3−8

 街は冷たい雨に煙っていた。

 空は薄暗い鈍色に沈み、地面に叩きつける雨が視界を霞ませている。風が木々をなぶる物々しい音が響く。台風が近づいているらしく、ふだんは人出で賑わっている街も、どこか物寂しい雰囲気に包まれていた。

 バイト先のコンビニにも人が来なかった。ふだんからたいして来客はないのだが、その日はとりわけやることがなかった。でも、俺は黙々と仕事をこなした。レジでひまそうに頬杖をついている森屋先輩から「まじめに働いてる高科気持ち悪ぃ」と気味悪がられるほどだ。

 商品をひとつひとつていねいに陳列しながら、俺は言葉を返す。

「失礼な。森屋先輩、俺はいつでもまじめですよ」

「そうだっけっか」

「ええ。まあ、前よりもっとまじめになったかもしれません。俺は労働の喜びに目覚めたんです。これからはもっともっと、真面目に働きますよ」

「ふうん」

 米粒ほども興味なさそうに、森屋さんが返事をした。じゃあ聞くなよ、とよっぽど突っ込もうかと思ったが、俺は手元の作業に集中した。いまはそれどころではないのだ。まじめに仕事をして、お金を稼がなきゃならない。

「おまえのことだから、どうせほしいゲームがあるとか、そんなとこだろ」

「……」

「安紗子は買ってくれないもんなあ。そしたら自分で稼がなくちゃな」

「そうですね」

「労働は日本国民の義務だもんな。感心感心。私のぶんまで働いてくれたまえ」

「先輩も働いてくださいよ」

「私はとある能力が欠如しているから労働できないんだ」

「なんですか、その能力って」

「やる気を出す、という能力だ」

「ただのダメ人間じゃねえか」

 森屋さんがけらけら笑う。

「まあ、先輩が働かなくたって俺に実害はないですからね。店長にバレても先輩の給料が減るだけだし」

「見捨てんのか、ひでえやつだな」

「俺はゲーム買えればそれでいいんです」

「なるほど。職場の先輩も後輩想いだし、働きがいがあるな」

「そうですね」

 横殴りの風がコンビニのガラス窓を揺らす。不安定な俺の心は、その暴力的な風に右へ左へ揺れる。

「じゃあさ、高科」

 森屋さんが声を落として言った。

「おまえ、なんで目ェ死んでんだよ」

 商品を並べる手を止めて、俺は窓の外を見つめた。アスファルトの地面は砕けた雨粒で霞んでいる。

「おまえ、なんか変だぞ。ここ何週間か、すげえ無理してシフト入れてるみたいだし、馬鹿みたいに金稼ぐことしか考えてねえだろ。その割には、なにかを目指して精を出してる感じじゃない。おまえ、べつにほしいゲームなんかないだろ」

「……」

「ほかにやるべきことが見つからなくて、しかたなく金を稼いでる気がする。高科、なんかあったのか」

 俺は手に持っていた商品をかごに戻して、森屋先輩を見た。やたら勘のいい先輩にこれ以上悟られないように、つくり笑顔を向ける。

「いやだなあ、なにもないですよ。俺は大丈夫です」

 先輩は頰についていた手を放し、ゆっくりと立ち上がった。

「大丈夫か、なんて訊いてねえんだけど。なあ、高科。ほんとうに大丈夫なやつは、自分から大丈夫だなんて言わねえよ」

 俺は先輩から目を逸らした。今日の森屋先輩はいやに勘が鋭い。いや、もとからこういう人だったんだ。大学を中退してこんなコンビニバイトで食いつないでいるような、労働どころか人生に対してやる気のないような人だと思っていたけれど、この人の観察眼、洞察力を見くびってしまっていた。そんな勘の良さを持っていたから、この人にこれまであの件を相談してきたんじゃないか。

 先輩が口を開く。

「……あの話か」

「……」

「援交がどうとか、外国がどうとか」

 先輩の話が核心に迫っても、俺はどこか「どうでもいい」とさえ思っていた。なにせ、もう関係がないのだ。井原美夜の話が森屋先輩にばれたところで、もうなにも関係ない。むしろ好都合じゃないのか。面倒くさい隠しごとが減って、俺も気が楽になる。

 話してしまおう。

 俺はそう決心した。

「……森屋先輩」

「あ?」

「話したいことがあるんです」



 井原美夜という少女の話。

 彼女の立たされた処刑台みたいな境遇の話。彼女の両親の話。

 アイルランドの星空の話。彼女を救う三万円の話。

 そして、先日起こった、あの親戚との話。

 長いながい物語みたいな俺の話を、先輩はずっと黙って聞いていた。だれか客が来たらすぐに戻るという前提で休憩室で話をしていたが、俺の話のあいだじゅう一度もコンビニの利用客はなかった。こんな嵐の日にこんなちいさなコンビニに来る物好きなんていないんだ。

 休憩室には、やはり先輩のくゆらせる煙草の煙が、ぐるぐると渦巻いていた。俺はその煙草の先に光る火を見つめながら、絞り出すように言葉を紡いだ。俺が話の合間にする息継ぎとおなじタイミングで、先輩はふう、と煙草の煙を吐き出した。話の場面が切り替わると、おなじように彼女は煙草の火を消し、また新しいものにマッチをかざした。ふたりの目の前の灰皿には、時がたつにつれ吸い殻が増えていった。

 ぜんぶ話した。

 ほんとうにぜんぶ。

「だから俺には、三万円が必要なんです」

 俺が最後にそう言うと、先輩は手許の煙草を灰皿の縁に置いた。ゆらゆらと紫煙が立ち上る。休憩室はまだら模様の静寂に包まれる。壁掛けの時計が刻む針の音だけが、俺の心臓の鼓動と共鳴して、とくん、とくんと音を響かせている。

「……美夜ちゃん」

 長いながい静寂のあと、先輩が口を開いた。彼女の名前を呼ぶ声に、どこか懐かしむような、慈しむような響きがあった。先日コンビニで出逢ったときのことを憶えているんだろう。俺の心臓はきりきりと締め付けられる。

「で」

 先輩が低い声で言う。

「おまえはその金で、彼女——井原美夜の身体を買うのか」

 灰皿の上の煙草の先から、ほろりと灰がこぼれ落ちる。

「『わたしの身体を買ってください』って言う、彼女の言葉を真に受けて、彼女の言いなりになって」

「……」

「本気で言ってんのか。おい、高科。答えろ」

「……本気です」

「馬鹿じゃないのか」

 先輩は俺をじっと見据えた。

「女の身体買うために、必死になって金貯めてたって言うのか。ふざけんな。反吐が出る。正真正銘のクズが。もうおまえの顔なんか見たくねえよ。私の前からいますぐ消えろ」

 吐き捨てるように先輩は言った。俺はなんだかめちゃくちゃ腹が立って、その言葉に無責任に言い返す。

「なにが悪いんですか。俺が三万円を払えば、彼女は行きたい場所に行けるんです。世界一きれいな星空へ、『わたしの場所なんです』っていうところへ。俺だって……俺だって、かわいい女の子とやれて、満足ですよ。一石二鳥じゃないですか。俺も彼女も、どっちも望むものが手に入って。それのなにが悪いんですか? 森屋先輩にそんなふうに言われる筋合いは——」

 そこまで一気に言ったとき、脇腹に強い衝撃を感じた。自分の身体が横に吹き飛び、ロッカーに叩きつけられたのがわかった。森屋先輩が思い切り俺を蹴り飛ばしたのだ。無様に床に倒れ、腹の底からこみ上げる不快感に思わずむせ込んでいると、先輩が歩み寄って来て俺を見下ろす。

「高科」

 先輩が言う。「それ以上くだらねえこと抜かしたら本気でぶん殴るぞ」

 もうとっくに本気で蹴り飛ばしてんじゃねえか、と文句を言おうとしたのに、開いた口から出て来たのはべつの言葉だった。

「だって、こうするしかないじゃないかっ! 無力な俺には彼女を救えなかった! 彼女は行ってしまったんだ、もうその手を掴めない、届かない! 手遅れなんだよ! なにもかも、ぜんぶ手遅れなんだ!」

 俺は出せるだけの大声を絞り出す。

「俺だって彼女を助けたかったですよ、あのメッセージを受け取ってしまって、彼女のぎこちないつくり笑顔とほんとうの笑顔を見てしまって、彼女の境遇を知ってしまって、そんななかでもたくさんの約束を重ねて、せっかくここまで来たのにっ、ぜんぶ、ぜんぶなくなってしまった! 彼女はなにも悪くない、悪くないのに、なのに——」

 俺は床についていた手を動かして、手許にあったなにかを怒りに任せて思い切り遠くへ投げつけた。たぶん中身のほとんどなくなった飲みかけのペットボトルかなにだったんだろう。壁にぶつかったそれは、がたん、と音を立てて床に転げ落ちた。その一部始終を見ても森屋先輩は顔色ひとつ変えない。

「こうなってしまったんだ、俺が不甲斐ないせいで、金がないせいで、力がないせいでっ! だからこうするしかないんです、俺が死に物狂いで金を稼いで、彼女の身体を買って、そうすれば彼女は望むものが手に入る、この退屈で窮屈な世界から抜け出して、それで、それで……くそっ……それで、彼女は、救われる!」

「黙れ」

 森屋先輩が俺の胸ぐらをつかむ。うぐ、と俺は呼吸ができなくなる。

「こうするしかない、だって? ぜんぶ手遅れだって? ……おい、高科、私はそんなこと訊いてねえんだよ」

 身じろぎをして、なんとか空気を取り戻した俺は、じっと目の前の森屋先輩をにらんだ。先輩もまた俺をにらみつけている。

「不可能だとか、手遅れだとか、おまえが無力だとか、そんなことくらいわかってる。わかってるんだよ。でもなあ、高科、いいか? そんなことはいま、どうでもいいんだよ」

 浅い呼吸を繰り返しながらにらみ返す俺に、森屋先輩は言う。

「おまえは、どうしたいんだ」

 胸ぐらをつかむ先輩の拳にぐっと力が入ったのを感じた。

 おまえは、どうしたいんだ。

 おまえは……俺は?

 俺はどうしたいんだ?

 不可能だとか、手遅れだとか、無力だとか、そんなことはどうでもよくて、俺は、どうしたいのか?

「おまえにとって、美夜ちゃんは、」

 森屋先輩の声が低くなる。

「たいせつな子なんだろ。ずっといっしょにいたんだろ。美夜ちゃんがいま苦しんでんだろ。そんなときにおまえが思うのは、『こうするしかない、しょうがない』っていう諦めなのか? なあ、聞けよ高科、おまえはほんとうにそれでいいのか? 美夜ちゃんのメッセージに対するおまえの答えは、彼女の身体を買うための三万円なのか? おい、ちがうだろ、そうじゃないだろ……そうじゃないだろ高科章ッ!」

 森屋先輩が叫んだ。俺がこの話をしてから、先輩ははじめて声を荒げた。俺はまるで、その言葉で自分の心臓を直接ぶん殴られたみたいに、図太い針をぶち込まれたみたいに、動くこともできず、なにも言うことができなくなった。

 俺は、どうしたい?

 井原美夜という女の子が、処刑台に立たされて、十字架を背負わされているこの瞬間に、俺は、どうしたい?

「……」

 不可能だとか、手遅れだとか、無力だとか、そんなことはどうでもよくて。

「俺は、」

 受け取った七文字のメッセージに対する答えとして、重ねてきたいくつもの約束の果てに。

「俺は」

 井原美夜という女の子のために。

「俺はっ」

 俺は、どうしたい?

 ……そんなの、決まってるじゃないか。

「井原さんを救いたい。彼女に悲しんでほしくない、苦しんでほしくない、泣いてほしくない。もっときらきらした世界のなかで」

 俺は言った。「笑ってほしい」

 森屋先輩がつかんでいた胸ぐらを放した。ようやく取り戻した空気を思い切り吸い、無様にせき込んで床へ這いつくばる。

「……でも、どうすれば、いいんですか」

 どうすればいいんだ。ずっと前からそう思っていたのに、できないからこうなってしまったんだ。彼女はもう深海のなかに沈んでしまった、自分の境遇に絶望して、生い立ちに失望して、光を失ってしまったんだ。

 森屋先輩が席に戻り、最後の一本の煙草に火をつけた。

「なあ、おまえ、そもそもちがうと思わないのか?」

 俺に問いかけを向けてくる。俺は眉根を寄せて先輩を見た。そもそもちがう? なにが?

「……あの子のおばさん、ちょっとおかしいんだろ。いままでずっといっしょにいた女の子の言うことじゃなくて、わけわかんねぇうるせえババアの言うこと信じるのか。まさかおまえ、本物の馬鹿だったのか」

 俺は思わず息を吸い込んだ。

 そうだ。あの親戚との邂逅を、幻想であったら、悪夢であったらと願ったのは、ほかならぬ俺だ。じゃあなんで俺は、あれが現実のことだと信じたんだろう。

 あの出来事自体の話ではない。

 あの親戚が言っていたことの話だ。

 おかしいおばさんの言っていたことは、そもそもほんとうの話だったのか?

 そうだ。俺がそれを真に受けてどうするんだ。森屋先輩の言うとおりだ。俺は本物の馬鹿だった。

「美夜ちゃんを救えるのは、もうおまえしかいないんだ。おまえが、彼女を、信じてやれ」

 先輩は俺のおでこに指をあてて、とんとん、と軽く叩いた。「俺の母さんが外国に逃げたがっている」というたとえ話の相談をしたときと、おなじ仕草だった。

 あの日あのとき、森屋先輩が言ってくれた言葉を思い出す。

 ——そうだ、考えろ。おまえのその足りない頭でせいいっぱい考えろ。自分になにができるのか、自分はなにがしたいのか、後悔しないよう、ぜったいに中途半端にならないよう、おまえの頭で、考えろ。

 いまこそ、本気で考えるべきときだ。井原さんの両親が不倫したあげく娘を捨てて行方不明になったのではなく、彼女の信じていたとおり交通事故で亡くなったんだと証明するには。そしてそれを、彼女に届ける方法は。

 考えろ、考えろ——。

 「……」

 ——ちょうど十年前の七月のことでした。

 ——交通事故だったみたいです。お母さんたちが運転してる車にスピード違反の車が突っ込んできて、ふたりはすぐに病院へ運ばれて、でも助からなくて。

 ——『たったひとつの冴えたやりかた』。

 ——この街の市立図書館で、よく借りて読んでるんです。

 十年前の七月。交通事故。この街の市立図書館。たったひとつの冴えたやりかた。

 ……そうだ。どうしてもっとはやく気づかなかったんだ。

「先輩」

「あ?」

「用事を思い出しました。今日のバイト、サボっていいですか」

 俺がそう言うと、先輩はあきれたように溜息をついた。わざとらしい仕草だった。森屋先輩はほんとうはあきれてなんかいない。それを証明するかのように、俺の背中を思い切りたたく。

「いってえ!」

「労働の喜びに目覚めた、とか言ってたやつがこれだよ」

 なんだよ、けっきょく本気でぶん殴ってんじゃねえか。文句の代わりに先輩を見据えると、先輩は不敵に微笑み返してくれる。

「行け。店長への言い訳は、私がなんとかしといてやる」

「……ありがとうございますっ」

 俺は荷物をまとめながら、この人には敵わねえな、と思った。森屋先輩のこの厚意のためにも、俺は全力でやらなければならない。

 井原美夜を、この手で救うために。

 コンビニを出ると雨脚はさらに強まっていた。冷たく煙る街のなかへ、俺は駆け出した。

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