4−2

 大雨でひどく視界が悪い通りを、俺は必死に走った。駅前の明かりが見えてくる。夜の駅は雑踏にあふれ、吐き気がするほどびかびかに光っていた。

 駅に着いて彼女の姿を探した。そして見つける。濡れそぼった制服で、自分の身体を抱えながら、小刻みに震えている後ろ姿。びかびかに光る街の照明とは対照的に、光を忘れてしまったかのような漆黒の長い髪。

「井原さん」

 声に反応して彼女がゆっくり振り返る。

「……高科先輩」

 彼女は泣いていた。当たり前だ、さっき電話口ですすり泣く声が聞こえていたじゃないか……俺はそう思いながらも、見るものの心を突き刺すような彼女の鋭利な泣き顔から、目を離すことができなくなっていた。

 綺麗な光景だった。

 最悪だ。この期におよんで、俺は井原美夜の端正な泣き顔に見とれてしまったんだ。暗い夜空を切り裂く流星みたいに、彼女の涙は俺の世界を引き裂いていく。

「先輩、どうして」

「これ」

 そう言って俺はポケットからそれを取り出し、彼女に突きつけた。それを見て彼女は雨に濡れた桜色の唇を震わせる。

「先輩、これ——」

「三万円だよ」

 それは、井原美夜という存在の値段。彼女が妥協し、自分を定義して束縛した、彼女という人間の価値。

「言ったよな、憶えてるよな? 三万円あればいくらでも好きにしていいって。ちゃんと三万円、用意したよ」

「……っ!」

 彼女の泣き声をかき消すかのように、大粒の雨はこの街に降るのをやめない。

「この三万円があれば、きみの願いは叶うんだろ? アイルランドに行きたいっていうきみの願いが叶うんだろ? きみの望みどおりだよ。俺の差し出す三万円で、きみはこの世界から抜け出せる。きみが言ったんだ。三万円で身体を買ってくれ、そうきみが言ったんだよ。憶えてるよな?」

 もう、これしかないんだ。

 不可能だとか。手遅れだとか。無力な自分だとか。

 もうそんなことはどうでもよくて。

 俺にとっての「たったひとつの冴えたやりかた」は……もう、これしかないんだ。

 彼女は降りしきる雨のなか、震えた身体で、震えた唇で、震えた声で、しずかにささやく。

「……せ、先輩となら、いいかなって思ってたんです。おいしいチョコくれたし、かわいいくまもくれたし、なにより、わたしのこと、助けてくれて、楽しませてくれて、笑わせてくれて。すごいなって、思ったんです。先輩はわたしの知らないことをたくさん知っていて、わたしにできないことをいっぱいやってくれて、ほんとうに、ほんとうに、すごいなって思ったんです。先輩に逢えたことで、わたしのなかのなにかが変わるような気がして、なにかを変えられるような気がして……そのためなら、先輩となら、いいかなって思ったんです。だけど、だけど——」

 彼女の涙は淡い光の粒になって浮かんでいく。

「もう、こんなこと、いや……っ!」

 北斗七星。

 七文字のメッセージ。

「助けてよ、先輩……、わたしを、助けて……っ!」

 分厚く立ちこめるどす黒い雨雲の向こうに、世界を覆う絶望の向こうに、きらきらと輝く七つの星。俺はその七つの光を、もうぜったいに見失ったりしない。ぜったいに目を背けたりしない。

 この手でかならず彼女を、救い出すって決めたから。

「井原美夜」

「……」

「逃げよう」

「……?」

「ここから逃げよう」

 そう言って俺は彼女の手を取った。そのまま改札の窓口に向かい、握りしめた三万円でふたり分の切符を買う。ひとりは制服の女子高生、ひとりは着の身着のままの男子高校生。しかもどちらもびしょびしょに濡れている。窓口の駅員が訝しそうな視線を向けてきたが、そんなものにかまっている余裕はなかった。

「せ、先輩、逃げるって、どういうことですか」

「逃げ出したいんだろ? この退屈な世界から、窮屈な檻のなかから」

 不可能、手遅れ、無力な自分、そんなことはどうでもよくて、俺はただ彼女を救い出すと決めた。その彼女が目の前にいる。もう取れないかと思っていた彼女の手が、すぐそばにある。彼女が俺を呼んでくれたんだ。俺はその声に応えて、彼女の手を取りたい。

「でっでも、その三万円、遣っちゃうんですか? わたしの身体、それで買うんですよね」

「なに言ってんだ。三万円で俺の好きにしていいって言ったのは、井原さんだろ?」

 ホームへの階段を駆け上る。ちょうどホームに電車が入線してきたところだった。

「いっしょに行こう。この世界から、いっしょに逃げよう」

 俺のその言葉のあとに、彼女は俺の手を強く握り返した。

 電車に飛び乗る。乗客たちはとつぜん乗り込んできたびしょ濡れの高校生ふたりを見てひどく驚いたようだったが、あまり関わらないと決めたのか、それぞれ手元のスマホなり本なりに意識を戻した。

 俺はひっつかんできたかばんからタオルを取り出し、井原さんに差し出す。彼女はまだ戸惑いながらも「ありがとうございます」と言ってそれを受け取り、制服の水分を拭き取りはじめた。

 電車が動いた。もう後戻りはできない。俺たちはこの三万円で、行けるところまで行かなければならないんだ。外ではまだ大雨が降っている。どうしてこんなときに……と、もう何度めかわからない恨み言を心中で吐いた。

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