第5話 大学時代

高校を中退すると、周囲の私を見る目は白くなった。

神戸新聞が採用してくれ、などという甘い現実はなかった。


兎に角、まずは大検に合格し、大学に行くこと。それが目標になった。それにはまず、勉強しなければいけなかった。


私は13科目を受験する必要があった。勉強したのは、松尾先生から貰ったテキスト1冊のみだ。3ケ月ほど、基礎を徹底的に勉強した。


テストは7月だった。朝から夜まで、試験は2日間に及んだ。

問題は簡単だったが、問題の数は異常に多かった。時間との戦いだった。合格には全教科の合格が必要である。私は日本史で失敗したと思った。


発表は9月の中頃だった。諦めていたので、大学入試の勉強には手をつけなかった。しかし、意外なことに、結果は合格だった。さて、この時になって私は受験を考えなければいけなくなった。


当時の家には、母と母方の祖父母、そして弟がいた。父はまたもやドイツに行っていた。祖母は認知症、祖父も病気で、母は介護に追われていた。家は、とても受験勉強などできる環境では無くなっていた。また、私は大学にゆくなら絶対に東京に行きたいと考えていた。


幸いな事に、目白に住む叔父が、受験期間だけ居候して良いと言ってくれた。私はその言葉に甘え東京へ行った。

予備校には行かなかった。そもそも、予備校の勉強について行けるレベルではないと思っていたし、Z会の模試の結果も惨憺たるものだった。家庭教師もつけなかった。


それどころではない、独学もしなかった。

私は毎日、昼になると池袋にある近代将棋の道場に行った。それは歩いて行ける距離にあった。


お金がないので志望校は1校だけにした。

立教大学の英米文学科である。

選択した理由は受験科目が英語と小論文のみだからといい単純なもものだ、今思えば、この場合、英語でよほどの高得点でなければ話にならないということだろう。

見事に桜は散った。


叔父と叔母はあわてた。

まさか、立教に落ちるとは想像もしていなかったらしい。

かと行って、あと1年も居候を許すわけにもいかない。

2月以降の2次募集のある大学の情報を収集し、なんとかかんとか、桜美林大学に滑り込んだ。


とりあえず、大学に入ってから、1年間頑張って、慶応、早稲田を目指すという選択肢もある。叔父には、そうアドバイスされた。


いよいよ一人暮らしが始まることになった。

家は貧乏で仕送りも少なかった。

大学教授など名誉はあっても金はない。

私が住んだのは3畳一間で玄関にキッチンがついた安アパートだった。トイレは共同だった。私の部屋にはベッドと机と本棚以外には何もなかった。テレビは4年間にわたって置かなかった。


入学したものの、わたしには4年でまともに卒業して就職する気などサラサラ無かった。与えられたモラトリアムをどうこなすか、それだけを考えていた。何と、最初のオリエンテーションにすら出席しなかった。


私は大学に行くよりも多くの日数を町田将棋センターで過ごした。そこには真剣師(賭け将棋で生計を営む人)や、別の大学の将棋部の学生、あるいはプロ棋士や奨励会員(プロの養成機関)も集まっていた。


もちろん、将棋をするだけではない。

夜は酒を飲むか、麻雀をするか。

家に帰るのは朝日が昇る頃というのが日常だった。


大学には適当に行き、適当にテストだけは受けていた。

それが良かったのか、1年でなんと30単位もとれた。

あれ、もしかしたら4年で卒業出来るぞ。

そう思うと、私の方向性も少しずつ変わっていった。


2年になっても、基本的な生活パターンは変わらなかった。同じ大学の生徒とはほとんど交流もなく、町田将棋センターが私のホームグラウンドだった。少しだけ自慢をすると、奨励会の初段に10分切れ負けで指して、2番平手で勝って香を引いた。競輪では100円を8万4千円にした。お金に困ると、弱い旦那衆が集まるフリーの雀荘に行って稼いだ。


将棋カルチャーというのは独特なものだ。

私はプロ・ギャンブラーに憧れていた。

(今は憧れていないが・・・)


3年生になるとゼミが始まる。

私はキャンパスでA君に声をかけられた。

「お前、ゼミどうするんだよ」

「ん。どうすれば良いの?」

「馬鹿だなあ、ゼミ決めないと3年になれないぞ」

といった会話の後、私はA君と同じゼミにすることを決め木下裕一先生に挨拶に行った。


ここからは一気に勉強モードである。

1日に3冊から5冊の本を読んだ。

半分冗談だが、国家公務員の上級職を目指した。

毎夜、経済原論、経済政策、財政学と格闘した。

木下ゼミは時価主義会計学という特殊分野だったが、私はマクロ経済の石井ゼミや、マーケティングの佐藤ゼミにも参加した。


あれ、大学生活って恋愛生活じないの・・・って?

まあ、いいじゃないですか、それは別枠ということで。


就職活動ではいろいろな会社を回ったが、学力と面接では負ける気がしなかった。問題は学校名だけだと思った。どの会社に入れてもらうかではなく、どの会社を選ぶかだった。


流石に国家上級は断念した。

そういえば、この頃中東専門家の高橋和夫先生が講師で来ていて、社会学を担当していた。授業も面白かったが試験も面白かった。「クーデターに成功した後の国民に対するメッセージを記せ」など・・・どう採点したんだろう?


4年生の9月に、私はアサヒビール株式会社の内定を貰った。

おそらく筆記試験では上位5人以内に入っていたと思う。

何しろ、専門であるマグレガーの「企業の人間的側面」が問題に出たのだから。


三流大学から大手メーカーに行くというのは、私にとっては洒落のつもりだった。長続きするとも思わなかったし、学歴から言えば最初から出世コースにないことは明白だったからだ。


そもそも、サラリーマンというのは、私にとって生きていくための最大限の妥協だった。企業の奴隷。それは最下層階級だと思っていた。私はそのような自覚を持って奴隷になった。Mだろうか。

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