笑っていてね

4−5

 電柱が倒れたのか、電線が焼き切れたのか、たぶんさっきの雷が原因で電気が届かなくなったんだろう。駅舎の電燈が消え、視界のすべてが黒に支配されている。視界を満たす黒、黒、黒。まるでその暗闇が俺の心までも侵食してしまうような気がして、俺は必死にその幻覚を振り払おうとする。

「……ごめん」

 自然とそんな言葉が出た。意識していない言葉だった。きっと心の深いところに、ずっと根差していた言葉だったんだろう。俺のそんな言葉を聞いて、井原さんはしずかに言う。

「どうして謝るんですか?」

「わからない。ただ、どうしても謝りたくなったんだ」

「……へんな高科先輩」

 そう言って、彼女はふふふ、と笑う。

「きっと、こんな場所にきみを連れてきてしまったことを、俺は後悔しているんだよ」

「……そうですか? わたしは、うれしいです」

「うれしい?」

「はい。先輩が、わたしを見つけてくれて、わたしを助けてくれて、わたしを檻から連れ出してくれて、うれしいんです」

 彼女が缶に口をつけてジュースを飲む、その影が見える。俺もそれにならってジュースを飲んだあと、視線を戻してまた彼女を見つめた。

「先輩がわたしのメモを見つけてくれたときから、きっとわたしの世界は変わったんです。わたしの世界を覆う真っ黒な絶望を引き裂いて、まるで魔法みたいに、奇蹟みたいに、わたしの世界を光でいっぱいにしてくれたんです。ずっとひとりぼっちだったわたしを、ここまで引き上げてくれたんです」

 井原さんの言葉が、俺の心をやわらかいところを心地よくくすぐる。俺は照れ隠しに、もういちど缶ジュースを口につけた。

「電話もつながらなくてずっと心配だったんだ。どうして今日、連絡をくれたの?」

「……先輩の、メモを見ました」

「……」

「たったひとつの、冴えたやりかた。憶えててくれたんですね」

 俺は井原さんを見た。正確に言うと真っ暗でなにも見えなくて、井原さんのほうを見る、という程度のことしかできなかったんだけれど。でもたしかに、俺はそこに井原さんを感じた。広い宇宙のなかで繋がりあった、星座の星と星を結ぶ見えない線を感じた。

「今回のことがクラスメイトにばれて、親戚に連絡が行って、このまま転校になったら……そしたらわたし、ほんとうに死ぬまでひとりぼっちなんだなって。そう思ったら、どうしようもなく哀しくなって。そしたら、市立図書館で借りた本に、メッセージが入ってるのに気づいて」

 だって届いたんだ。俺があの日、市立図書館で書いたあのメッセージは、ちゃんと彼女に届いていたんだ。

「借りるとき、司書の女のひとがすごい勢いで『ちゃんと受け取ってあげてね』って言ってきて。なにがなんだかわかんないままうなずいたんですけど、見てみたらその意味がわかったんです。先輩が、届けようとしてくれたんですね」

 井原さんがスマホを取り出してライトを点けてくれた。手許が明るくなり、駅舎の内装がぼんやりとした光に浮き出る。

 彼女はかばんからべつのなにかを取り出した。見ると、その手には一冊の文庫本が握られている。

 『たったひとつの冴えたやりかた』。

 井原さんがその見返しを開く。そこにあったのは、貸し出し者一覧に端正な筆致で書かれた彼女の名前。そして、あの日俺が挟んだ、一枚のメモ用紙。

『俺がそばにいる』

 井原さんの残したメモみたいな、気の利いた暗号のようにはできない。それに、なんのひねりもない陳腐な言葉しか書けない。それでも、その七文字こそが俺の伝えたいことのすべてだったんだ。

「わたし、おばさんにあんなこと言われて、もうどうなってもいいやって思ったんです。学校の授業も退屈だし、なにひとつおもしろいことないし、退屈で窮屈な檻のなかでに閉じ込められて、そのうえわたし自身の存在まで否定されたような気がして……でも、先輩のことを思うと、なんだか心のなかがあったかくなるんです。さみしくないって思えるんです」

「井原さん……」

「このメモを見て、このメッセージを見て、このままさよならなんて、ぜったいにいやだなって。先輩の顔が見たい、声が聞きたい、先輩に逢いたいって……そう思ったんです」

 俺は自分のかばんのなかをがさごそと探った。井原さんはそのようすを「先輩?」と不思議そうに見つめている。俺が探り当てて取り出したものを見てもなお、彼女はその表情を変えない。

「井原さん、これ」

 俺が差し出したもの。

 それは、新聞記事のコピーだった。

「先輩、なんですか、これ?」

「いいから。ここ読んで」

 言われるままにその新聞記事を追った井原さんの目が、しだいに大きく見開かれていく。震える両手で口許を押さえ、すがりつくようにその記事の文字を見つめた。

 ちょうど十年前の七月に起きた、とある事故に関する新聞記事。

 俺が指し示す記事の箇所には、こう書かれていた。

『7月24日午後5時ごろ、○○市内の市道で乗用車とトラックが正面衝突し、双方の車に乗っていた男女3名が死亡した。

 警視庁によると、現場は片側一車線で、見通しの悪い緩やかなカーブ。トラックがスピード超過でカーブに進入し、ハンドル操作を誤って曲がりきれず、対向車線を走行していた乗用車と衝突したものとみられる。この事故で、トラックを運転していた会社員・○○さんと、乗用車に乗っていた井原芳哉さん(35)・深雪さん(34)夫妻が全身を強く打ち、市内の病院に運ばれたがまもなく死亡が確認された』

「井原芳哉さん、深雪さん……きみの両親だろう?」

 俺の問いかけを聞いて、彼女はしずかにゆっくりとうなずく。

「きみの両親は、きみの言うとおり——きみの信じていたとおり、十年前の七月に交通事故で亡くなっていた」

 俺が森屋先輩に発破をかけられたあと、市立図書館で二時間かけて探し出し、司書にコピーをお願いしていた資料は、この新聞記事だった。井原さんから聞いていた彼女の両親に関する情報は断片的だったし、その情報がどれほど定かだったかはわからなかったけど、それでも俺は彼女を信じた。彼女を信じて、「十年前の七月」「『井原』という苗字」「スピード違反の車」という情報から記事を探し出した。そして見つけたのだ。

「あのおばさんの言っていたことは、うそだったんだ。両方の不倫で離婚して行方不明になってなんかいないんだ。きみはふたりに捨てられてなんかいないんだ」

 彼女の親戚がなぜうそをついていたのかはわからない。なにせ十年前の出来事だ、あの親戚がなにかの勘違い、思い込みであんなことを言ったのかもしれない。でも、新聞記事は事実だ。目の前にある記事のコピーこそが、俺たちの信じたものの正しさを証明している。

「……」

 井原さんは揺れる視線で俺を見つめた。彼女はいま、長いあいだ立たされていた処刑台から、ようやく降りることができたんだ。ずうっと背負ってきた十字架が、いくつにも割れて崩れ落ちたんだ。

 俺はまた、自分のかばんのなかを探った。真っ暗のなかで手許はほとんど見えないが、手に当たる感触で「それ」を探り当てる。井原さんの電話の声に呼ばれて、家を出るときかばんといっしょに引っつかんで持ってきたものだ。

「ねえ、井原さん」

「……?」

「これ見て」

 彼女の目の前で「それ」のスイッチを入れた。すると、真っ黒な闇に満たされていた名も知らない駅舎は、見覚えのあるあたたかな光に包まれた。色とりどりに彩られたガラス瓶から漏れる光が、俺たちの視界を塗り潰す暗闇にちいさな光の穴を空けている。無数にうがたれたその光の穴は、まるで晴れた夜空に広がる満天の星みたいだった。

「あっ……」

 井原さんが思わず声を上げ、俺のほうを見る。

「先輩、これ……!」

「ああ。俺たちの、プラネタリウムだよ」

 手づくりのプラネタリウム。俺と井原さんがふたりで完成させた、ふたりだけのための宇宙。ちいさな駅舎のなかに広がる無限の星々。雨のなかの星空。

 慣れない千枚通しでなんども失敗しながら空けた、アルミホイルの穴。俺が美術部から借りたガラス絵の具で塗った、小瓶の色彩。そしてふたりきりの天文学部の部室に広がった、つくりものの宇宙。もう戻れないと思っていたあの場所の景色が、いま目の前に広がっている。もう戻れないと諦めていたあの時間が、あざやかに蘇ってくる。

 たくさんの光の粒のなかに、ひときわ輝く七つの星が見えた。

 北斗七星。

「見つけた。俺がきみを見つけた。俺が手を伸ばして、それにきみが応えてくれた。だから、もう大丈夫」

 俺はそう言いながら、雨のなかの北斗七星にゆっくりと手を伸ばす。空中にかざしたその手で、その北斗七星を掴み取るまねをした。

「『ずっとひとりぼっちだった』ときみは言うけれど、もう大丈夫なんだ。俺がいるから。きみはもう、ひとりじゃない」

 あの七文字のメッセージを、俺はこの手で掴んだんだ。暗い夜空にきらめく七つの星、その輝きは俺のこの手のなかにある。俺のとなりにいる。

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