第6話 有らぬ誤解

「彗、噂は本当か?」


 トイレ休憩に神妙な顔で高根真琴が飛んできた。


「俺が本当は人間じゃないことか?」

「なんだそれ。そうじゃなくてさ」


 真琴は手をくにゃくにゃ動かして何かを伝えようとしている。もしくは何かを捻り出そうと頑張っているように見える。漏れそうなら早く行けばいいのに。それともそういう性癖なのだろうか。


「なんでモジモジしてんだ? 産卵前のウミガメか、お前は」

「彗ってさ、今誰かと付き合ってる?」


 小声で真琴はそう言った。


「生憎俺の隣は空席だ」

「だよな、だよなぁ!」


 安堵の息を漏らした。だからこいつは俺に気があるんじゃないかと思った。すまないがゲイは受け付けていない。


「俺に彼女がいないことがそんなに嬉しかったのか。安心しろ、俺は一生独り身だ。榊木家の遺伝子は妹に頼んだ。それを頼んだら十発ほど殴られたがサカキ遺伝子の安泰は確保されたと思う」

「違う! 彗が日羽と付き合ったっていう噂が流れてたんだよ。日羽が彗みたいな変人と付き合うだなんて信じられなくて……」


 そんなことだろうとは大体予想はしていたが本当だったとは。噂の恐ろしさを痛感した。

 時に噂は事実になりかねないから油断できない。噂を聞いた者が「現実」として他人に流すことが怖いのだ。枝分かれしていって、最終的に混沌とした情報に変貌して返ってくる。


「アリナと俺が、か。情報の発生源はわかるか?」

「噂だから詳しくはわからない。本当に付き合ってないんだよな?」

「ああ。最近初めて喋っただけだ。それで交際疑惑がかかるなら体に触れた瞬間、結婚ってレベルだぞ」

「そうなのか……いやあ焦った焦った。彗が血迷ったのかと思って心配したぞ」


 意外と真琴は深刻に捉えていたらしい。彼は一度アリナに告白して奈落の底に突き落とされた過去を持つため俺を気にかけたのだろう。

 おおよそテニスの件と校門まで二人で歩いたところを目撃した者がそう噂したんだろう。特に俺にはダメージはないがアリナはこう激怒するはずだ。


『なんであんな下水道の内側みたいな顔した奴と付き合わなきゃなんないのよ! あなた社会的に抹消されたいの? だったらホワイトハウスにダイナマイトでも投げ入れれば? あんなのと付き合うならカナブンの幼虫にキスしてた方がまだいいわ。それ以上噂を流すようならあなた明日の朝――ベッドで冷たくなってるわよ』


 とか喚いていそうで俺はそっちの方が怖い。

 流石に二十歳になる前に逝去はご勘弁願いたい。だんだんと不安になってきた俺はアリナのクラスを様子見しようかと思ったがもうトイレ休憩は終わりを迎えようとしていた。


「わかった。真琴、ありがとな」

「手遅れじゃなくてよかった……」


 おそらく既に手遅れの状態に近いので俺は運命に任せることにした。次の授業は政経だ。政治を学んで俺の運命を変えようじゃないか。たった一人の男が世界を変えることがある。革命家チェゲバラはそれをやってのけた。女子一人の心象を色変えするくらいなら俺でもできるはずだ。


 終始、俺は授業に集中できなかった。

 隣のクラスから未知の波動を俺は第六感でずっと感じていた。俺にそれを感じ取る器官が存在していたことにも驚いたが、アリナの怨念の強さには畏敬の意を表そう。ま、全部思い込みだが。

 そんなわけで俺は覗きに行くことにした。

 案の定、廊下に出ると「ほら。あいつあいつ」と顔を寄せ合って俺を目で示す女子たちが見受けられた。何食わぬ顔で俺はそばを通り過ぎ、隣クラスのドアが全開だったので俺は廊下から覗いた。

 すると物凄い形相で俺を睨みつける生徒が一人いた。俺にGPSでも付けてるのかわからないが一瞬で見つかった。アリナは席を立たないものの片手に持った文庫本には目もくれずに俺を眼力で殺す勢いでガンを飛ばしていた。

 俺は死にたくないのでその場を去ることにした。

 だが振り返ると白奈が立っていた。上目遣いでじっと俺を見る。


「どうした」

「いや、うん」


 白奈は目を逸らして教室に入っていった。これは面倒なことになりそうだ。



 授業の終わりを伝えるチャイムが校内に響き、生徒たちは口々に「終わった〜」と言葉を漏らした。

 掃除が始まるので俺は廊下に出てロッカーから箒を取り出した。そして教室に戻ろうと振り返ると同じく箒を持ったアリナがこちらに近づいてきている。長い髪を結んで左肩から垂らし、武器のように箒を右手で握りしめている。

 俺はそのまま教室のドアとの距離五メートルを詰めようと右足を出した。アリナの歩行スピードから分析するに交錯するのはドアだ。

 俺とアリナの靴音が鮮明に聞こえた。目が合い、宙に火花を散らす。こいつ、俺をヤる気だ。シマウマを狙うライオンの目をしてやがる。

 俺はあと二歩というところで止まった。それに反応してアリナも止まった。互いの眼球を睨め付ける。そばを通り過ぎた生徒らが俺らを好奇の目で見た。そりゃそうだ。俺はいつ攻撃されてもいいように胸の前で箒が三等分になるように持ち、アリナは背に隠して直立している。


 間も無く戦争が勃発する。


 俺は懐かしい戦争の香りを思い出していた。

 引き金に指をかけ、照星頂に敵の顔面を捉える。一度絞れば鋼鉄の神が槓杆でけたたましく唸り上げ、吐き出した薬莢がダイヤモンドダストのように輝きながら地上に降り注ぐ。

 あぁ……目を――目を閉じてくれ。聞こえるか? 戦車が大地を揺るがし、勇猛果敢な兵士たちが足を揃えて地を蹴る音が。塹壕に隠れて頭上で暴れる弾丸たちに見つからぬよう土竜のように這う屈辱を覚えているか? 土とも血とも区別がつかぬ汚れで見えなくなった家族の写真をお前はまだ持っているか? 敵大隊に壊滅され、敵が傍を通り過ぎてもただ命欲しさに死んだふりをしながら泥沼に顔を埋め、それを嘲笑うかのように顔に張り付き這い回る虫どもはまだお前の脳裏に焼き付いているか?


「アリナ。気楽に行こう」


 緊張を解そうと俺はいつもの調子で話しかけた。しかしアリナの顔は微動だにしない。お前は『考える人』か。

 どちらも動かないことに痺れをきたしたのか、アリナは肩の力を抜いてまるで俺が今迄存在しなかったかのように目線を外して歩き始めた。

 助かった。そう思った矢先に左足の脛に強烈な痛みが走り、俺は反射的に「ぐおっ」と呻いた。折れたかと思った。アリナは廊下を曲がり、消えていった。最後の最後で箒で斬られたようだ。このくノ一め。





 「元職員室」では文字数が多いので何かしっくりくる名称を考案中、バゴンッとドデカイ音を立ててドアが開かれた。ダムが決壊したのかと思った。

 アリナの登場だ。


「よう。調子はどうだい!?」


 俺は手を挙げて親しげに接しようと努める。喧嘩気味な雰囲気を引きずったままなので明るい空気を作ろうとしたのだ。

 しかしそのチャレンジ精神を踏みにじってアリナはまた読書を始めた。彼女の耳は飾りなのだろうか。

 今日もソフトテニス部に赴こうかと思っていた。しかし雨がザーザー降っているので外ではやらないだろう。雨のせいもあってかアリナの眉間の皺もグランドキャニオン並みになっている。


「何見てんの。中国の地溝油で溺れればいいのに」

「そう噛み付くな。お前はもっと柔らかく、おっとりな性格になれば満点なんだぞ? なぜそうならない」


 俺の問いを無視して活字を目で追っている。この活字中毒め。


「今日からこの空間は単純に『部室』でいいか? 元職員室は長い」

「これが部活とか笑える」

「まぁ部活ではないわな。じゃあ他にないか?」

「ない。アレ、とかアソコでいいんじゃない?」

「うわ、ひっどい。下ネタは受け付けてないんですが」


 ジョークで言った。が、アリナには伝わらず、死神みたいな虚無の眼に切り替わった。恥じらうことくらいしてくれよ。


「薔薇園とかは? 知ってるか知らんがお前は『薔薇』って言われてるらしいぞ」

「そ」

「容姿は良いのに、触れようとすると刺されるって話だ。容姿は良いのに」

「そ」

「容姿は、い、い、の、に」

「そ」


 神よ、「そ」を使用禁止にしてくれまいか。


「その薔薇園って、暴力団か何か?」

「組にしたらヤバイかもな。ここはお前のためにあるようなもんだ。だから薔薇だ。赤草先生が用意してくれたからありがたく思え。そういうわけだから――」


 俺のスマホが鳴った。真琴からだ。

 アリナに断りを入れ、電話に出る。


「彗だ」

「突然悪い! 今学校にいる?」

「いるぞ」

「助けてくれ! 今すぐ体育館に来てくれないか?」

「随分と緊迫してるな。何があったんだ? テロならSATを呼べ。SATでダメなら中央即応集団の特殊作戦群だな。まず帰宅部員が行ったところで解決する話なのかね」

「今テニス部とバド部が体育館の陣地争いで喧嘩気味になってるんだよ。白奈ちゃん、うちのバド部の女子からきつめにガンガン言われてて。辛そうだから彗に来てほしいんだよ。間に入ることくらいできるだろ?」

 

 白奈は強く言えないタイプだ。一方的に言われたら俯いて耐えるだけになってしまう性格をしている。それを想像すると何とも言い表せないが煮え切らない気持ちになる。素直に助けたいと思った。


「わかった。今すぐ行く」

「サンキュ! はやくこいよ!」


 俺は通話を切るとすぐに立ち上がった。アメコミのような正義執行の時間である。


「体育館に行ってくる」

「そ」

「来るか?」

「いい」


 彼女は終始活字だけを追っていた。面倒ごとが嫌いであろうアリナには耳にも入れたくない話のはずだ。俺はあえて話さず、『薔薇園』を出た。

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