第52話 殻の中で少女は時を待つ
日羽家を訪れた翌日。
昼休み。真琴と食事会中、俺は昨日言いたかったことを真琴に告げた。
「真琴よ、俺との食事会より流歌と一緒に飯食った方がいいぞ」
「俺もそうしてみたいけど勇気がいるんだ。流歌は流歌で友達と食べてるし」
「絶対流歌はお前と机を合わせて食べたいと思ってるはずだ。思い切って言ってみろよ」
「なんてさ」
「ランチでもどうだい?」
「彗、それひどい」
「冗談だ。とにかく誘ってみろよ。誘われるだけでも嬉しいはずだぞ。付き合えた時点で絶頂かもしれんが」
「でもなあ。緊張しちゃうよなあ。変なふうに食べてないかなーとか気にしちゃって味とか感じない昼食になる気がする」
「乙女かお前は」
お淑やかな流歌が誘う可能性は低いからお前から行くしかないんだよ、真琴。
まぁこれから距離をどんどん縮めていけばいいさ。頑張れよ。
そしてまたアリナが教室に入ってきた。
視界に映るクラスメイトが入り口の方に顔を向けていたので見ればアリナが立っていた。クラスメイトが「彗ならいるよー」と声をかけた。
二日連続で来るなんて明日は天変地異だ。
ズカズカと一直線に俺の元に来た。
「これ、渡してってお母さんから言われたんだけど」
茶封筒だ。開け口はノリで貼り付けられている。開けられた形跡もない。
「何だろな。ありがとう、受け取っとく」
俺はとぼけた。これが送られて来ると知っていたような対応をしたらアリナはしつこく問いただすだろうから塩対応ということにする。
「それはそうと何で勝手に帰ったのよ」
「親子水入らずで話してほしかっただけだ。俺がいても気まずいだろ」
「べ、別にあんたなんかいなくても」
「ツンデレキャラやめろ。真琴が驚いてる」
真琴はエイリアンにでも遭遇したかのように畏敬の念を顔面で全力で表現している。つまり、恐怖で顔を歪めていた。
「日羽ってそんなキャラだったっけ……?」
「誰、あんた。馬人間だっけ」
「うぐ、フラッシュバック」
過去の苦い記憶を思い出した真琴は机に突っ伏して死んだ。
「アリナ、今日も特にやることはない。自由だ」
「そ。ありがとう」
「なぜ感謝?」
「き、昨日のことよ」
ぷいっと視線を逸らして帰っていった。風のように消えていった後に残ったのは茶封筒と真琴の死体。俺は茶封筒を持って教室を出た。真琴の葬儀には参列しようと思う。
中庭のベンチで茶封筒を開けた。
中には一枚の紙。文の始まりは『スイ君へ』だった。そういや漢字の説明はしていなかったな。
スイ君へ。
筆を取るのはとても迷いました。
会ったばかりのスイ君に話せる自信がありませんでした。ごめんなさい。ですので、こうして文字に起こすことにしました。
この内容は秘密にしてください。誰にも言わないでください。
アリナは離婚した夫に虐待されてました。
私がモデルの仕事で中々家に帰れない間、アリナは父親に暴力を振るわれていたのです。私は全く気が付きませんでした。本当に申し訳ないことを娘にさせてしまったと今でも自責の念で胸が潰れそうです。いっそ潰れてしまいたいほどに。
虐待は小学4年生頃から始まって、学校の先生が虐待に気づき、通報したことで判明しました。それが小学5年生が終わる頃でした。母親失格です。泣いて抱きしめて謝りました。しかし既に娘の目に光はありませんでした。
親権は死に物狂いで私が取りました。夫とは離婚し、旧姓の「日羽」に復氏しました。
父親がいなくなっても娘の光は消えたままでした。そして小学6年生になって間もない頃、異変が起こり始めました。アリナの性格が波のように変わるのです。元気一杯の明るいアリナになったり、今のような気の強いアリナだったり。
前者のアリナは偶にスイッチが入ったように現れます。ほとんどは後者です。今までのアリナです。明るく元気なアリナは記憶が曖昧でした。齟齬があるので心配しました。
そして小学6年生後半から中学2年生が終わる頃まで虐待など全く覚えていない元気なアリナでした。まるで虐待そのものが無かったかのようでした。私は怖くて訊けませんでした。ちょっとしたことでガラスのように割れてしまう気がして覚えているかなんてとても訊けません。
私は臆病者で何もできませんでした。
娘が中学3年生になって、本当に何でもないある日、仕事から帰宅するとアリナは私の知る小学6年生以前のアリナがいました。表情と振る舞いと喋り方で明白にアリナが戻ってきたとわかりました。その日アリナは体調不良で早退したそうです。
その日以来、あなたも知っているアリナです。今日アリナから二重人格の話をされて全てが合致しました。スイ君が帰った後、その話をして娘は最初私が母親であることがわからなかったそうです。放任していた私への罰だと思っています。父親の暴力も話しました。
記憶を失う前の自分が書き残したノートを頼りに今まで過ごしてきたのを聞きました。
病院に行くことを勧めましたが娘は「絶対に嫌」と言って聞いてくれませんでした。
これが娘の過去です。
娘の心が割れてしまったのは虐待が原因です。私は本当に馬鹿な女でした。
泣くことしか私はできませんでした。
勝手すぎるお願いは承知の上ですがどうかアリナと仲良くしてあげてください。
読み終えて俺は涙腺が緩むのを感じた。どうにか堪えようとしたが計り知れない怒りが沸き起こり、一粒の涙が頬を伝った。
二重人格の原因はアリナの母親が言うように虐待だろう。アリナが震えて暴力に耐えていた姿を想像すると全ての内臓が燃えるように熱くなる。一人で大の男から殴り蹴られじっと黙って耐えているなんてあまりにも理不尽すぎる。
記憶の忘却の正体は限界を超えた苦しみの中での自己防衛だろう。アリナが過去を消してしまっているのはそういうことだった。耐えられない、辛い、これ以上は精神が崩壊する。そんな崖っぷちの精神状態。
地獄のような世界でアリナは記憶を消すことを選んだ。
もしタイムマシンがあれば俺は未来を変えてでも小学生のアリナを救うために行動していたと思う。例え未来で俺とアリナが出会わなくても。
これからどうする。そう自問する。
アリナの過去を知って俺は何ができる。
何を変えられる。
最初に思いついたのは深層にしまい込んでいるトラウマの排除だ。忘れてはいるが影響は受けている。それがアリナの毒舌に結びついているはずだからだ。
そのためにまずはもう一人のアリナに相談する必要がある。
俺はそこから始めることにした。
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