第4章

きらきらのなかで

4−1

 大粒の雨が地面をたたく音が聞こえる。陽が沈むころになってから雨脚はさらに強まり、街を冷たく煙らせていた。

 電気代の節約のために、ふだんは夕飯を食べはじめてからじゃないとテレビを点けられないが、今日は母さんも天気予報が気になるのか、支度中のいまでも点けることが許された。ほかの番組ではだめだというので、俺は居間に寝転がりながら天気予報をじっと見つめていた。

『非常に強い勢力を伴った台風十一号は、さらにその勢力を強めながら太平洋を北上しております。今夜から明日にかけ、太平洋側は大時化となる見込みです。くれぐれも海岸には近づかないようにしてください』

「いやねえ。家、吹き飛ばされないかしら」

 母さんはそう言いながら鍋をかき回している。

(よりによって、こんなときに……)

 俺は窓から外を見た。

 台風が近づいている影響で、この街でも雨風が強まっている。予報では直撃はまぬがれるみたいだが、それでも強風域には入るらしく、外では不穏な風の音が鳴り響いている。

 俺は母さんに見られないように、手元の札束を数えた。

 二万、二万五千、六千、七千……三万。

 三万円だ。

 福沢諭吉三人ではないが、それより多くのえらいひとが集まって、三万円という価値を創出してくれている。ついに貯まったんだ。これで準備は整った。俺はもういちど最初から数え直してから、こっそりとポケットにしまった。

 市立図書館にあのメッセージを残してから、一週間ほどがたっていた。気づけばもう八月も終盤に差し掛かり、夏が終わろうとしていた。そして、井原美夜に最後に逢ってから、一ヶ月近くになろうとしていた。

 この一ヶ月のあいだ、俺はお金稼ぎに必死だった。貧乏な高科家の家計に補助を入れながら、来る日もくる日もバイトに明け暮れた。高校二年の夏休みは、ほぼバイトで終わった。

 それもぜんぶ、彼女のためだった。

 三万円だけが、彼女を助け出す方法だったんだ。

 ——わたしの身体、買いませんか? 先輩ならサービスしちゃいます。三万円でどうですか? いくらでもわたしのこと好きにしていいですよ。

 ——高科先輩お願いです、わたしの身体、三万円で買ってください、わたしをアイルランドに行かせてください、もうすぐほしい額が貯まるんです、だから……お願いです、先輩。

 彼女の残した言葉を思い起こしながら、俺はぼうっと天井をながめた。

 一ヶ月で俺のまわりではたくさんのことが起こった。警察に連れて行かれたり、全校集会がまた開かれたり、森屋先輩と喧嘩をしたり。まあ、俺が一方的に蹴られたり殴られたりしただけだけど。そのあいだじゅうずっと、俺の頭のなかには、彼女がいた。

 でも彼女は、俺のそばにいなかった。やっぱり俺にはもう、彼女の手を取ることはできないんだ。

 不可能。手遅れ。無力な自分。

 森屋先輩の言うとおり、もうそんなことはどうでもいいんだ。

 三万円。

 俺の手許にあるそれが、いまの俺のすべてだった。

 俺がテレビの天気予報に意識を戻したとき、廊下にある家電(いえでん)が鳴った。

 りりり、りりり。

「ちょっと章、電話出て」

 俺は無言で立ち上がる。切られるまえに急いで受話器を取り、耳に当てて「もしもし」と言う。

『……』

 返事はない。俺はもういちど「もしもし?」と言った。それでもまだ返事はなかった。家の外では、変わらず雨が地面をたたき、風が窓を揺らしている。

『……』

 いやな予感がした。俺は受話器を握り直して、向こう側のかすかな音をも聴き取ろうとする。

 すると、ほんのすこしだけ吐息が聞こえたような気がした。

「井原さんだろ?」

『……』

 息を呑む気配がした。俺は返事を待った。永遠にも思える時間が過ぎ去ったあと、受話器の向こうから声が聞こえた。

『……高科先輩』

 井原美夜だった。いまにも消え入りそうな震える声で俺の名をささやく。一ヶ月ぶりに聞いた彼女の声は、どこかなつかしいような、それでいてはじめて聞くような不思議な感覚がした。きっと俺が感傷的になっているからだろう。

 言いたいことがたくさんあって、訊きたいことがたくさんあって。それでも一気にぜんぶ言うことはできないし、彼女もきっと困るだろうから、俺は言葉をていねいに選ぼうとした。でも、溢れ出る感情は抑えきれなかった。その感情に乗って出た言葉が、電話の受話器に吸い込まれていく。

「どうしたんだよ。学校にも来ないで、電話にも出ないで、いままでいったいなにを——」

『ばれちゃいました』

 彼女の声がそんな俺の言葉をさえぎった。

「——は?」

『ばれちゃいました。男の人から、お金もらってるとこ、クラスメイトに見られて、それで』

 鈍器かなにかで頭を思い切り殴られたみたいだった。意識が飛びそうになるが、必死にすがりついて電話の声に意識をつなぎ止める。

『先生に言うぞって脅されて、お金ぜんぶ取られて……でも、あの子ぜったいに言います、先生と仲いいから、学校にばらされる、そしたら親戚にも連絡が行って、もうこの街にはいられない、このままさよならなんて、わたし、どうしたら』

「井原さん、落ち着いて」

『それで、先輩、それでね……あ、あの、先輩からもらった、くまをからかわれたんです、いちばんさいしょに先輩からもらったあのくまを、これも身体売った金で買ったものなんでしょ、汚い、きたないって……ちがう、ちがうんです先輩』

「井原さん」

『引きちぎられて、捨てられて、踏まれて、蹴られて、どぶに、落ちちゃったんです、あとで必死に探したのに、見つからなくて』

「……」

『見つからなくて、見つからなくって……っ!』

「井原美夜っ!」

 彼女の言葉が止まった。代わりに、すすり泣く音が聞こえる。

 俺はポケットのなかの三万円を握りしめた。ぐしゃ、と紙がひしゃげる感覚がした。

「いまどこにいるの」

『え、駅前、です……』

「そこにいて」

『え……どうして——』

「いいからっ! すぐ行くから待ってて!」

 がちゃり!と受話器をたたき置いた。電話機の横に置いてあるメッセージに、母さんあてのメモを残す。あらかじめ考えてあった文章は、いざというときにすんなりと書くことができた。俺は急いで自分の持ちものがある部屋まで戻り、かばんやらなにやらをひっつかんだ。そのときに視界に入った「それ」も、つかみ取ってかばんにぶち込む。靴をはいて雨にかすむ外へ飛び出した。

 こんなふうにこのときを迎えるとは思わなかった。いまの俺たちにはもう時間がない。クラスメイトから教師に告げ口されたら、一発で退学になる。さらにすぐに彼女の親戚に連絡がいくだろう。彼女は「もうこの街にはいられない」と言った。「援助交際をした女子高生」というレッテルを貼られた遠い親族の娘を、快く受け入れてくれる家族なんてなかなかいない。ましてや、少女を街なかで平気で罵倒するような、ちょっとおかしい人間だ。彼女が見限られてたらい回しにされるのは目に見えていた。

 退学。そしてたらい回し。

 俺たちにはもう時間がないんだ。いましかない。

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