第103話 開戦

 私が老いて朽ちるまで、私の憎悪は消えることなく燃え続けるだろうと思っていた。

 死ぬまで。私の意識が昇華して何処かへ旅立つその瞬間まで私は瀬戸山明、父を許すことはできないと記憶を取り戻してさらに意思は強固なものとなったはずだった。


 その私がなぜ父の墓に訪れようと思ったのか。


 電車を何本も乗り換え、父の実家近くの霊園に到着した頃にはもう午後を回っていた。

 休日だからだろうか。思った以上に墓参りに来ている人がいた。ご年配の方が多く、一人で来た女子高生の私はさぞ浮いていることだろう。

 母とは墓参りについて一度も話題に上がらなかった。多分母はその気はなかったと思うし、私の心境を考えて口にしなかったのだろう。私もあえて父の影が見え隠れする話題は一切しなかった。だから今回は内緒で来ているのだ。


 瀬戸山家の墓はすぐ見つけた。それを前にして私は立ちすくんだ。


『本当に父はここにいるの?』


 その疑問が胸に渦巻く。事実、父は亡くなったしこの目で見た。しかしふらっと現れてまた私たちに手を出してくるんじゃないかと日々不安を感じていた。そんなことはありえないとわかっていても私の身体は言うことを聞いてくれなくて、いつも敏感に人の影に反応した。


 父を許すことはもうできない。許すつもりもない。だからこの場に立って「死」という逃亡を遂げた父を怒鳴りつけるかと私は思っていたのだがおかしなことに感情は高ぶらなかった。

 だからこそ混乱した。本当はもう許しているんじゃないかと。


「そんなわけないでしょ」


 父の墓に向かって呟く。


「あなたがたとえ懺悔しても私たちは癒えないのよ」


 無駄な言葉だった。

 私がどれだけ騒いでも答えは出ない。霊となって枕元に立つこともありえない。

 ならどうして私はここにいるのだ。

 自問自答の末に出た答えは彗のためだった。彼を忘れたのは父の死だったから、父の死を見つめれば彼を思い出すんじゃないかと無意識の領域下で考えたんだと思う。根拠なんてゼロだけど。

 彼がどんな人かはだいぶわかった。

 でも既視感を覚えるようなことは残酷なほどワンシーンもなかった。彼の特徴的な口回しに懐かしさを感じることなんて無かった上に寧ろ新鮮だった。ダメだなぁ、思い出せないなぁ、と思う日々が続いてもがんばった。

 

 ふと、「思い出さなくてもいいのでは」と悪魔が囁いたこともあった。


 今のままでいいじゃん。だって生活に何の支障も無いじゃん。たった一人の男の記憶をなくしただけじゃん。

 理屈で凝り固まった私の頭ではノーを突きつけにくかった。

 でも時々、彼は悲しい表情を見せるのだ。すぐいつもの真剣かふざけているかわからない表情に戻るけれど私にはわかる。私の棘の無い言葉でも彼は傷ついている。それが私にとても重く響くのだ。


 そして彼に辛い思いをさせていることが一つある。

 私のノートには彼にバレンタインチョコを渡したと記述されていた。残念ながら記憶には無いけれど渡したのは確実だ。

 でもホワイトデーのお返しはもらっていない。それが彼に辛い思いをさせている一つだ。

 彼は狂気を羽織っているけれど中身は真面目だとわかっている。その性格から想像するに、彼は今の私に渡しても意味が無いと思っているか、私に余計なことで気を煩わせたくないと思っているかのどちらかだろう。もしかしたらどちらもかもしれない。

 

 


「はい、榊木です」


 大会前に彼のモヤモヤを少しでも払拭できればと思って私は電話した。でもいざ彼の声を聞いて、何を言おうか全部飛んでしまった。彼の声に揺らぎが無かったからというのもあるし、父の墓の話や彼が気にしているであろう事柄を直接真面目に彼に話すことはちょっぴり恥ずかしさがあったというのもある。

 それに彼はもっと気にするかもしれない。


「もしもし。榊木ですけれど。日羽アリナさん聞こえてます?」


 未だに彼の記憶が一欠片も思い出せていないことを伝えてもやっぱり逆効果だ。


「ごめんなさい。聞こえているわ」

「で、何の話だ?」

「そうね、忘れてしまったわ」

「なんですと?」

「明後日の体育祭、がんばりましょうね」

「お、おう。優勝するぞい」

「もちろんよ。じゃあ、また明日」






 

 なんだったのだ。忘れてしまったとはなんだったのか。

 何も無いならいいのだが、どう考えても何かあったからあんな漠然としない切り方をしたのだろう。


「なにで優勝するの?」


 宇銀が俺の短いやり取りを聞いてそう言った。


「部活対抗リレー」

「兄ちゃん部活入ってないじゃん」

「あーあー聞き飽きたわその台詞。しかしだな、人選は最強だぞ。世界を五回滅ぼせる」

「へ〜すご〜い」


 絶対この子そう思ってないわ。だって話してる人と目を合わせずスマホの画面に釘付けだもんね。兄ちゃん悲しくて五臓六腑腐り落ちそうだよ。


 翌日、アリナは至って普段通りのアリナだった。昨晩の電話の件については触れず、明日の体育祭について少し話す程度で鶴や華彩とおしゃべりしていた。

 俺も普段通りに過ごした。授業を受け、昼食を摂り、真琴と話し、授業を受け、帰る。嵐の前の静けさというべきだろうか。とにかく実に平穏な日だった。

 やはり訊いておくべきだっただろうか。言いづらいことでも言わなければならないこともある。こちらから歩み寄った方がよかったのかもしれない。






 そして体育祭当日。

 雲一つない晴天下で俺たち一組はブルーシートの上に座っている。開会宣言が終わり、持ち場に戻った俺たちは最初の戦いに向けて精神を高めている最中である。

 乾燥した地面に風が吹き、砂が舞い上がった。そして試すように俺の肌を撫でる。

 本番だ。部活対抗リレーは午後一発目なので午前中は遊んでいればいい。そうだ、遊んでおけ。体育祭は運動能力に長けている者がここぞとばかりに輝かしいスマイルを女子に振りまきながら楽しむ場だ。せいぜい黄色い声で耳をやられておけ。下剋上が始まるぞ。おっと、帰宅部に優劣はないのだった。


「彗くん。僕たち勝てるんでしょうか……」


 バーサーカー・マサオが固い地面なのに正座をして俺にそう訊いた。


「安心しろ。もちろん勝つことも大事だが何を得るかが一番重要だ。どんな結果になっても得るものは必ずある」

「そうですね。前向きにいきます」

「それでいい。午前中の種目はどうでもいいんだ。ハムスターの戯れみたいなもんだ。温存しとけ」


 そんなことを話していると綱引きのアナウンスが流れた。


『三組と五組の各学年の方は入場門にお集まりください』


 綱引きのルールは変わりないがチームは各学年混合である。一年、二年、三年、のそれぞれの組をまとめたのがチームとなる。というのもこの体育祭のチームはそういった振り分けになっており、『ナンバーワンの組』を争う形式となっている。本校は五組まであるので五チームで争う。

 ぶっちゃけどこの組が優勝してもビリでもどうでもいいというのが本心である。メインは対抗リレーだ。なので三組のインテリジェンス・タカゾウの身を案じて俺も入場門に行った。

 鷹蔵を探すのには苦労したが全員が揃う前に見つけることができた。


「よう、鷹蔵。体調は?」

「問題ない。心拍数も安定している。とても快調だ」

「それはよかった。いいか、綱引きでケガとかするなよ? 俺たちは代替不可能なオンリーワンだ。気を付けてくれよ」

「心配無用だ。綱引きというのは力めば力むほど外傷を負いやすい競技だ。スタートと同時に僕は綱を触ることだけに専念する。総合的な力量を見れば僕が本気を出しても0.001くらいのパーセンテージしか占められない」

「それは雑魚すぎる」

「だから午後に支障は出ない。わざわざ激励に来てくれたことに感謝する」


 一礼して彼は綱のもとへ歩いて行った。この場に凛音がいたら「がり勉君がかっこつけても女子は逃げてくだけだよ」と辛辣な言葉を投げていたに違いない。

 彼の無事を祈りつつ、俺はブルーシートに戻った。

 胡坐をかいて、一本の線になった三組と五組を眺める。

 綱引き審判のプロっぽいご年配のおじいちゃんが笛を鳴らしながら綱の位置を調整している。確か去年もいた気がする。あのじいさん一体何者だよ。


『レリリリリリリリッッッファァアイッッ!!!』


 舌巻きすぎな合図で三組と五組はがっちりと綱を掴んで引っ張りあった。

 獣の雄叫びのように両チームともリズムを合わせて腰を低くし、仰け反る。腕で引かず、全体重を綱に乗せるようにして相手に負けぬよう引っ張り合う。じゃりじゃりと砂の音がして、砂煙が彼らの足元で漂う。

 俺は持参した双眼鏡を手に鷹蔵を探した。彼はすぐに見つかった。ジリジリと五組が優勢になりつつあり三組の全員が歯を食いしばって奮闘する中、鷹蔵だけがまるでクーラーの効いた室内にいるかのようなリラックスした顔で綱を握っているのだ。

 確かに怪我の忠告はしたがあれはもはやただ「存在」しているだけだろう。道端に石ころが、ある。空に雲が、ある。綱引きに鷹蔵が、いる。マジでその程度。

 もっと力を入れろと俺は念を送った。三組のみんなに失礼だぞ、と言ってやりたかったが双眼鏡の中の彼は目をつぶって、ひたすら瞑想にふけっていた。彼は何を考えているのだろう。虚数だろうか、極限だろうか。

 結局、三組は負けた。


「大丈夫だったか」


 退場してきた鷹蔵に近寄ってそう声をかけた。


「外傷等無しだ。コンディションは完璧に近い」

「だろうな。お前、顔が悟りに近かったもんな」

「僕の顔はそう見えていたのか?」

「一人だけ場違いだったからな。何考えながら綱掴んでたんだよ」

「朝飯の納豆だ。ネギを入れるべきだった」

「わけわかんねーよ」


 

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