のあのとき以来だ。とある臆病者のM氏がデートに恐怖を感じて俺とアリナに監視役を依頼したときのことである。M氏はガチガチになりながら水族館を歩き回り、元彼女のR氏とデートした。実に初々しかったのを覚えている。真琴氏が写真を求めたときも――すまん、お前のプライバシー守れなかったわ。ごめんM氏、いや真琴。
「手、繋ぐ?」
アリナは眉をひそめてそう提案した。
ストップ。お嬢さんしょっぱなから飛ばしますね~。その一言で僕の心臓が機関銃と化しましたよ。どうしてくれるんですか。全身から空薬莢(汗)がとめどなく溢れてくるんですが。
「アルコール等で殺菌消毒もしていないのにあの日羽アリナ様に触れるだなんてそんな不敬なこと・・・」
「この前恋人繋ぎしたのに何言ってるのよ。ほら――」
「あっ、ダメェ」
「変な声出すのやめなさい」
がっちり手をつながれてもう後に引けない状況になった。
これはもしかして「恋人」という関係なのではないだろうか。確か辞書で見かけたような気がする。クソ、手元に国語辞典があれば確認できたのに! ガッデムッ!
禁断の恋人繋ぎを再びしてしまった俺は緊張のあまり、関節が思うように動かなくなった。同時にM氏に謝りたくなった。これ緊張しないやついるの? 緊張しないと断言できるやつはいますぐ手を上げなさい。はい、お前焼却炉な。
チケットを購入し、冒険の旅に出る準備が整った。
「懐かしいわ。だいぶ変わっているところもあるけど前に来た時の面影はあるわね」
「そそそそそそうだな」
「呂律がまわってないわよ。深呼吸しなさい」
「オォ……やはり地球の空気はいつ吸っても美味い。タイタンは最悪だ。小便の味しかしない」
祝日ということもあって来場者は大勢いた。子連れや学生は勿論のことカップルも大勢。もしや他人の目からは俺たちもカップルとして映っているのだろうか。
入場門をくぐるとすぐに巨大な水槽トンネルに出た。頭上には鮮やかな魚が泳ぎまわり、太陽光がシャンデリアのように輝いている。ウミガメが優雅に筒の周りを泳ぎ、衝突しそうになった魚の群れが四散していった。
「この海のトンネル、本当に綺麗だわ」
俺の手を引いて彼女は上を見上げた。
木陰から漏れたような光が彼女を照らし、彼女の瞳が輝いて本当に宝石のようだった。言葉を忘れて見ていると目が合ってしまった。
「なーにーよー。じっと見詰めすぎ。集中できないじゃない」
「すまんすまん。ちょっと宇宙の真理を悟れそうな気がして――」
「宇宙の真理より私のこと考えてよ」
「ワォ! なんてワンダフルなことを言うんだい!?」
「ちゃんと日本語らしく和訳しなさい」
アカン。おじさん、ドキドキが止まりません。
トンネルを抜けると薄暗いエリアに入った。青白く光るたくさんの水槽には深海生物などの暗闇を好む生物たちがいる。カッコよく言えば闇の住人。ダーク・レジデント。映画のタイトルにありそうだ。
「この子たち、何が楽しくて生きてるのかしらね」
「おいおいお嬢さんいきなり辛辣だね。さっきの水槽トンネルの感動は何処へ行ったんだい」
「だってそう思わない? どうして生きてるんだろう、ってこの子たち思わないのかしら」
「そんなの人間も同じだろうよ。何のために生まれてきたのかを探すのが人生だ」
「ふぅん。私は見つけたわよ」
「いいですか、これ以上心拍数上げること言わないでくださいよ」
「あなたの傍にいること」
「ンッァァアアッ! 破裂するぞーッ! ママーッ!」
あはは、と笑いながらまた手を引いて次のエリアに向かった。母上、わたくしめを産んでくれてありがとうございます。いま、大変幸せでございます。
水族館には本当にたくさんの生物がいる。
小指サイズのものから船のように巨大な生物まで様々だ。しかし大小関係なく俺たちに感動を与えてくれる。生かされている身ではあるが生物としての姿に変わりはない。長い年月を経て獲得した姿は地球の生ける歴史そのものである。
アリナと回っている最中にたくさんのことを回顧した。図書室で出会った日のことから今日にいたるまでのすべてを。辛いことばかり目に焼き付け体験してきたがこうしてアリナと手を繋いで共に過ごせているのだからこれでよかったのだ。
もし赤草先生から逃れて図書室に行かなかったら。
もし鶴の説得に応じず、記憶を失ったアリナを諦めていたら。
もし
そう考えるとぞっとする。
いま手を繋いでいるのはアリナじゃなかったのかもしれない。白奈だったかもしれない。それはそれでまた素敵な時間を過ごせたのかもしれない。
だがそんな世界は存在しない。それにやり直したいとも思わない。小さなこともすべて未来で繋がっているのだ。
いざ巨大水槽を前にするとその雄大さに圧巻された。
自分がちっぽけな存在だと思い知らされるほど横にも上にも高く伸びたブルーの世界に俺たちは陶酔した。
「間近で見ると本当にすごいわ」
「あぁ。首がもげそう」
優雅に水中を飛ぶ魚たちを目で追う。
アリナの肩がちょんと触れた。熱いものに触れたように反射的に少しだけお互い距離をはなしたが、すぐにぴったりと密着した。彼女のか弱さが伝わってくる。同時に安心感が花開くように広がった。
これが人が求める感情なのだろう。言葉は要らないな。
繋いだ手の境界線はもうわからなくなっていた。
水族館に行きたかったわけじゃない。場所はどこでもよかった。
ただパッと浮かんだのが、思い出のある水族館だったのだ。しかし実際来てよかった。彼女との空白を埋めるには懐かしむことが一番だから。
彼は少し上の空だった。
どうしてだろうと私は首をかしげて彼を覗き込む。
「顔が近い」
そう抗議されたけれど私はやめなかった。何を考えているか知りたかったから。好きな人のことは全部知りたいもの。
「あなた具合が悪いの?」
「違う。スーパー美少女とのデートに緊張しているだけだ」
「あらうれしい。口を拭きなさい」
ナポリタンのソースで彼は口元を汚していた。彼は意外と上品に食事をする人間なので、やっぱり上の空だ。
水族館を出て私たちはお洒落なお店で食事している。本当はスイーツ食べ放題のお店に行くつもりだったけれど彼が「トマトジュース自粛中なんだ」と拒否した。精神病を疑ったが結構本気らしい。妹にこっぴどく怒られたそうだ。
「それ、本当に好きなんだな」
私が頬張る山盛りクリームパンケーキをさして呆れ顔でそういった。
「年寄りになっても食べ続けるわ」
「羨ましい……俺も無制限にトマトジュースを飲める身体に戻りたい……」
「我慢することね。それか新しい飲み物を開拓しなさいな」
「見つける前に寿命が尽きるぞ。トマトジュースの代わりなどこの世に存在しない」
肩を落として彼はナポリタンを口に入れる。
というかトマトさえあればいいんじゃないの?
さて、そろそろ決着をつけるか。
店を出て、俺は傾き始めた太陽に正対して決意した。これが少年漫画だったら「つづく」の文字が画面右下に出現していることだろう。
「次はどこへ行くの?」
「天文台だ」
「えっ? 近くにあるの?」
「山にある。小さいころによく行っていた天文台だ。ずっと俺は宇宙が好きで、子供のころは図鑑とかを読み漁ったなぁ。本当に名前に導かれて育った」
「妹さんも? 宇宙と銀河を組み合わせた名前よね」
「いや、宇銀はそこまででもない。でも俺が宇宙を語ると楽しそうに聞いてたっけな」
「他の女の話しないで」
「いやいや君が話題に出したんだからね?」
天文台行のバスに乗車した。
時間が経つにつれ、木々が多くなっていった。山にさしかかると車体が後ろに傾き、苦しそうにエンジン音が車内に響いた。俺とアリナは一番後ろの席に二人で座り、目的地まで静かに待った。
そうして三十分以上揺られ、ようやく山頂に到着した。もうだいぶ薄暗くなってきており、東の空には星が見え始めてきている。
「天文台があるだなんて知らなかったわ」
「結構いいところなんだ。ド田舎には負けるがここも綺麗な星が見れる」
俺はアリナの手を引いて看板の矢印に従って歩いた。
「あれ、天文台には入らないの?」
「そこの看板見えるか? 星を見るスポットがあるんだ。ここに来る客のほとんどはそのスポットのために来てるんだぜ。もちろん施設内の展示品とか望遠鏡も素晴らしいのでぜひご覧になってみてください。またのご来館お待ちしております」
「本当なのね。さっきの乗客もそっちに行ってるわ」
「よし行こう」
森を切り開いてできた道だが握りこぶしくらいの石が転がっている時もあるので、気を付けてアリナの手を引いた。道が途切れるまで少し暗いため、アリナが怖がらないようにもできるだけ身を寄せた。
ほかのお客さんがいたことに安堵したけれど「こんな暗闇に連れ込んで私をどうするつもり!?」と言おうと思った。まぁ彼がそんなことしないとは知っているけれど。じょーだん。
しばらく歩いていると道の切れ目で人が見えた。みんな顔を上げている。
「着いた」
木々が一切ない芝生が広がった。上空から見れば円形にくりぬかれたように見えるだろう。そこには私たち以外にもたくさんの人が星を見に来ていた。
「アリナ。空を見てみろ」
彼に従って私は空を見上げた。
空にはうっすらと天の川が流れていた。手で撫でたくなるほど美しく、私は目を思いっきり見開いて星々の輝きを一粒一粒網膜に写し取った。この星たちのすべてが主役だと思った。よく彦星と織姫が話に上がるけれど意識にも上らなかった。だって本当に全部綺麗だったから。あまりにも眺めすぎたせいか遠近感が狂って星たちが目前にあるかのように錯覚した。
「宇宙は俺たちを幼年期に還してくれる。誰もが幼心を思い出すんだ。本当に不思議だよな。俺はここに来るといつも小さいころを思い出すんだ」
「そうね。わかる気がするわ」
「そしてここに来るたびに何かが始まる気がする。新しい何かが生まれるんだよ。多分ほかの人も同じ気持ちだと思う」
彼は私の耳元でそう語った。彼らしくない真面目なトーンだと思った。
「アリナをここに連れてきたのは俺が気に入っている場所っていうのもあるけど、純粋に感動してほしかった。できるならば高校時代のうちに連れてきたかったけどな」
「こんな素敵なところだと知っていたら何度でも行っていたと思うわ」
「ならよかった」
「アリナ」
俺は彼女の名前を呼んだ。これから一生涯で一番呼ぶであろう名前を。
彼女はゆっくりと首だけを俺に向けた。彼女の瞳は星の光で濡れていて、芸術そのものだった。
なぜ彼女はこんなにも完璧なのだろう。
あの日。
彼女と出会ったあの日そうは思わなかった。容姿だけは100点だが、性格は0点。そう思っていたのに。
「アリナ」
名前を呼ばれた。これから一生涯で一番私を呼ぶであろう人から。
彼は私をまっすぐ見つめ、私も彼の目の奥を覗いた。彼は私の理想で憧れだ。
なぜ彼はこんなにも完璧なのだろう。
あの日。
彼と出会ったあの日そうは思わなかった。いつもお節介ばかりで冗談ばかり。そう思っていたのに。
「誰よりも君が好きだ」
「誰よりもあなたが好き」
きっと俺たちは一緒に年を取り、一緒に子を育て、一緒に生きていくことだろう。
きっと私たちは一緒に手を繋ぎ、一緒に歩いて、一緒に愛を確かめ合うだろう。
一緒に死ぬことはないかもしれない。
一緒に涙を流せないかもしれない。
どちらか一方の死を看取り、どちらか一方が希薄する意識の中であなたに「愛してる」と伝えることになるだろう。皺だらけになったその手を握り。
それでもこの命が尽き果てるまであなたの傍にいたい。
心からそう思う。
これがわたしたちの物語。
数年後、あるいは近い未来。
あるいは――。
「ただいま」
「おかえりなさい」
……
「買ってきましたよ、先生」
「まだそう呼ばれるほど偉くないわよ。でもあなたに買って欲しかったから嬉しい」
……
「いやぁ〜やっと読める。なんで読ませてくれなかったんだ? 気になって気になってパスワードを推理したくらいだぞ」
「あなたが読めばわかるわ」
「?」
「あなたへの、ラブレターみたいなものだから……だから恥ずかしかったの」
……
「そりゃ楽しみだ。今日が発売日でよかった。土日をかけて読破しよう」
……
「感想は最後まで読んでからまとめて言いなさいよね。その……何度も聞くのは恥ずかしいから……」
俺はソファーに寝転がった。本を開く前に背表紙に書かれた妻の名前を撫でた。
これが彼女の物語であり、彼女の一部なのだと実感した。
「では読ませていただきます、榊木アリナ先生」
どうか誰もが救われる物語でありますように。
そう願ってページをめくった。
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