4−4
「——ぱい、せ——い、せんぱ——」
(う、ううん……)
だれかが俺を呼んでいる。夜空を駆ける電車のなかで、だれかが俺を呼んでいる。
「——先輩!」
「はっ!」
俺は跳び上がった。ここは電車のなか。疲れて寝てしまっていたらしい。すぐそばに井原さんがいた。そうだ、俺たちは逃げているんだ。暗い窓の外を見ると、相変わらず雨はどしゃぶりだ。どうしてか電車が止まっている。なにやってんだ鉄道会社、俺たちは急いでるんだ、はやく遠くへ行かなきゃいけないのに——。
「先輩」
井原さんが俺を呼ぶ。彼女を振り向くと、焦ったような表情で彼女が言った。
「電車が止まりました。台風でもう動けないそうです。この電車はここで折り返して車庫に入って、この先はもう行けないって」
「……は?」
車内アナウンスが響いている。台風十一号による大雨と強風により、○○線の上下線で運転を見合わせております、この列車は当駅で折り返しの回送列車となり、引き続きのご乗車はできません——。
「なに言ってんだよ、まだだろ、もっと遠くへ、俺たちは行かなきゃいけないんだ、もっと遠くへ——」
「先輩、降りましょう」
「井原さん」
「降りましょう」
そう言って彼女は、俺の腕をつかんで電車を降りた。外は猛烈な雨と風だった。電車の行き先表示は「回送」となり、ゆっくりともと来た方角へ引き返して行く。電車がすっかり行ってしまうと、宵闇に沈んだホームには俺たちふたりだけが残された。
名前も知らない駅。乗り継ぎに乗り継ぎを重ねて、俺たちは知らない場所へ来てしまった。知らない土地の知らないローカル線。駅舎は建て付けの悪そうな木造だった。台風の強風にあおられた木々が揺らめくのが見える以外、駅のまわりには家の明かりひとつない。
駅舎の上には、日本の国旗が強風になぶられている。俺は愕然とした。こんなところでも、おまえは俺を待っているのか。日の丸。敷き詰められた白米と赤い梅干し。俺の「貧乏」の象徴。ポケットを探ると、駅で切符を買ったおつりの数百円が残っているだけだ。 進む手段はない。帰る手段もない。もうどうすることもできない。
「先輩、ここは……」
「……どこだろうね。とりあえず駅舎のなかに入ろう」
駅舎の待合室に入る。木造の駅舎に人影はひとつもなかった。こんな田舎のこんな寂れた駅に訪れるひとなんてめったにいないだろうし、ましてや今夜はこの天気だ。このあたりのひとたちはだれも外に出ようなんてしないだろう。裏を返せば、俺たちはここでふたりきり。だれかに助けを呼ぼうにも、ひとが通らないんじゃどうにもならない。そして俺は、遠く離れただれかに助けを呼ぶ手段を持っていない。
「そうだ、井原さん、スマホ」
「あ、はい」
彼女はかばんからスマホを取り出した。電源をつけて画面を見て、その肩を小さく震わせる。
「どうしたの?」
「いえ、あの……親戚から、着信履歴が……」
画面にびっしりとならぶ着信履歴。井原さんもさっきは眠っていたのか、いままで気づかなかったんだろう。どこまでも追いかけてくる呪縛のように、その画面は俺の背筋を凍らせる。
「あ、ここ、圏外です」
「マジか……」
万策尽きた、とでも言おうか。俺たちはスマホの電波も届かない見知らぬ土地の見知らぬ駅で、ふたりきりで取り残されてしまったんだ。
「お腹空いたね」
「……はい、ちょっとだけ」
待合室のなかに自動販売機を見つけた。駆け寄ってとりあえず缶ジュースを二本買う。これでまたお金が減った。どうせ数百円しかないんだ、いくら減ったっておなじだろう。
井原さんに缶を片方渡して、ふたりで待合室の椅子に座る。
駅舎の外では、どしゃぶりの雨がやむ気配はない。俺がしばらく窓から外のようすを伺っていると、ピカッ!とほんの一瞬だけ空が青白く光ったかと思うと、耳をつんざくような大きな音があたり一帯に響いた。
「きゃッ……!」
井原さんがちいさく悲鳴をあげる。
雷鳴だ。
「……近いな」
空が光ってから音が響くまで、ほとんど時差がなかった。電車に揺られるままどこだかわからない場所に来てしまったが、もしかしたら台風の中心に近づいてしまったのかもしれない。猛威をふるう雷雨はさらに激しさを増し、外の世界を真っ黒に濡らしている。
「怖い?」
「いえ、だいじょうぶ——」
閃光。雷鳴。
近くに爆弾でも落とされたんじゃないかと思うほど空が明るくなり、音が響いて地面が揺れた。木造の駅舎ががたがたと揺れ、俺たちは身をすくませる。落ち着くまで身を屈めて、しばらくしてから顔を上げてあたりを見ると、どうしてか視界は真っ暗だった。さっきまでの真っ暗とは意味が違う。駅舎の内装がすべて黒に塗り潰されてなにも見えない。
そう、なにも見えない。
「……」
俺は息を飲んだ。となりで井原さんが「うそ……」と悲痛な声を上げたのが聞こえた。
停電だ。
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