第21話
車は山道沿いに停められていた。大型のランドクルーザーのような車体だ。色は黒一色で、妙な威圧感を放っている。
ジャックは歩み寄り、運転席のドアに触れた。軽い電子音を立てて、ロックが解除される。
「運転を頼むぜ、神矢。あんた、腕が立つんだってな」
「ヴィルがあなたにそんなことを?」
「ま、何の取り柄もない人間を人質にはしたくないだろうからな」
私は軽くため息をつき、運転席に乗り込んだ。妙なところでアテにされてしまったものだ。
「ヴィルはどうするんです? 彼の移動手段は?」
「後で俺が回収しに来る。それなりの準備はしていたんでな」
『さあ、車を出してくれ』。そう言って、ジャックは助手席に収まった。
私は立体映像マップを呼び出し、山道を下り始める。
「ジャック、この先に検問は?」
「マップを見ていてくれ。今データを反映させる」
軽く見遣ると、ジャックは手中に収まる程度の小型通信端末を握っていた。少し減速し、私は様子を見守る。すると、一瞬映像がブレた後、赤い点が立体映像マップに次々に現れた。
「静止衛星からの情報だ。どうやら森を通ってきたお陰で、このあたりの検問は突破できたようだな」
「それまで山中を歩くことになるのを承知で停車を……?」
「そうだ」
短く答えるジャック。
「最悪、この山中で命を狙われる可能性もあったからな。最低限の準備はしてきた。まさかGFが直々においでになるとは思わなかったが」
「そう、ですね」
するとジャックは視線を立体映像マップに戻し、
「この山道の先に検問があるが……あんたの腕なら突破できるだろう」
「買い被らないでください」
「まあそう言うな。あんたを頼りにしてるってことさ。俺もヴィルもな」
そう言って、ジャックは肩を小突いてきた。
思わず、私の口元もほころぶ。しかし同時に湧いてきた感情は、とても一言で表すことのできるものではなかった。突然安心感に浸ったがために、今まで押し殺していた複雑な感情が胸中で入り乱れる。自らの心の変調に、理性は容赦なく揺さぶられる。
「……」
私はぐいっと、コートの袖で目元を拭った。
「お、おい、どうした?」
ジャックが狼狽の色を見せる。
本来だったら、涙など何とか堰き止める場面なのだろうが、それは叶わなかった。
ヴィルならその原因を察してくれたかもしれない。ジャックも空気の読める人間だとは思うが、ヴィルよりは鈍いのだろう。
拭っても拭っても、涙が流れ出るのを止められない。そのまま私は前方を見続けた。唇がわなわなと震えだす。
「神矢、一体何が――」
「私たちはケインを見殺しにした!!」
私がこんな大声を上げたのは、人生で初めてだったかもしれない。それを言うなら、目の前で知人が嬲り殺しにされるのを見たのも初めてだった。
ぎゅっとハンドルを握りしめる。ハンドルが捻じ曲がるのではないかと本気で思うほどに。鼓動の高まりに合わせて、嗚咽が口元から溢れてくる。それに、視界が狭まり、目の焦点も定まらなくなってきた。
「すまない。武装ドローンを即興で修理して飛ばす必要があったんでな……。間に合わなかった」
軽く肩に載るものがある。ジャックの右手だ。しかし私は、肩を思いっきり跳ね上げて
「私に触らないで!!」
「……」
「間に合うとか間に合わないとかじゃなくて、あんまりだよ……。酷いよ……」
我知らず呟いていると、ジャックは黙り込んだ。目を逸らす気配がする――それだけ私の顔はひどく歪んでいる、ということなのだろう。
それでも、私は前を見続けなければならない。目を伏せたまま運転する、というドライビング・テクニックは、私には備わっていないのだから。
常に前を向いて進め。
「……」
振り返るべき時は、自然とそれが分かる。不用意に振り返るんじゃない。
「……」
それを繰り返して、人間は自らの『正義』を見つけていくものだ。
私の脳裏に、父が遺した言葉の数々が思い浮かぶ。自分が凝視している山道の向こうに、父の最期の顔が浮かび上がって見える。
流石にこれ以上、私に運転させるのは危険だと察したのだろう。ジャックは
「神矢、運転を代われ。さっきから蛇行運転になってるぞ」
と言って、ヴィルの時と同じように座席を入れ替えた。
「ありがとう……」
そう呟いた直後、私の意識は十年前へと遡っていた。
※
騒がしい夜だった。二〇二〇年八月、第二回東京オリンピックの夏。
「よし、と」
私の父は防弾ベストに警棒を装備し、無線機の受信状態を確認していた。そんな姿を、私は憧れ半分、不安半分で見守っていた。父の出動前、都心部の警察署前でのことだ。
「それじゃ、行ってくるからな」
ぽん、と私の頭に父の大きな掌が載せられる。いつもは厳しい父だが、この日ばかりは様子が違っていた。普段は垣間見ることすらできない、優しい態度を取っている。そこにどこか、妙な緊張感を漂わせて。
「さ、忍さん。お父様に行ってらっしゃい、って」
女性警官が優しく私に語りかける。しかし、その日の私は彼女に甘えることなく、
「どこへ行くの?」
と一言。
警官帽を被ろうとしていた父の手が止まった。私と繋がれた女性警官の手先も、ぴくり、と跳ねて硬直した。
その時、私がもう少し大人びた子供であったなら、この警察署内の異様な緊迫感を感じ取れていたかもしれない。
「さっき言ってたよ、コード06って何?」
『言ってた』というのは署内放送のことだ。その瞬間を境に、父や警備担当の警官たちの間に狼狽の波が押し寄せたのだ。
警察学校に入ってから教わったことだが、『コード06』は警視庁内の暗号で『都内で大規模暴動の気配あり』ということを伝達するものだった。そこには、最悪の場合、死者が出るかもしれないという意味が加わっている。
しかし、当時十歳だった私にそれを理解しろというのは、あまりにも無茶な注文だ。そして何より、残酷なことだ。
私が身近な人物の死に遭遇したのは、三歳の頃に母が病死したのが最初で最後。記憶になどそうそう残っているものではない。
思い返してみれば、物心ついた頃から、私は警察署から出動する父の姿を見てきた。それは、父が自分の背中を見せることで、私に『何か』を伝えたかったからなのかもしれない。
『警察官としての誇り』だろうか。『国民の生命財産を守ることの意義』だろうか。それとも、単に『私にも警察官になってほしいという意志』だろうか。
そのいずれにも解釈できることだが、その夜ばかりは違っていた。父は、自分の死を覚悟していたのかもしれない。その心理的苦痛、恐怖に立ち向かうために、私の存在を確かめたかったのだろうか。
あまりにも早く、人生の伴侶に置き去りにされた父。しかし、それと似た思いを娘の私にまでさせることはなかったのではないか。
そう、その日、父は殉職したのだ。
直接の原因は、暴動に紛れて発生した、サポーター同士の喧嘩だったらしい。『らしい』というのは、あまりにも人が混み合いすぎていて、誰がどこの警備をしていたかが定かでないからだ。
私は父の帰りを待ちわびて、警察署のエントランスホールにいた。先ほどの女性警官も一緒だ。すると突然、女性警官が無線機を取り出し、何やら喋りだした。
何を話していたのかは分からない。一つ確かなのは、話すにつれて彼女の顔から血が引いていったということだ。
「何があったの?」
「……」
「お姉さん、何が――」
『何が起こったんですか』と問いかけようとして、私の言葉は封じられた。女性警官が、私をぎゅっと抱きしめてきたからだ。
今思えば、それ以外にどうしようもなかったであろうことは容易に考えられる。だが、当時の私には、何故彼女が私を抱きしめているのか、何故嗚咽を漏らしているのか、さっぱり分からなかった。
彼女は何やら、涙声でもごもごと私に語りかけてきたが、具体的に何と言っていたのか分からない。ただ、状況がはっきりしてくるにつれて、私はある程度を推察できていた。
『あなたのお父様は立派だったのよ』
と。
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