第110話 あなたを待っている
人の同一性は何で左右されるのだろう。
その人がその人である所以とは。名前か、遺伝子か、心か、はたまた人体構造か。
例えば瓜二つの双子の場合、左右されるのはやはり中身だろう。
一般人でも見分けられる方法を模索した時、やっぱり頼りになるのは会話だ。喋り方じゃない。何を知って、何を経験してきたかを探るのだ。
つまり相手の記憶を覗くことが最も簡単と言える。それほど記憶というものは自己同一性を確立するために重要な要素なのだ。
アリナの告白は、それが試されるものだった。
彼女の告白を聞いた時、純粋に喜べなかったのはそれが理由だ。
クラスメイト達の視点からすれば、必然というか来るべき時がきたという感じだっただろう。確かに俺はアリナと仲が良かったし、異性の友達にしては踏み込みすぎた関係だった。いずれ交際すると思われても仕方がなかったと思う。
受け入れた光景を想像すると心なしか、遠くで毒舌薔薇が悲しそうな顔をしてこちらを見つめている姿が浮かんだ。勝手な想像だが、俺に影響を与えるには十分だった。
勿論、彼女が毒舌薔薇で基本人格で、あの日図書室で出会った日羽アリナということは承知している。ただ榊木彗に関する記憶が無いだけ。ただそれだけが欠落したアリナだ。人格が同じとわかっていても、どうしてここまで俺は苦しめられるのだ。どうして俺のことを忘れただけで彼女を別人扱いしてしまうのだろう。
俺だけが困惑しているわけじゃなかった。鶴も笑ってはいなかった。事情を知る彼女だから見せた場違いな反応だ。きっと彼女なりに俺の心境を察したのだろう。
以前から俺は独身貴族を豪語している身である。そして情けないことに動揺している。
そもそも彼女の想いに応えるということは、その理念を裏切ることにもなるが、その前に彼女を思慕していることになる。
「聞いたよ! 聞いた聞いた!」
授業合間のトイレ休憩。教室に居づらくなった俺は廊下の掲示板を凝視して考え事をしていた。その最中、白奈が話しかけてきた。
「やっとだね!」
「何がだ」
「もう! 今更なんで迷ってるの!? アリナさんだってずっと願ってたことだと思うよ!」
「そっちにまで話が流れてるのか……」
話が広まるのが早すぎる。
白奈はアリナの事情を知らない。だから俺のはっきりしない態度が気に入らないのだろう。
「突然のことだったからな。吃驚しちまって、頭が真っ白になったんだ。白奈のお肌のように」
「変に口説かないの!」
「冗談だ。いやぁ、本当に参った……」
「なんで深刻そうな顔してるの? 嬉しくないの?」
「まぁ嬉しいよ。でもなぁ、やっぱりなぁ」
自分の優柔不断な性格に腹が立つ。そこまで理詰めじゃなくてもいいじゃないか、と思う自分もいるがどうしても煮え切らない。
「アリナさんのこと、好きじゃないの?」
「究極の質問だな」
「究極っていうあたり、素直じゃないよね。好きか嫌いかなんてすごく簡単だよ」
「そうだよな。簡単なはずなんだがな……」
チャイムが鳴った。教室に戻らなければならない。
「しっかりしなよ、彗。逃げちゃだめだよ」
「おう。逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ……」
決心はつかず、放課後が来てしまった。
白奈に誓ったように逃げるつもりはない。きっとアリナはあの場所にくる。彼女を一人待たせるわけにもいかなかった。それに訊き出したいこともある。
掃除を済ませると誰よりも先に荷物をまとめ、離脱準備を始めた。帰宅部員としてHALO降下を迅速に行えるよう訓練を重ねてきた甲斐があったものだ。撤収ならだれにも負けない。
アリナの視線を感じるが無視して教室を出た。ひどい態度だがどうか許してほしい。
来ると信じて。
俺は椅子に座って時計を見た。三時間もずれた時計を見ても意味がないことはわかっているが、それでも何かを意識していないと気がおかしくなりそうだ。
役に立たない時計が一分ごとに時を刻み、カチッと音を鳴らす。この時計は三時間の遅れを取り戻すつもりがあるのだろうか。そしてなぜ三時間も遅れたのだろう。俺とアリナがいた頃は正確な時間を指していたのにどうしたのか。
コンコン。
ドアがノックされた。
曇りガラスに覚えのある輪郭がぼんやりと浮かんでいる。
「はい」
ドアに向かって言った。
ゆっくりとドアがスライドし、アリナが顔半分を出して確認する。
「やっぱりいた――」
アリナはほっと安堵したように息を吐いて肩を下げた。その反応も初々しくて俺は直視できなかった。
彼女はいつも通り姿勢を正して美しく靴音を鳴らして近寄ってきた。椅子に座ると若干視線を下げて俺と向き合った。
沈黙。
何から切り出せばいいかとても迷う。お互いそんな心理状態だ。
制服がこすれる音にすら過敏になってしまうほどの静寂。一瞬、アリナと目が合ったがすぐに逸らされた。そしてまた恐る恐る視線を合わせようとする。
「なぜ、あのとき言おうと思ったんだ」
「嫌……だった?」
叱られる子供みたいにアリナは小さな声でそういった。
「嫌じゃない。でも、様子がおかしかっただろ? つまらないとか焦ってるとか言ってさ。そのあとに突然、その、言われると……」
「ごめんなさい。私も落ち着いていなくて、その……私らしくなかったわ」
「謝ることはないが、本気なのか……?」
アリナは俯いて前髪で目を隠す。
「うん」
耳を澄ませないと聞こえないくらい小さな返事だった。
「アリナ。よく考えろ。俺みたいな人間より魅力ある男は腐るほどいる」
「どうして自分を卑下するのよ。私はあなたを誰とも比較する気はないわ。意味がないもの」
「そう……だな」
アリナは眉をひそめて悲しい表情を浮かべた。
「私、あなたを初めて見たときに思ったの。『この人のこと知りたい』って。とても不思議だったわ。あなたのこと何も知らないのにどんどん惹かれていったわ。そしてあなたの記憶を失う前の私はあなたに恋してたことを知った。想像じゃないわ。ノートに書いてあったの。『どうしようもないこの気持ち』って。だから運命だと思った。記憶を失ってもまたあなたと出会って、またあなたに恋した」
目頭が熱くなるのを感じた。俺は目を見開いて抵抗する。
「きっとあなたは、あなたを知る私から聞きたかったんだと思う。あなたの立場だったらそう思うもの。でもね、あなたを失った代わりにすべて思い出した瞬間、見える世界が変わった。今まで通りの私だけど考えも見え方も変わったのよ。記憶喪失ってそういう感じ。だからこそ、あなたに伝えたかった。私があなたの記憶を取り戻す前に、今の私で伝えたかった。好きって。本当にごめんなさい。どうしようもないのよ、本当に」
俺は声が震えないよう気を付けて口を開いた。
「ごめんな、アリナ」
「どうして?」
「ずっと辛かった。アリナとの思い出を話したくて、話したくて……でもわかるだろ、無駄なことなんだ。だからいっそ出会わなければよかったって思ったこともある」
ひどいことを言っていると自覚していたが話すしかなかった。
「毎日顔を見るたびに期待した。戻ってるかなって」
「ごめんなさい。私、あなたのことまだ思い出せないけど、でもあなたのことが好きなのは本当よ。あなたから離れたくない」
アリナは俺の手に触れようと手を伸ばした。
しかし俺が喋ったことで触れる寸前で止まった。
「夏休みが終わる頃に返事をする。約束だ」
「……本当に?」
「あぁ。絶対に伝える。ジョークじゃない」
「ありがとう。ずっと待っているわ」
手を引っ込め、アリナは鞄を肩にかけた。
俺も彼女をずっと待っている。いつまでも。
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