第116話 Time.
大人になると劇的に世界が変わると思っていた。
世界観というか人生観というか、そういった見方がはっきりと目に見えて変わるものだと思っていたのだが実感はなかった。あっさりと二十歳を迎えた日はとりあえずショートケーキを食べて自分を祝った。
二十歳になってできることと言ったらお酒とか煙草などの嗜好品がぱっと思いつく。そんなわけで大人たちが愛してやまないビールを一口飲んでみたのだが到底飲めるものじゃなかった。とっても苦くて舌に違和感が残る。
(よくこんなもの飲めるわね……)
そう思いながら私はいつもお酒を出す。
千穂の紹介でアルバイトすることになった顔採用で有名なちょっと高めの飲食店。そこで働いていると自然とお酒にかかわらずいろんな料理を知ることができる。厨房を覗くとプロの方々が真剣な顔つきでその指を美しく動かし、命を吹き込む姿が見れる。そんな彼らの職人芸を知らないお客たちが何気ない顔で残飯を出すことに少しばかり腹が立つ。
「そりゃあ、悲しいよ」
私は休憩の合間にその点について訊いた。自分が丹精込めて形にした一品を残されてどう思うのか知りたかった。創造物は違えど、彼らも無から有を生むクリエイターだ。私の人生の最終目的でもある作家業にも何か通ずることがあるのではと思い、失礼を承知の上で質問したらそう返された。
「料理はね、僕の生きる意味なんだよ。人を笑顔にしたり幸せな気持ちで帰ってもらえれば本当に良かったと思える。けどね、それで完全に満足したことはないんだ」
「どうしてですか?」
「この業界に飛び込んでもう二十年以上は経ったけど、僕はたった一回も百点満点の料理を作ったことがない。作り終え、君たちにお客さんのテーブルまで届けてもらうためにこの手から離れる寸前、若い子たちが食べる前に携帯で写真を撮るように僕も一度俯瞰するんだ。今回は何点かなってね。でも満点はなかった。僕としては満点の料理を届けたいんだけど未だ辿り着けないでいるよ」
四十代半ばの彼は苦笑して頭をかいた。私は彼らのまかないを食べながら「これだけおいしいのに厳しいなぁ」と思いながら話の続きを聞いた。
「だから死ぬまでに百点を取りたいね。もし作ってしまったら勿体なくてお客さんに出すのを躊躇うだろうけど」
「永久保存出来たらいいですね。お腹の中に入ってしまったら一緒ですから悲しいです」
「その点アリナちゃんが目指してる小説家はいいね。永遠にこの世に残り続ける。まさか自分の詩や物語が千年後でも語り継がれているだなんて昔の人たちは思ってもみなかっただろうね。でもそれだけ凄いってことだよ」
「極論、作るってすごいってことですね」
壊すことは簡単っていう言葉は周知のとおりだけど実際にその重みを知る人は少数だ。私もそのうちの一人だったけれどこのアルバイトを通してその片鱗に触れられた気がする。それだけでも大きな成果だった。
最初はお金の面で始めたアルバイトだったけれど得られるものは想像以上で、物事はやってみなきゃわからないし見えてこないと痛感した。
大学二年生になって生活にも慣れ、あと二年で就職という新たなスタートを切ることになる。
私はただ物書きになることだけを第一優先としていたのでどこに就職するかとかは一切考えていなかった。若干焦り始めた最中、ちょうどいいタイミングで鶴から「飲みに行かない?」とお誘いのメールが来た。お酒は嫌いだけど相談に乗ってもらおうと思い、即OKの返事をした。
久しぶりに会った鶴は、完全に茶髪に染まっており、真っ赤な口紅をしていて衝撃を受けた。
「あなた、人間の血でも吸ってきたの?」
「間違って買っちゃったの! もっと薄いやつを買うつもりだったんだけどね……使わないのももったいないし」
「悪い男につかまらないように気をつけなさいよ。それだけが心配だわ」
鶴がよく行くというバーに入店し、彼女は「ウォッカトニック」という何やらヤバそうなカクテルを頼んだ。お酒をよく知らない私からすれば恐怖でしかなかったので優しい響きのある「カルーアミルク」を頼んでみた。普通の牛乳であることを願って。
「久々の再会にかんぱーい!」
「はい、乾杯」
チンっとグラスを鳴らし、一口飲む。そして理解した。これ牛乳の姿をしたお酒だ。しかも結構度数高くない?
「アリナ全然変わってないね~!」
「よく言われるわ」
「妖艶さが増して美しさにさらに磨きが……アリナって魔女になりそうだよね。全然老けなさそうで羨ましい!」
「まだ私たち二十歳じゃない。私も梅干しみたいにしわしわになって毛嫌いされるんだわ」
「完全に偏見でしょ! あ~私もアリナみたいに女優顔で生まれたかったなぁ~顔交換して~」
この子酔うの早すぎでしょ。
しかし彼女はその酔いやすい体質でありながら酒乱であった。抑えることを知らないのである。ヤバそうなカクテルをどんどん頼んですぐ空にする。きっと彼なら「お前の肝臓に生まれ変わるくらいならミミズになって土を綺麗にしていた方がマシだ」とでも言っていただろう。そんなことを考えるくらいなのだから私も酔っているのだろう。
潰れてしまう前に訊きたかったことを切り出した。
「鶴って就職どうするつもり?」
「私は法科大学院に進むよー! 法科法科! ほうかー!」
「なぁにそれ?」
「弁護士になりたいんだぁわたし」
「え!? なんで!? 意外だわ!」
「かっこいいじゃん! 親が検察官なんだけどその影響で小さいころから憧れててね~。だから司法試験に受かるまではまだ社会人は名乗れないなぁ」
「すごいわね。私がピンチの時は鶴に弁護してもらうわ」
「全力で相手を潰してあげる!」
彼女が弁護士になりたいだなんて聞いたことがなかったので酔いがさめる勢いで驚いた。謎めいた部分もあったので彼女の意外性については高校時代で理解していたつもりだったが三年では足りなかったようだ。
「で、アリナは? 就活とかしてるの?」
「してるわけないじゃない。そもそもどこで働くかも考えてないわ」
「ふぅん。ま、アリナには眠れる王子様がいるわけだしぃ? 就職より結婚だよねぇ!?」
「逆よ、逆。あなた酔いすぎよ」
「キスすればいいじゃん! 『眠れる森の美女』みたいに目覚めるかもよ!?」
「誰か助けて……」
「大丈夫安心して! 弁護するから!」
もうこの子はダメね。
「アリナは来年の同窓会行くの?」
「一応行くわ。住民票は移してないから成人式も地元よ」
「わーい! わーい! わーい!」
私が彼女みたいになる前にここで切り上げることにした。
これ以上飲んだら嘔吐して私が処理しなきゃいけなくなりそうだ。
私は時計が好きだった。
静かに誰からも指示を受けずひたすら時を刻み、私たちに時間を伝えるこの機械に妙に心惹かれる。だからといって時計マニアとうわけでもなく、高級腕時計を熱望しているわけでもない。
デジタルは好きじゃなかった。何か物足りなくて楽しくない。あの針が動くさまが好きなのだ。
最近知ったのが、高い時計は針が一秒ごとに時を刻まないことだ。今更感が否めないが滑らかに動く指針が美しかった。でもやっぱり私は一秒の刻みが好きだ。壁に掛けられた学校の時計を思い出せるから。
近所に時計の専門店があると聞いて私は買うつもりはないが見に行ってみることにした。
ブランド物から古い時計まであるお店で、店主の趣味で開いているような独特の雰囲気のある店だった。童話に登場しそうな時計から富裕層の人が身に着けていそうな煌びやかで派手な時計までたくさんある。
見ていればすぐ気づくことがある。それは時計たちは自分だけの時間を持っているということだ。現在時刻を指している時計はほとんどない。もしかしたらないのかもしれない。
つまりほぼ中古品である。人によっては潔癖症を発症するかもしれないけれど見方を変えれば、この時計たちは世界中のとある場所で、とある時間を過ごしてきたということだ。そう考えればなんて素晴らしい店なんだろう。
私はある時計に釘付けになった。
それはありふれた時計で、誰もが目にしたことのある時計だ。教室にある変哲のないあの白と黒のあの時計が飾ってあった。
時刻は17時5分。放課後だ。夏は夕暮れ、冬は月。あの時刻を偶然にも指していた。
その瞬間じんわりと熱が胸の中心から生じて身体の隅々まで伝わった。自分が涙していることに気づいたときにもう一つ気づいた。
「伝えなきゃ――」
彼がナポリタンをフォークに絡めている。
私はパンケーキにナイフをいれている。
これはあの水族館の記憶だった。それだけじゃない。美術室で読書している光景、深紅のマーメイドラインで足を取られそうになったこと、彼の自室に入った時のこと、彼のためにチョコを作ったこと。
幻覚のように思えるこの記憶たち。でも間違いなく私の記憶で、私の失われた記憶だ。
約二年半。
私はやっとあなたを取り戻せた。
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