3−7

 その日以降、俺はお金稼ぎに必死になった。コンビニバイトのシフトを増やしたり、求人情報誌から日雇いのバイトを探して登録したりと、ひたすらお金を貯めつづけた。母さんから「あんたどうしたの……」と訝しまれたが、俺は「実は欲しいゲームがあるんだ」で貫き通した。家庭用ゲーム機なら三万円くらいで買える。俺が小さいころ「プレステ(プレヌテではない)」をクリスマスプレゼントにねだったことがあるから、母さんもその値段の感覚は覚えていたんだろう。その理由を聞くと、「なんだ、あんたはやくそう言いなさいよ。疑って悪かったわ」と納得してくれた(ほんとうに納得したのかはわからないが、少なくとも納得した体を取り繕ってくれた)。それでも家計に多少は補助を入れないとならないから、俺が自由に遣える金額には限界があった。

 あの歓楽街にも行かなくなった。書店で立ち読みする時間もバイトの時間に充てたので、書店に行かなくなったのだ。書店に寄らなければ裏通りの工事現場にも行かなくて済むし、そこを迂回して歓楽街にも行かなくなる。井原美夜の援交現場を目撃することもない。

 そして、井原美夜の姿を学校で見なくなった。

 いつもであれば、あの宇宙のような漆黒の長い髪を、学校の廊下で見かけることがあった。彼女はいつも、だれに話しかけるでもなく、だれかに話しかけられるでもなく、しずかにうつむいて歩いていた。生徒たちの活気溢れる校舎のなかで、まるでそこだけ光が当たっていないみたいな漆黒の長い髪を揺らして、その影に表情を隠して、彼女はひとり歩いていた。

 でも、あの日以来、彼女の姿を見かけることがなくなった。学校に来ていないか、学校には来ているけれども授業に出ていない——たとえば保健室登校とか——かもしれない。どちらにしても、俺の前に姿を現してくれることがなくなった。まあ、どうせこの学校に彼女の居場所はないんだ。いずれアイルランドに行く彼女にとって、この学校の居場所なんて必要ない。

 電話にも出なかった。彼女がくれた090からはじまる十一桁のケータイ番号。そこに何度かけても、彼女は電話に出てくれなかった。きっと三万円もまだ貯まってないやつに用事なんてないんだ。

 あの日あの時から、俺たちの時間は止まってしまったみたいだった。彼女は処刑台に立たされたままなのだ。十字架にかけられたままなのだ。俺に救い出すことなんてできない。俺にできるのは、電話口でむなしく鳴り響くコール音を聞き続けることと、一年一組の教室付近をうろつきながら黒髪の影を捜し続けることだけだ。そして、彼女がつけた自らの価値、三万円という金額を貯め続けることだけだ。

 なにやってんだ。

 あの七文字のメッセージを受け取っておきながら、「きみを助けたい」って言っておきながら、けっきょくなにもできないじゃないか。


   ○


 あれから何週間かたった日の朝、教室へ入るとなにやら騒がしい。クラスメイトたちがそれぞれ荷物を置いて教室を出る準備をしている。寺本たちに「おっす」とあいさつをしてなにごとか訊ねると、彼らは興奮気味に言う。

「いまから臨時の全校集会だと。体育館に召集がかかってる」

「もしかしてあれじゃね? また援交の話じゃね?」

「ああ、寺本が言ってたやつ。だれだっけ、ほら、一年の天文学部」

「イハラミヤ?」

「そうそう」

 俺は体の内側から死んでいくような感覚がした。教室を見回すと、ほかのクラスメイトたちもおなじように、声を落としながらも興奮気味に話し合っている。

 きっと全校生徒たちが、こういったゲスな詮索をしているんだろう。その噂話は、もしかしたら嘘のものもあるかもしれないし、もしかしたらほんとうのものもあるかもしれない。どっちにしたって、そのなかに彼女を救う言葉はない。どうしようもなく彼女を貶めて傷つけて、深いふかい夜の底に突き落とすような言葉たちだ。

 俺は自分の席に荷物を置き、すぐに教室を出て行った。寺本たちの「おい、どうした高科?」という問いかけを背中に浴びながら、俺は体育館へ急いだ。

 体育館に全校生徒が集まると、うやうやしく校長が前へ出てきて話をはじめる。あいかわらず眠気を誘う魔術のような話ぶりだったが、退屈そうにしている生徒はほとんどいなかった。彼らはみな一様に、クソみたいな好奇心を目に宿して話を聞いていた。ゲスな詮索話にくべる燃料を仕入れるために。

 そんなことしてなにになるんだ。おまえらみんな、彼女のほんとうの気持ちがわかるのか? 彼女を真っ暗な闇から救い出す方法がわかるのか?

 わかるわけがない。なにせ、俺にだってわからなかったんだ。あんなに必死で考えて、足りない頭を振り絞ったって、彼女が昏い深海へ息を殺して沈んで行くのをじっと見つめるしかなかった。

『えー、当校に援助交際を行なっている生徒がおるとの情報提供をぉ受けましてぇ、えー、先日の臨時集会でもお伝えのとおり、心当たりのあるものは申し出るようにと、忠告をいたしましたがぁ、えー、誠に遺憾ながら、申し出てくる生徒はおりませんでした』

 体育館はしんと静まり返っている。だれもがみな、ふだん聞かない校長の話を真剣に聞いている。

『先日また新たに目撃情報をいただきましてぇ、当校としましてはもはやこれ以上看過しかねるという職員会議での結論に至りましてぇ、これが最後の、えー、最後の通告となりますがぁ、心当たりのものはすみやかに申し出ること。しかし、再三の忠告にも関わらず申し出ないまま、どの生徒か発覚した場合、その生徒は、えー、誠に遺憾ながら、退学と、させていただきます』

 一気にざわめく全校生徒。「退学だってよ」「うそだろ」「やばくね?」「ていうかまじでだれやってんの?」「じつは俺聞いたことあんだよね」「まじで」「教えろよ」教師たちが「静かにしろッ!」といくら注意しても、そのざわめきはおさまらなかった。

 井原さんは今日、学校に来ているんだろうか。この体育館にいるんだろうか。この話を聞いているんだろうか。

 退学。

 そうなれば名実ともに、この学校に彼女の居場所はなくなる。

 でももうそんなことは関係ない。この学校で起きていることなんて、彼女にはもう関係ない。俺が差し出す三万円で、彼女は遠いとおい場所に行ってしまうのだから。

 いっそのこと俺がばらしてしまおうか、とさえ思った。俺が三万円を貯めて、彼女の身体を買って、そのまま学校にばらしてしまおうか。

「……馬鹿じゃないのか」

 俺はそう独り言を漏らす。

 もうわからなくなってしまった。俺はなにをすればいいんだ? いままでなにをがんばっていたんだ? そもそもなにを望んでいたんだ?

 わからない。

 もうわからないんだ。

 ただひとつわかるのは、俺の世界は光を失った、そんなクソみたいな真実だけだった。



 もうすぐ三万円が貯まる。

 俺は彼女を、井原美夜を——。

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