3−5
遠い親戚。
ちょっとおかしいおばさん。
いま俺の目の前にいる、井原さんへ鋭利な視線を向けている女。
このひとが。
「出かけるなんて一言も言ってなかったわよね。なのにここにいるなんて、どういうこと?」
その親戚はゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。俺は突然の出来事に気が動転し、その親戚のまとう雰囲気に気圧され、一歩、また一歩と後ずさった。井原さんと並ぶと、彼女の顔が苦痛に歪んでいるのが見えた。
外出していると言っていた、遠い親戚のおばさん。
まさかこんなところで、鉢合わせするなんて。
「もしかして約束破ったわけ? あたしに嘘ついたわけ? はあぁ、ありえないんだけど。ありえなくない?」
井原さんはうつむいた。胸のあたりでレモンイエローのバッグのひもを握りしめる両手に、黙ってぎゅっと力を込めている。
「あんた聞いてんの? は? 無視?」
「……」
「へえぇ、あんたそういう態度なんだ。ねえ、だれのおかげで生活できてると思ってんの? ちゃんと住むところがあって、まいにち夕飯にありつけて、そういう『ちゃんとした高校生』をあんたがやれてるの、だれのおかげだと思ってんの?」
「……」
井原さんはなにも答えない。すると、鋭い視線は俺のほうに向いた。俺は思わず生唾を飲み込む。
「その男、だれ? もしかして彼氏? ……余裕ぶっこいてていいわねえ。お世話になってる親戚のおばさんに嘘ついて、自分はデートで男とよろしくやってんだもんねえ。腹立つわねえ……なんとか言ったらどうなの?」
「あ、あのっ」
思わず声をあげてしまった。しかし、その親戚はすぐに俺をにらみつける。そして笑顔を浮かべながら、言い放った。
「あなたは黙ってていいの」
いままでの詰問するような口調とは違う、猫を撫でるような声。即席で貼り付けたような不気味な笑顔。俺に対してそんなふうに声と表情を取り繕ったって、もう手遅れなのに。井原美夜を追い詰めようとしている一部始終を、こうして俺の目の前で演じているくせに。
井原さんが彼女のおばさんに対して言っていたことを思い出す。
——わたしのおばさん、ちょっとおかしいんです。わたしのこと、ほんとうに気に入らないみたいで。家のなかで目が合えばいつもにらまれるし、街なかでも平気でわたしのこと罵倒してくるし。
このひとは、俺になんか興味がないんだ。いまはもう、井原さんを追い詰めることだけしか頭にないんだ。
まわりのことなんか、どうでもいいんだ。
ぞっとした。
「親が親なら子も子だねえ。ほんっと、ロクな人間がいないよ」
わけのわからない言葉を吐き散らすその親戚に、井原さんがついに口を開いた。
「……ど、どういうことですか」
「は?」
「お……『親も親なら、子も子』だとか、『親子そろってろくでもない』、とか……どういう意味、ですか」
絞り出すような井原さんの問いかけに対して、その親戚はあきれたように溜息をついた。そして言う。
「おたがいの不倫で離婚して、自分らの子どもを厄介払いみたいにあたしらに押し付けるような、あんたの親のことよ」
「……っ」
井原さんの呼吸が止まったのを感じた。俺も思わず目を見開く。
おたがいの不倫で離婚?
厄介払い?
どういうことだ。井原さんが言っていたことと話が違う。十年前の事故で亡くなったんじゃなかったのか?
「ああ、知らなかったんだっけ。あんたの両親、両方の不倫が原因で離婚して、いまはどっちも行方がわからないのよ。親戚のあいだじゃあ交通事故ってことになってるらしいけど。まあ、世間さまの目を考えたら、そういうことにするのも当然よねえ」
俺はうつむいてしまった。井原さんの表情をこの目で見届ける勇気がなくなってしまったのだ。いったいどんな想いで聞けばいいんだ。ていうかなんだよこれ。どういうことだよ。タチの悪いドッキリか、それとも精巧にできた悪夢か?
ただの夢だったらどんなによかったんだろう。いくら頭を振り乱しても、いくら目をこすっても、目の前からあの女の幻想は消えない。
「ちょっとおかしいおばさん」の話は聞いていた。でもこれは尋常じゃない。
彼女が立っている針山の大きさを確かめる、だなんて思っていた俺は馬鹿だったんだ。これは針山なんかじゃない。まるで処刑台じゃないか。十字架じゃないか。井原美夜という女の子は、これまでずっとこんなところに立たされていたのか? こんなものを背負わされていたのか?
「はあぁぁマジで腹立つんだけど。もういいわ、あたし疲れたから帰るわ。買い物して帰ってあのクソジジイの餌つくんなきゃいけないし。美夜、あんたの夕飯なしでいい?」
「……」
「チッ……なんとか言えっての。あいかわらず陰気くせえ娘だなあ、まいにち顔見るこっちの身にもなれよ」
そう吐き捨てて、その親戚は行ってしまった。
ふたりは駅の喧騒に残される。俺はようやく井原さんのほうを見た。けれど、彼女のうつむいた顔は漆黒の長い髪に隠れ、その表情を知ることはできない。
永遠にも思えるような沈黙のあと、彼女が口を開いた。
「先輩」
「……」
「……先輩、わたし、やっぱり、だめみたいです」
鉛の塊みたいな真っ黒な言葉が、ぼとり、ぼとりと彼女の足許にこぼれ落ちる。
「……井原さん」
「わたしがこの世界に生まれたときから、きっと運命は決まっていたんです。不倫して別れた両親から生まれたわたしは、その両親から捨てられたわたしは、知らない男のひとと寝て、それでお金もらって。わたしはそういう人間なんです」
夕陽が墜ちていく。
西の空は戦火に灼かれているかのように真っ赤に燃え上がる。
俺の世界のすべてが、真っ暗な闇に染まっていく。
それを示すかのように、井原さんの姿が目の前で真っ黒になった。彼女はなにかを言って、俺のもとから去って行こうとしていた。翻した彼女の身体で、漆黒の長い髪が舞う。
もうすぐ夜が来る。
彼女はまた沈んでいくんだ。ピンク色にきらめくネオンや切れかけの照明に照らされた、深いふかい夜の底へ、彼女は息を殺して沈んでいこうとしている。
そのまま見えなくなるのが怖くて、俺は彼女の手を取った。
「触らないでっ!」
彼女が叫んだ。俺は驚いて手を引いてしまった。
「わたしに触ったらだめです」
「……意味わかんねえよ」
どうして。
さっきはあんなにうれしそうに、指切りで手を取ってくれたのに。
「汚れているからです。もしわたしに触るなら……三万円、払ってください」
三万円。
それは、井原美夜という存在の値段。
彼女が妥協し、みずからを定義して束縛した、彼女という人間の価値。
「高科先輩お願いです、わたしの身体、三万円で買ってください、わたしをアイルランドに行かせてください、もうすぐほしい額が貯まるんです、だから——」
井原さんが言った。「——お願いです、先輩」
彼女は俺の目を見てくれない。そして俺もまた、彼女の目を見ることができない。ふたりのあいだにある虚無をじっと見つめたまま、俺たちは真っ暗な深海の闇に沈んでいく。なにも見えない深海のなかで、俺はもう彼女の手を取ることはできない。
こんなに近くにいるのに。
近くにいるはずなのに。
俺にはもう、彼女の光は見えない。
「……三万円貯まったら、連絡をください」
ぼとり。
鉛の言葉を俺の足許に落としてから、彼女は行ってしまう。いまいましい駅の喧騒にまぎれて、びかびかに光る街の明かりに熔けて、彼女は行ってしまう。
……だめだ。
行っちゃだめだ。
行かないでくれ。
ここで行ってしまったら、
ほんとうにきみは、
これからずっとひとりぼっちだ。
そんなのいやだ。
だから、お願いだ、
行っちゃだめだ、だめだ、
だめだ——。
「井原さんっ!」
彼女はかばんから手早くICカードを取り出してかざし、改札を通り抜けた。俺がそのあとを追うと、耳触りな音を鳴らして改札機が俺の邪魔をする。
「くそっ!」
むりやり飛び越えようとする。しかし駆けつけた駅員たちに押さえられ、すぐに進路は断たれた。彼女の姿は駅の人混みにまぎれ、すぐに見えなくなってしまった。それでも俺は諦められなかった。真っ暗な深海で酸素を求めるように、光を求めるように、あがいて、もがいて、必死で抗った。
「きみッ、なにをしている!」
「やめなさいッ!」
「放してください、放して……放せよ!」
俺の絞り出す声が構内に響き渡り、行き交う人々が俺のことを横目ににらみながら歩いている。駅員がきっぷがどうとか、少年の身柄をどうとか言って話し合っている。やがて警察が来て、へたり込んだ俺を立たせて、俺をどこかへ連れて行こうとした。俺はそのあいだじゅうずっと、彼女の姿が消えた駅の雑踏を見つめていた。
俺の世界のすべては、闇に閉ざされてしまったのだ。
もうどうでもいい。
ぜんぶどうでもいい。
深海のなかで光を失った俺は、まるで呪いのようにそう繰り返しながら、遠くに浮かぶ月を見上げた。
もうすぐ夜が来る。
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