第7章 あなたが眠る物語

第109話 聞きたかったことば

 人生失敗した、という言葉がある。


 誰もがどこかで聞いたことのある言葉だ。それは取り返しのつかないことをした時に使うことがしばしばである。仕事に失敗したり、夢が夢で終わったり、人生計画が狂ったり。その人生においてもう二度と巡ってこない『何か』に藁にもすがる思いで我々はその言葉を呟く。

 俺たち十七歳、十八歳も例外ではない。

 大学受験に就職活動。その結果次第で俺たちもその絶望をぽつりと呟くことになる。

 俺もその失敗の当事者になりうるかと考えたことがある。受験に落ち、浪人という道を選んだとき俺は『人生失敗した』と吐露するだろうか。

 

 答えは、ノーだった。


 理由は自分が何を人生に求めているかわからないからだ。

 将来有名になるとか、医者になるとか、資産家になるとか、そういった人生における最大目標、最終地点がまだ想像できないでいた。だから失敗を思い描けなかった。だが死に際に思うかもしれない。何もない人生だった、と。

 それに焦りを感じる自分もいる。何かを成さねばならないという使命感に駆られるのだ。

 そして何のために産まれてきたかという人類究極の問いにたどり着く。それがわかれば俺にも目標ができるのだろうか。


「彗くんの進路は変わらず、大学受験ということでよろしいですか」


 先生が母に確認を取る。

 最後の進路希望調査。母を交えて三者面談をしている最中だ。


「はい、お願いします」


 母がそう答える。俺が決めたわけでも母が受験を強いているわけでもない。自然とそういう流れになった。両親が大卒なのもあってそういう雰囲気なのだ。

 俺も嫌なわけじゃない。名前とお金があれば受かる大学は除外して、ちゃんと評判のある大学に入ればそれだけで人間性にかかわらず評価されるし就職面では圧倒的に強みがある。より高度な学びの場で成長できる機会はそうそう巡ってくるものじゃない。両親に保護されているからこそ享受できる今だけのチャンスだ。

 しかしそれしかわからない。というのも求めているものが俺にはないからそういった薄っぺらいメリットしか思いつかないのだ。


 三者面談が終わり、母は「勉強頑張ってね」と一言残して帰っていった。居残り勉強をしようと思って母には先に帰ってもらったのだ。

 物寂しくなった教室に戻り、机についた。


「あなた」

「その『あなた』ってやめんかい。俺はお前の夫か」

「ごめんなさい。あなたの名前言いなれてないから、つい」

「以前のお前もそうだったよ。俺の名前は数回ぐらいしか聞いてない」


 アリナも放課後残って勉強していた。彼女はイヤホンを耳から外し、ペンを置いた。


「あと半月で夏休みね」

「そうだな。受験生の時間の流れは早すぎる」

「夏休みは予定あるの?」

「勉強」

「意外と真面目なのね。てっきり遊び惚けるのかと思っていたわ」

「そういうお前は何かあるのか? 海に行ってファンサービスかね?」

「私の水着姿で興奮する人なんていないわ」

「興奮を通り過ぎて拝むかもしれんな」


 最後の夏なのだから遊ぶのもいいが、そこまでアクティブじゃない俺は、例年通りのほほんと勉強と休憩と腐敗を繰り返す毎日を送ることだろう。

 

「私もあなたと同じかしらね。勉強して、時々外出して、時々あなたのことを思い出して」

「最後のは要らん」

「そうでもしないとあなたの記憶を取り戻せないもの。言ったでしょう? あなたが帰宅部を辞めてもらったのもそのためなんだから」

「まぁそうだが……」

「つまらない夏になりそうだわ」

「しょうがない。受験生だもんな」


 彼女はため息をついて机に伏せた。俺はよじっていた身体を前に戻して勉強する準備を始める。


「つまらなくなりそうだわ」


 またアリナが不満げに呟く。はいはい無視無視。はいはいサインコサインタンジェント。

 

「寂しいわ」

「薔薇が寂しがるな。何のための棘だ」


 その日の放課後はアリナの一言一言で集中できずに終わった。







「つまらないわ!」

 

 自販機に小銭を投入しているときにアリナは現れた。

 この平和な昼休み時間になぜ俺を探し出して、退屈への不満をぶつけに来たのだろうか。あれか、日羽アリナの憂鬱か。


「何がつまらないんだ。最近おかしいぞ」

「つまらないのっ!」


 次はぷんぷん怒り始めた。

 とりあえずトマトジュースを買わなければ話が始まらないどころか宇宙が始まらないので小銭を投入し、ボタンを押す。ガコンッ、とトマトジュースが落ちる音がした。そう、俺ほどのプロフェッショナルになると缶の音でわかるのだ。不思議だろ? なぜわかるかって? この自販機でトマトジュース以外を買ったことがほとんどない。


「あっ、おい返せ」


 アリナにトマトジュースが取り上げられた。

 眉間にしわを寄せて俺を睨む彼女を見て毒舌薔薇を連想した。そういえば彼女はこういった顔をよくするのだった。


「何が不満なんだ。というか余裕が無いように見える」

「そうかしら」

「そうだろ。返してくれ」

「やだ」

「フゥゥゥウウッ! お兄ちゃんは武力行使しちゃうぞ!」


 そう言って指を波に揺れるイソギンチャクのように動かして威嚇すると気味悪がって返してくれた。やはりこういう時はキモイことをするに限る。


「……わからないけれど」

「ん?」

「わからないけれど私、焦ってるのよ」

「受験か?」

「それもそうね。でも大きなところは違うわ。多分、あなたのことよ」

「俺?」

「あなたのこと、思い出せないんじゃないかって。すごく焦ってるの」


 彼女は俯いてスカートを握りしめた。なぜにそこまで焦っているのだろうか。彼女もわかっているだろうが、一生思い出せない可能性の方が高い。思い出すにしても何年もかかるだろうし、焦っても意味がないことはわかっているはずだ。


「高校時代で思い出せるなんてはなから期待していない。思い出すタイミングが高校じゃなくてもいいだろ。死ぬわけでもあるまいし」

「それはわかっているわ。でも違うのよ。もっと違うことで私は焦ってるのよ、きっと」

「焦りってことは時間との勝負ってことか? 何と戦ってんだよ。火星人か?」

「わからないわ。でもとても大事なことだから焦ってるのだと思う。女の勘よ」


 ふぅ。

 オーケー、これが荒唐無稽ってやつだ。

 思春期には誰でもあることだ。伝えられない気持ちで苦しむのはみんな同じだ、アリナ君。ちょっとばかり卒業が遅れているがね。そういう時は優しくするのだ一番だ。承認欲求を満たしてあげなくては。


「わかるぞ、わかるわかる。すごくわかる」

「わかっていないわ」


 誰か助けてくれ。

 どうしようもないので俺は彼女のことを意思疎通不可能な地球外知的生命体として認識を改め、教室へと誘導しながら話を適当に合わせた。その間俺は地球の歴史を少し教えてやることにした。海から陸へと生命が根を伸ばし、そして地を走り、とてつもなく大きな生物が地上を支配していた。途方も無い時間が過ぎた頃、大きな隕石が落ちてその種は滅びたが哺乳類の時代がやってきた。知能の高い僕たち人間は仲間を増やし、火を創造し、言葉を会得した。文明を作り、科学を発展させた。そして地上で支配者となり、地球の番人になったのだと説明したが何を言っても無駄だった。やっぱりこいつは人間の姿をした異星人らしい。丁重に扱おう。

 

「はい座ってください。ここが君の椅子ね。チェアね、チェア。英語わかる? ドゥーユーノゥ、イングリッシュ? ディスイズアペン。ハンバーガー? コンピューター? ダメか、どうやら知能はジャガイモ二個分らしい」

「例えがおかしいわよ」

「オゥ! ユー、ジャパニー――間違った、お前日本語通じるのか」

「もういいわ。私の勘違いってことでこの話は終わりにしましょう」


 話が終わるのならそれでいい。カオスアリナと向き合っているぐらいなら、質問してもすぐウェブで検索を勧めるポンコツAIと喋っていたほうがまだマシだ。

 後ろの席の真琴が「夫婦喧嘩やめろよ~」とからかってきたので「帰宅部に負けたバド部真琴くんは一生鳥の羽でもむしってろ」と全国のバドミントン愛好家の皆々様を敵に回す台詞を放った。


「夫婦……?」


 アリナが背筋を伸ばして真琴を見る。真琴は本能的に恐怖で震えた。グッバイ真琴。葬式はちゃんと参加してやるぜ。

 しかし真琴は殺害されなかった。アリナは口角を上げて微笑んだ。


「えっえっ、ど、どういうこと――」


 女神降臨で挙動不審になる真琴。

 アリナはにっこり笑って俺に向き直った。悪い予感しかしない。


「彗。ずっと思ってたことがあるの。私と付き合ってください。本当に好きよ」

「は?」


 俺は意味が分からなかった。ムードもクソもなかったが、それはいわゆる『告白』だった。

 だがこうも簡単にアリナが告白するものだろうか。だからこれはフェイクだと思った。何かを誤魔化すためだと。でも、もしかしたら本当かもしれない。現にアリナは頬を紅潮させて、胸に手を当てている。余計に混乱する。

 俺が考えすぎなのかもしれないし、ひねくれているからかもしれない。宇銀の言う通り、愛は理論を超越するのか? 


「いや、は? え?」


 考えがまとまらないためそんな反応しかできない。

 嬉しい、というより疑問の方が大きい。どういうことだ?


「ピギャァァァアアアオボロロロロ!」


 ムンクの叫びを彷彿とさせる真琴の悲鳴が響いた。

 クラスの女子もきゃーとかひゅーひゅーとか言って騒いだ。

 アリナを見つめる。彼女はまっすぐ俺の目を見て回答を待っているらしい。どういうことだ、何が起こっている。なぜ、当然の帰結だと言わんばかりにクラスメイトは騒ぐのだ。そしてなぜ俺はそれほど嬉しくないのだ。

 

「……ちょっと待ってくれないか」


 絞りだしてやっと言えたのがそれだった。

 

「えぇ。待ってるわ」


 アリナは目を細めて微笑んだ。

 畜生、どういうことだ。

 

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