第4話 高校時代
県立芦屋高校は名門である。
なぜならば、1952年に夏の甲子園で優勝しているからだ。
さて、私は中学を卒業した時、大きな挫折感と敗北感、空虚さを感じていた。それは、私自身が自分の将来について何も考えていなかったという事実に基づく。この年頃なら、誰もが、医者になるとか会社員になるとか、教師になるとか、それなりの人生のプランを持っているものだ。しかし、私には、そういったプランが全くなかった。私は大きく戸惑った。
県立芦屋高校は自由な校風で有名だった。もちろん私服だったし、女性は皆化粧をしていたように思う。夏にはサンダルにペディキュアという生徒もいたし、日焼けした肌に同色のタンクトップで通学する女生徒もいた。(一瞬、裸かと思ったよ)
高校の3年間は思い切り遊んで、1年浪人して大学に行く。そんなスタイルが主流だったように思う。
一方で教師陣の考え方は違っていた。
入学式の挨拶で「当校の目標はいかに多くの学生を一流大学に送り込むかだ」と述べた馬鹿な教諭がいた。私立ならそれもありだろう。しかし、ここは公立高校だ。私は正常な高校教育を希望したのであって、どこの大学に行くかなど、個人的な問題だと考え、大いに反発した。
私は自由な校風に戸惑った。女生徒だけでなく、男子生徒も芦屋組は長髪だったし、茶髪もいた。そんな中で神戸組は丸刈りだ。劣等感が大きく膨らんだ。突然、異文化に投げ出された気がした。私は授業にも集中出来なくなり、適応障害からうつ病になった。1年で50日程度しか出席しなかったように思う。
当時は、今のような心療内科もなく、精神科ともなると、一生山奥の病院で暮らすというイメージだった。
それでも、クラブ活動には熱心だった。
今考えると悪い道を選んだものだ。
私は将棋部に入った。
授業には行かず、放課後のクラブ活動だけ行くという日も少なくなかった。
当然のごとく、私は留年した。出席日数が不足していたからだ。私は高校2年目で一年生をやり直す羽目になった。
うつ状態はこの頃には快癒していた。
しかし、大いなる誘惑が私を待ち受けていた。
学校に行く、将棋部に行く、浪人しているOBがバイクで遊びに来る、将棋の稽古は差し置いて、バイクで西宮北口の喫茶店に行く、そして夕食をした後は雀荘である。
なぜ、西宮北口の喫茶店かというと、マスターが将棋部の大先輩だったからだ。大学進学率99%の高校で大学に行かず、資本家を目指し、実際に成功した稀有な人である。私はこの人(T氏)に大きな影響を受けた。
高校生でありながら、付き合うのは大学生ばかりだった。
バイトもした。神戸新聞社の文化事業部関連の仕事がおいしかった。アマチュア名人戦の各地の予選のバイトはすべて受けた。もちろん、泊まりであり、新聞社での車での移動である。前夜祭にも呼ばれ、豪勢な酒席にも入れてもらった。酒も飲んだ。もう、時効だから書いても良いだろう。
肉体労働もした。新幹線の六甲トンネルの照明設備の増強工事だった。トロッコでトンネルに入り、照明設備を設置する場所に電気ドリルで穴をあけた。時給1万円で1日4時間。5日間で20万円稼いだ。
小遣いなどもらわなくても、麻雀をしていたので遊ぶ金に困った記憶はない。大学生と一緒に石垣島や西表島に行ったり、信州にテニスに行ったりと、本当に遊び回った。
高校の方は、何とか2年に温情で進級させてもらったものの、2年から3年には進級出来ないと言われた。
つまり、4年目で2年生をやれと言うことだ。
私は心理学者の松尾恒子先生のカウンセリングを受けていた。
先生は言った。
「高校はやめましょう。大検、受かりますよ」
私はその言葉を信じ、3年で高校を中退した。
父にも異論はなかった。
退学届を出す日、父も学校についてきてくれた。
私の高校生活は、こうして終わった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます