第51話 涙の所以
アリナの母親は薄く目を伏せた。
娘の衝撃告白にもっと吃驚したり狼狽えるかと思いきや意外にも反応は薄かった。
アリナは言い間違えたかなと顔をしかめて俺を見る。奇妙なことを言ってはいるが間違ってはいない。打ち合わせ通りの内容だ。もし俺が子を持つ親なら「とうとう中二病を発症する時期が来たか」と笑い飛ばすだろうがね。
「そういうことだったのね」
「わかって……たの?」
「いいえ。でも人が変わったのは気付いてた。娘のことですもの。何かがあったのはわかっていたわ」
アリナの母親は微笑みながら、それでいて悲しげな表情も浮かべて話した。傷心が垣間見え、あまり見たくない表情だった。
一方のアリナは困惑していた。返す言葉が見当たらないというような状態で目が泳いでいる。しっかりしろ、と俺は念を込めてアリナの足をつついた。
「……いつ頃からか覚えてる?」
「そうね……」
目を伏せて数秒黙り込む。
「小学六年生から中学二年生の三年間は私の知るアリナではなかったわ。でもアリナなのはわかってる」
「ちょ、ちょっと待って。じゃあその三年間以外は私って言いたいの?」
「違うの?」
「私は中学三年生以前の記憶が一切無いの。小学六年生以前ももちろん」
母の観察眼というか第六感はとても鋭い。きっとアリナの母親は真実を言っているはずだ。そう信じられる母の力強さというものがオーラとして現れている。
アリナの記憶がない話は残酷すぎる話だ。一人娘と過ごしてきた日々が娘にとって無かったことになっているのだ。思い出して笑いあって、時に悲しんだ記憶はもう娘の頭には無い。
崩れるようにアリナの母親はほろりと涙をこぼした。
「ごめんね、本当にごめんね、アリナ……」
「ちょっと、お母さん。どうして泣くのよ。泣くところじゃないでしょ。あれ……」
そういうアリナも涙を流し始めた。二人してしくしく泣くので混沌の世界に放り込まれたような気分になった。何が起こってるんだこの空間で。誰か説明してくれ。
これより先に話が進まないので俺から切り出すことにした。
「アリナ、自室で落ち着いてこい。そしたら戻ってこいよ」
「……うん」
アリナは鞄を肩に下げ、立ち上がる。
「ごめんね」
去り際に彼女は俺の耳元に肉薄してそういった。
アリナがリビングから出たのを確認し、俺は切り出した。
「単刀直入に話します。自分はアリナさんの生活態度を改めるためだけに付き添っている者です。決してお付き合いしているとかそういう仲ではありませんので安心してください」
「ごめんなさいね、突然泣いてしまって。アリナは学校ではどうなの?」
「濁して話す気はないので正直に話します。アリナさんは問題児です。酷い言葉遣いで相手を拒絶するんです。極度の人間嫌いというか誰も寄せ付けない。寄ってくる者は徹底的に排除する、そんな感じです」
「それは……本当なの?」
「はい。脚色していません。自分は先生から頼まれてアリナさんの手助けをしています。理にかなっているのかはわかりませんがだいぶ落ち着きました。僕が訊きたいのは、アリナさんの過去です。何があったんですか? 言いづらかったら本当に話さなくて結構です。こちらも親子の関係を乱す原因を作りたくありません。できればでいいです」
「アリナの過去、ね。あの子は忘れてしまってるのかしら……いえ、その方がいいのかもしれないわ……」
「僕は二人のアリナさんと話しました。一人はあなたが知る今さっき会話したアリナさん。もう一人は小学六年生から中学二年生の期間に主導権を握っていたアリナさん。
その二人に共通していることは『小学六年生以前の記憶の欠落』です。先程お話したことから今のアリナさんは生まれてからずっとお母様の傍にいるアリナさんだとわかりました。確証はありませんが親の勘は真実と紙一重だと僕は思っていますので。当のアリナさんは自分が最近生まれた人格だと勘違いしているようですが」
アリナの母親は悩んでいる。話すべきか話さないで心にしまっておくべきか。手に取るように考えていることがわかってしまう。だから俺の問いで苦しんでいるのも痛々しいくらいわかる。
避けたかったが訊かない限りアリナは変わらない気がした。いつまでも毒舌薔薇と呼ばれ続ける。
申し訳ない気持ちを押し殺して再び問う。
「この場で言いづらいのであれば紙に書いてもらっても構いません。口外は絶対いたしません。今までもアリナの精神状態を他人に漏らしたことはありませんでしたし、これからもです。後日アリナを通してでもいいので自分に渡してください。郵送でも構いません。送料は自分が払いますので」
「大丈夫、アリナに書いて渡します。封筒に入れて読めないようにして渡すわね」
「くれぐれも無理に書かないでください。アリナさんとあなたの身が第一優先です」
「ありがとう。彗くん、アリナをよろしくね」
「はい。いい方向に転がるよう頑張ります」
「でもどうしてそこまでアリナに?」
どうしてだろう。アリナが好きかと質問されたら好感はある。面白いやつだし話していて飽きない。でもそれがしたいためにアリナの側にいるのとはまた異なる気がする。
多分、俺は人の役に立ちたいんだと思う。ずっと無気力な学校生活を送っていたから今が楽しくてしょうがないのだ。
テレビの前で死体のように寝転んで妹から揶揄われる日々が嫌いではないが、放課後に誰かと過ごして誰かと笑うことがとても有意義で美しい時間と悟ってしまった。
かつてない価値観に出会い、俺の中で革命が起きた。それは全て日羽アリナのおかげだった。
正直に言おう。俺はアリナが好きだ。だから結果はどうあれ彼女の役に立ちたい。シンプルでどこまでも洗練されていて純粋な感情だ。
「誰かのために力になりたい、じゃ、だめですかね」
「ふふ。素晴らしいことよ。アリナはいい人に出会ったわね」
アリナに別れを告げず俺はそのまま日羽家を出た。
とても清々しい気分だった。本当の自分に気づけた。それは俺にとって大きな躍進だったと言える。
後日、アリナから封筒を手渡された。
中身はアリナの母親からのメッセージ。
恐ろしい内容で読まなければよかったと後悔した。
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