第3話 横顔を
施設は山の麓にあるため、外に出ると盆地に広がる町を見下ろすことが出来ます。彼に手を引かれ施設の玄関から外に出ると、初夏で青々あと生い茂った草木の匂いが、生暖かい風と共に吹き抜けました。
玄関脇にいた職員の女性が私を不思議そうな顔で見つめていました。それはそうです。施設ではあまり見かけない20歳程女の子が、おばあさんのようなパジャマ姿で出ていくのです。彼は職員の女性に向かって「お疲れ様です」と、物怖じせず自然な態度で会釈しました。私もつられてにこりと笑いました、すると職員さんもにこりと笑いました。
相手は自分の鏡とよく言いますが、それは本当だと思います。信用してもらうには、まずはこちらから信用しなければならないのです。目は口程に物をいいますから、きっと私だけだったら職員さんに呼び止められていたかもしれません。彼の混じりけのない純粋が、職員さんを笑顔にしたのだと思いました。
「さて、だいぶ歩いたけれど疲れてはいないかな?」
手を引かれて15分程歩いたところで彼はそう言いました。施設を出てしばらくはずっと、下り坂でした。若さとは不思議なもので、疲れなどなく体はもっと動きたがっていました。
狭い個室で天井ばかり見ていた今朝までの自分が嘘のようです。思い切り夏の空気を吸って、息が切れるまで、心臓が止まるまで、太陽が沈みそして夜明けがくるまで、この下り坂を走ってみたい。
「全然、若い頃ってこんな感じだったのよね。もうすっかり忘れていた。アスファルトを踏む感覚ってこんなものだったかしらね。もっと走り回りたい気分よ」
「君は昔から足が早かったし、走り回るのが好きだったもんな」
「あら、あなた私の走り見たことあったかしら」
「僕は、君のことなら大抵知っているさ。だって、僕が生きているうちのほとんどを君と過ごしていたんだからね」
確かに、いま思えばもうおじいさんと結婚して60年は過ぎたかしら。思えば長い時間でしたがあっという間でした。おじいさんは、あまり話好きでは無かったし、愛情を口にすることもほとんどありませんでした。
しかし、どんな事があっても私の隣りにいて家族を守ってくれたこと、感謝しています。若かりし頃の横顔を見ていると、まだ子どもがいなかったころ。そう、ふたりきりだった頃に、よく隣で本を読むあなたの横顔を密かに覗き込んでいたことを思い返します。
何かに夢中なあなたの横顔は、その目はあなたが見せるいくつもの表情の中で一番好きでした。
あなたはね。
きっと、本の世界に夢中で瞳の中、希望と好奇心できらきらと輝いていた。
私はね。
きっと、そんなあなたに見とれて、瞳の中あなたいっぱいに輝いていたと思います。
「さぁ、どこへ行こうか」
あなたはこちらを向いてそう言いました。
はっ、と私は思わず顔を伏せます。胸に手を当てずとも心臓の鼓動が分かりました。体中が心臓になったようにどくどくと脈を打ちました。
「行きたいところは、たくさんあるの。でも、まずは私自転車に乗りたいわ」
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