光を

3−6

 近くの警察署の小さな部屋で事情聴取を受けたが、まだ未成年だったことや、気が動転していたがいまは落ち着いていること、警察官や駅員の言葉にすなおに応じていることなどから、今回は「厳重注意」で済んだ。ただ、「どうしてこんなことをしたのか」という質問にだけは、答えることができなかった。

 どうしてこんなことをしたのか——どうしてこんなことになってしまったのか、自分でもわからないのだ。

 俺はただ、井原さんとロック熊のアンテナショップへ行って、彼女の「やばいかわいい」に洗脳されて、グッズをひとつ買って、彼女と指切りをして、本の話をして、彼女の居場所の話をして、「彼女を助けたい」と改めて思って……そしたら彼女の親戚に遭遇して。気づいたらこんなところにいたのだ。どうしてこんなことになったのかなんて、俺が訊きたい。なあ、だれか答えてくれよ。どうして俺はいま、こんな狭苦しい部屋で、ただ黙って拳を握りしめていてるんだ? どうして俺のとなりにいたはずの井原さんが、どこにもいないんだ?

 迎えに来た母さんは、俺になにも言わなかった。警察官に頭を下げて、駅員にお詫びを言って、無言で俺を引っ張っていった。警察署を出て、通りをひたすら歩いた。俺はただ、ぼおっとしながら母さんのあとをついて行った。

 外はもうすっかり暗くなっていた。この世界にまた夜が来たんだ。蒸し暑い夜だったが、不思議と汗は出なかった。俺の体のなかにあった熱も水分もなにもかも、無慈悲な月に奪われてしまったみたいに。

「……章」

 ふと母さんが口を開いた。大きな川にかかる橋のたもとに差し掛かったあたりだった。

「なんかあったの」

 俺は口をつぐんだまま、橋の下の川に目をやった。暗くてよく見えないが、水がごうごうと流れる音が聞こえる。

「きっぷ代くらい払いなさいよ。百円二百円でしょ、そんな額ケチっておまわりさんのお世話になるほど、あんた困ってたの? 改札強行突破するくらいなら母さんに言いなさいよ、そのくらい出してあげるわよ」

「……ちがうんだ」

「なにがちがうの」

 街の明かりを反射して、川の水面がきらめいている。

「三万円、なんだ」

「はあ?」

 母さんが振り返って俺をにらみつけた。

「なにそれ」

「なあ、母さん」

 俺も母さんを見つめ返す。「三万円、貸してくれよ」

 橋の車道に行き交う車のライトが、俺たちの影をつくったり消したり、つくったり消したりしている。

「なにに遣うの」

「言えない」

「……どういうこと?」

「言えないんだ。お願い、いいから貸して」

「あんたふざけてんの? いいわけないでしょ? うち貧乏なのわかって言ってんの? そうでなくても高校生からしたら三万なんて大金だよ? それなのに理由を言えないなんて、あんたまさか、ほんとうに悪いことしてんじゃないでしょうね」

 やや語気を荒げる母さんに、俺はすこし間を置いてから答える。

「人助けだよ」

「はあ?」

 そうだ、これは人助けだ。

 深いふかい夜の底に沈んでいく女の子を助けるために、彼女が遠い外国——「わたしの場所なんです」と言ったアイルランドに行くことができるように、彼女に差し出す三万円。それは、井原美夜という存在の値段。彼女が妥協し、みずからを定義して束縛した、彼女という人間の価値。

 俺が三万円を渡せば、彼女はアイルランドへ行けるのかもしれない。檻のなかのような退屈で窮屈な世界から逃げ出すことができるのかもしれない。

 そう、俺が彼女の身体を買えば。

 それしかない、と思った。

 俺にはもう、それしかないんだ。足りない頭でいくら考えたって、答えにたどり着くなんてできなかった。逆転満塁ホームランみたいなとびきりの案なんて、ちっとも出てきやしなかった。井原美夜を深いふかい夜の底から救い出すには、彼女が「世界一綺麗な星空」を見るために俺にできることは。彼女の身体目当てで並んでいるクズ野郎どもの、その列の最後尾につくことだ。三万円を握りしめて、自分の番を待つことだ。その三万円はいずれ彼女の役に立つ。

 だから、これは人助けだ。

「……人助けなんだ」

 俺はもういちど言い、自分にそう言い聞かせながら、母さんの言葉を待った。母さんは大きな溜息をついたあと、あきれたようにこう言った。

「……なんだかよくわかんないけど、ふざけてはないみたいね」

 俺は唇を噛んでうなずく。

「章。ほんとうにそのひとを助けたいんなら、自分の稼いだお金で助けなさい。あんたが本気で稼いだお金で助けるからこそ意味があるのよ。だれかに甘えちゃだめ」

 甘え。

 そうだ、甘えちゃだめなんだ。

 ——わたしは先輩にこれ以上甘えるわけにはいかないんです。どんなに苦しくても、つらくても、わたしはわたしの場所で花を咲かせなければいけないんです。

 井原さんは、自分の置かれた場所で、自分の力で、自分の花を咲かせようとしているんだ。俺も自分自身で、井原さんを救い出す力を手に入れなければならない。

 でも、三万円なんて本当に稼げるんだろうか。

「……はやく行くよ」

 母さんがそう言うので、俺はとめていた足をふたたび動かす。

 三万円を用意するためには、ひたすらバイトをがんばるか、錬金術でも修得するしかない。お金を稼ぐことがどんなにたいへんか、俺は身にしみてわかっている。

 だから、彼女はあんなに苦しんでいるんだ。メモに助けを求めるメッセージを残しておきながら、そこに差し伸べられた手にも媚を売らないといけない。切れかけの照明に照らされた深い夜の底で、口角をひん曲げてむりやり笑わなくちゃいけない。その事実をあらためて思い知って、俺はどうしようもなく——悲しくなった。

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