第119話 私と彼の物語
暑かった。それと必死だった。
大学の門に向かって久しぶりに走った。門の向こう側は太陽に熱せられた道路が陽炎をつくって揺らめいていた。こんな気温の中で走ったら汗をかいてだらしなくなってしまうことはわかっていたけれどそれどころじゃなかった。
いつもの大学前停留所ではなく遠い停留所まで私は走る。三十分も待ってられない。走ってもう一つの停留所に行った方が十分くらい早いのだ。
バスに乗車し、駅に着くまでの間、私は記憶を思い返していた。
彼と出会った日のこと。
彼とテニスコートに行った日のこと。
薔薇園に花を持ってきた日のこと。
美術部でモデル役をした日のこと。
彼に二重人格であることを告げた日のこと。
生徒会にお邪魔した日のこと。
彼と文化祭を回った日のこと。
彼を私の家に連れた日のこと。
彼と水族館に行った日のこと。
白奈が彼に告白した日のこと。
みんなで忘年会をした日のこと。
正月に彼の家に行った日のこと。
父が死んだ日のこと。
すべて思い出した日のこと。
彼を失った日のこと。
彼をまた好きになった日のこと。
彼と体育祭で笑顔になった日のこと。
彼をまた失った日のこと。
ピクリとも動かない彼を見た日のこと。
それからずっとあなたは私の中で止まっている。
揺れるバスの中、揺れる電車の中で私は彼に関する記憶を何度も再生した。
いつだってあなたは私を照らしてくれた。問題児の私を毛嫌いすることなく、へんてこな冗談を交えていつも私を温かい気持ちにしてくれた。その日々を一度はすべて忘却してしまったけれどもうあなたのことは二度と忘れない。
だから。
だから――どこにいても忘れないで。私も忘れないから。
改札口を通り過ぎると大きな病院が目に入る。
私は人生で初めて赤信号を無視した。どうしても待てず、車が全く来なかったのでやってしまった。
何度も訪れているので受付の人はもはや知人レベルだ。なので私が自動ドアを過ぎるとすぐ受付の人が駆け寄ってきた。空調の涼しさも忘れ、息があらいまま私はひねり出すように口を開いた。
「すみません、面会許可証を――」
「日羽さん、大丈夫ですよ。受付は済んでます」
「え?」
「宇銀さんが代理で手続してくれました。どうぞ、首にかけてください」
多分代理なんてできない。本人の身分証提示と親族の事前承認が必要だ。
だからこれは特例なのだと悟った。宇銀ちゃんとナースさんの。
「ありがとうございます」
私はそう一言残し、エレベーターへと向かった。
迷わず8階を押し、ぐんと足に重力がかかった。ゆっくりと上昇する力が私に伝わる。数字が一つ、また一つ右に点灯してずれてゆく。
2、3、4、5、6……。
8階を知らせる女性アナウンスが鳴り、ドアが開いた。
一歩踏み出し、真っ白な廊下に出て右に曲がり、直進する。
812、813、814……。
病室の番号が流れていく。820号室に近づくにつれ、鼓動が痛いくらい強まっていった。私は歩きながら呼吸を整え乱れた髪を手で直し、身だしなみに気を使った。
820号室。
何度も訪れた病室の前にようやく着いた。
大きく息を吐いてドアをノックした。どうぞ、と宇銀ちゃんの曇った声が聞こえた。
手を消毒し、私はドアに手をかけた。ゆっくりとスライドし、恐る恐る中を覗いた。
彼の父、彼の母、彼の妹が目に入る。そしてベッド。
「おぉ久しぶりだな。地球は無事か?」
あぁ……彗だ。私の知ってる榊木彗だ。
私は口元を押さえて信じられないくらい大きな涙をこぼした。ゆがんだ私の顔はそれはそれはひどいもので、到底人に見せられる表情ではなかったと思う。だから両手で顔を覆ってその場にうずくまった。音が自分の嗚咽でいっぱいになって何もかも聞こえなくなったけれど彼が傍にいることだけは伝わってきた。
大量の涙で私の手は濡れ、まるで雨の日のようだった。袖も腿も濡れて実にみっともなかったと思う。でもこの時、私は私でいることを保つことができなかった。だってそうでしょう? この世で一番愛おしい人と再会できたんだから。誰だって自分を保てやしない。私が無理だったんだから。
こうして私と彼の物語は再び始まった。
数日後。
健康診断や脳の精密検査を終えた彼に再び会える機会をもらった。
大学に行く日だったけれどどうでもよかった。彼と話せるなら他はどうでもいい。うん、歪んでると思われちゃいそう。
彼はリハビリルームで歩く練習をしていた。補助してもらいながら両手で棒につかみ、必死に歩く姿は申し訳ないけれど微笑ましかった。私はそれを遠くから見守って終わるのを静かに待った。
「異常はないらしい」
「そう。よかったわね」
自販機前の休憩室でとなり同士で座った。やせ細った彼の腕を見てこちらまで辛い気持ちになる。それを悟ったのか、彼は明るい声でしゃべりだした。
「どうやらまだ世界大戦は起きてないようだな」
「ばか」
あぁ、言葉が見つからない。なんてしゃべればいいんだろう。
「……三年、か。本当に三年経ってるんだな。目が覚めたとき看護師がいてさ。俺を見てチワワみたいに目玉を見開いて声を上げて驚かれたもんだからこっちまで叫んじまった。キャー!とギャー!って。そのあとは質問の嵐で、自分が何者でどこに住んでるかとか訊かれた。まぁ一番びっくりしたのは宇銀だな。まだ初々しかったあの女子高生が一瞬で女子大生になって、しかもそいつから『兄ちゃん』って呼ばれるもんだから怖かった。自分より年上のやつから兄ちゃんって呼ばれるんだぞ」
「あなたはもう成人してるのよ」
「それもビビった。一晩寝たら酒を飲める身体になってたんだからな。もう何が何やら……」
彼は私がプレゼントした腕時計をそっと撫で、
「……ありがとう、アリナ。お見舞いに来てくれてたんだって?」
「そうよ。あなたの家族には負けるけど、何度もあなたに会いに来たわ」
「マジすか。そういや高校時代の時と変わってないな、お前。かなり魅惑的にはなったが」
「あなたのためよ」
「なんですと?」
「私が誰かわからなくなっちゃうでしょ? あなたがいつ目を覚ましてもいいようにあなたが眠ったころの私でいつづけようと思ったの。だからあなた罪深いのよ。一人の少女の自由を奪ったんだから」
「すみません……」
「いいわ。許します」
彼がわたしの隣にいる。それだけでいい。
それだけで私は幸せだから。
三年は一瞬だった。
目覚める前の記憶は家でトマトジュースを飲もうとして冷蔵庫に手を伸ばしたときだったと思う。あの日の記憶は正直曖昧だ。
俺は脳虚血で脳にダメージを受け、三年間昏睡状態だったと医師に説明された。原因は不明と言われたが思い当たる節があると言えばやはりトマトジュースの過剰摂取だろう。認めたくはない。体質だったのかもしれないし、偶然が重なって引き起こされたのかもしれないが真相は謎のままだ。
現状を知れば知るほど不安になった。俺は高校を卒業してないし、子供のまま大人になっただけだ。暗くなった病室で一人今後のことを考えた。
特に家族には本当に迷惑をかけてしまった。入院費はもちろんのこと心配をたくさんかけてしまった。
そんな不安だらけの毎日に光を与えてくれたのはアリナだった。
三年も俺を待っていたことに衝撃と申し訳なさでいっぱいになった。彼女は俺のリハビリに付き合ってくれて三年で何が変わったかとか友人はどうしてるとかを熱心に話してくれた。
そうしているうちに妙な引っ掛かりを覚えた。
「もしかして全部思い出したのか……?」
「えぇ。あなたを散々罵倒したこともあなたに告白したこともぜーんぶ覚えているわ。と言っても去年思い出したのだけれど。あなたも私も随分と時間がかかってしまったわね」
「そうか……」
「嬉しい? 思い出してくれて嬉しい?」
「ちょっ、顔が近い近い。性格変わったなぁ」
「ちょっとぐらいいいじゃない」
「公園のベンチではやめましょう」
「じゃあどこならいいの?」
三年間で世界は彼女に何を教えたのだろうか。こんなに積極的になった日羽アリナを誰が望むというのだ。俺だ。というか世界中の人々だ。すごく需要があります。そういうスーパー美少女要素もっとください。
「あなたの退院祝いを今度しようと思うの」
「そりゃありがたい」
「高校のクラスメイトを呼ぶわ。あなたに会いたがってる人がたくさんいるわよ」
「高校時代かぁ……そっか、みんなもう卒業してるんだよな。なんか取り残された感じだな」
「余計な気を遣うのはやめなさい。あなたの頭のおかしい冗談を聞きたがってるのよ? 消極的になったら台無しじゃない」
「ひでぇこと言いやがる。せっかく毒舌薔薇時代の記憶を取り戻したのならお前も毒舌披露してくれよ。みんな懐かしむだろ」
「うるさいゴミ。あなたは私だけを見ていればいいの」
「ヤンデレェッ!」
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