3−4

 彼女はその言葉を聞いて、はっと目を見開いた。ややあって、ゆっくりと視線を落とし、俺の視点からは彼女の目は見えなくなった。

「ご、ごめん」俺は慌てて言葉を繋ぐ。「へんな意味じゃないんだ。井原さんが親戚のところに居づらいなら、うちに来ればいいかな、って思って。うちには母さんがいるし、ほら、貧乏だけどさ、俺だってバイトしてるし、井原さんもふつうのバイトしてくれるならなんとかやっていけるんじゃないかって思って……どうかな?」

 彼女は答えない。ふたりのあいだに降りてくる沈黙が怖くて、俺は懸命に言葉を絞り出した。

「外国は、アイルランドへは連れて行けないけれど……でも、それがすべてじゃないと思うんだ。いまいる檻から抜け出すために、少しでも井原さんが笑顔になれるような場所にいられるように、俺、必死で考えたんだ」

 森屋先輩の言っていた言葉が、頭のなかにぐるぐるとめぐる。

 ——そうだ、考えろ。おまえのその足りない頭でせいいっぱい考えろ。自分になにができるのか、自分はなにがしたいのか、後悔しないよう、ぜったいに中途半端にならないよう、おまえの頭で、考えろ。

 考えた。俺は必死で考えた。

 針山のような遠い親戚の家から逃げ出させてあげたい、でもお金がなくて外国へは連れていけない、彼女の「居場所」をつくってあげたい、でも引っ越しなんかできない……しがない高校生の取りうる選択肢は、「自分の居場所に引き込んであげること」だった。高科家。血も涙もおまけに金もない家だけど、彼女が遠い親戚の家で窮屈な思いをしているよりはましだ。

 下心なんて一ミリもなかった。俺にとって、そういう次元の話ではないのだ。

 馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれない。ふざけるなと思われるかもしれない。でも、この差し伸べた手の存在に気づいてほしい。きみはひとりぼっちじゃない、ということをわかってほしい。

「高科先輩」

 彼女が言った。「やっぱり、先輩は変人さんですね」

「……そうかな」

「そうです。ふつう言いませんよ、好きでもない女の子に『いっしょに暮らそう』だなんて」

「っ……、井原さん、あのさ、俺」

「でも、やっぱりうれしいんです。先輩はいっつも、わたしの心の深ぁいところを、そっと暖めてくれるんです。真っ暗闇のわたしの世界を、ふわっと照らし出してくれるんです。いまだってそうです。わたし、それ聞いて、すごくすごく、うれしかったです」

「……井原さん」

「先輩」井原さんが俺をまっすぐに見つめる。「わたし、これ以上先輩に甘えたら、だめなんだと思います」

「甘える?」

「はい。わたしはいままで、先輩に甘えてきたんです。先輩はやさしくて、あったかくて、わたしのことたくさん気にかけてくれて。それだけでも充分なのに、わたしの居場所までつくってくれようとしていて。わたしには願ってもないことでした。暗い檻のなかに閉じ込められてきたわたしには、まぶしいくらいの光だったんです」

 店内のBGMは、もう聞こえなくなっていた。俺にとってこの世界のすべてが、目の前の女の子に集束しているように思えた。

「わたしの両親、事故で亡くなったんです」

「……うん」

「ちょうど十年前の七月のことでした」

 十年前。井原さんが六歳のときだ。小学校に入るか入らないかの年齢。そのころに、彼女は両親を亡くしていたのだ。

「交通事故だったみたいです。お母さんたちが運転してる車にスピード違反の車が突っ込んできて、ふたりはすぐに病院へ運ばれて、でも助からなくて」

 彼女はグラスを手に取り、口につけた。グラスのなかで溶け出した氷がドリンクと混ざり合い、不細工な渦をつくっている。

「わたし、そのときのことぜんぜん憶えてなくて、両親のこともあまり記憶にないんですけど……心のなかにずっと残っている言葉があって。わたしが幼いころから両親が言ってくれた言葉だったんです」

「……言葉?」

 俺が訊ねると、彼女はゆっくりとうなずいて、言った。

「『あなた自身の場所で花を咲かせなさい。しかたがないとあきらめるのではなく、咲くのです』……自分の置かれた環境を甘んじて受け入れるんじゃなくて、そこでせいいっぱい自分の花を咲かせること。地面から顔を出した植物もそこで花を咲かせるし、夜空に浮かぶ星たちだってそこで輝き続けるんです。わたしは自分の置かれた環境でせいいっぱい生き続けるんです」

「……」

「だから、わたしは先輩にこれ以上甘えるわけにはいかないんです。どんなに苦しくても、つらくても、わたしはわたしの場所で花を咲かせなければいけないんです」

「そんな……」

 俺は言葉につまる。井原さんが俺を見つめる瞳は、まるで宇宙の深淵のように深い藍色を映している。

「じゃあ、アイルランドは?」

 俺は言った。「海外に行きたいんだろ? 俺のうちに来るのと、たいして変わらないじゃないか」

「アイルランドは、わたしの場所なんです」

「どういう意味だよ」

「いずれ先輩にもお話しするときが来ると思います」

「……そうか」

 俺はうなずいた。

 しかたのないことだった。どだい無理な話なのだ。海外に連れて行けないからと言って自分の家に住まわせてあげる、そんなことできるはずがなかった。ひとりの女の子を暗い夜の底から引っ張り上げてあげるには、俺はあまりにも無力だった。

 井原さんはスマホの画面を見た。

「先輩、すみません。そろそろいいですか?」

 店内の時計を見ると、まもなく午後6時ごろになろうとしていた。あまり遅くなると、井原さんの親戚が帰ってきてしまうのだった。今日の外出は許可を得ていないので、ばれたら面倒なのだ。なにをされるかわからないのだ。

「ほんとうにごめんなさい、勝手なことばっかり言って」

「……いや、いいんだ。もとはと言えば俺がへんなこと言ったから」

「いいえ、先輩はわたしのために言ってくれたんですよね」

「……」

「行きましょう、先輩」

 俺たちは店を出た。夕方の駅はいまだに人で溢れかえっている。俺はとなりを歩く井原さんに歩調を合わせながら、考えごとをした。

 井原さんは強い子だ。

 そして同時に、なんて脆く儚く、弱い女の子なんだろう。

 自分の置かれた場所で、自分の力で、自分の花を咲かせようとしているんだ。亡くなった両親からもらった言葉を、その胸の内に秘めながら。心の叫びを託した七文字のメッセージを残しながら、「窮屈で退屈な世界から逃げ出したい」と言いながら、自分の花を咲かせようとしている。路傍の花のように、夜空の星のように、彼女はせいいっぱい笑おうとしている。

 井原美夜の、強いところと弱いところ。

 そんな矛盾ばかりの感情の共存が、等身大の彼女の心を映しているように思えた。



「先輩、今日はほんとうに、いろいろすみませんでした」

 駅の改札までの道すがら、井原さんが俺に言った。

「付き合ってもらっちゃったうえに、勝手なことばかり言っちゃって」

 そう言われて、俺は首を横に振る。

「楽しかったよ、ひさびさにいい休日だった」

 ふふ、と井原さんが笑う。

「わたしも楽しかったです。できれば、その……よかったら、またいっしょにお出かけしませんか?」

「もちろん」

「ほんとですかっ?」

 井原さんが飛び跳ねるようにはしゃいだ。「うそじゃないですよね? うそだったら先輩、どうなるかわかりますよね?」

「クマ100匹飲むんだろ?」

「いいえ」彼女は得意げに胸を張る。「1000匹です」増えてんじゃねえか。

「いいよ。約束だからな」

「指切りしてもいいですか?」

「ああ」

 彼女が俺の手を取り、小指を絡めた。そしてやさしくゆっくりと、その手を揺らす。

「じゃあ、うそだったら1万匹飲んであげるよ」

「うわあ、すごいですね! 1万匹ぜーんぶ、かわいいのを選んであげます!」

「でも買うのは俺なんだろ?」

「当然です」

 向かい合いながら、あはは、と俺たちは笑った。

 井原さんの笑顔を見つめる。俺の世界のすべてが、目の前の女の子に集束していく。わずらわしい駅の喧騒はいまや、まるでべつの惑星での出来事であるかのように、俺たちには無関係な出来事であるかのように、ふわりふわりとふたりのまわりを漂っては消えていく。

「井原さん、あのさ、俺」

 俺は言った。井原さんが「はい」と答えてくれる。

「やっぱり、どうにかして井原さんを助けたい。いまはなにもできないかもしれないけど、きっとすぐに、逆転満塁ホームランみたいなとびきりの策を思いついて、井原さんを助け出したい。だから、だからさ、井原さん。俺、これからもきみといっしょに——」

 そう言いかけたとき、彼女の表情が……一瞬にして凍りついた。まるでこの世の絶望という絶望を塗り固めたみたいに、いっさいの色彩が褪せてしまったかのように、時間が停止して未来のすべてを失ったと思えるほどに、俺の世界が凍りついた。

「美夜」

 俺のうしろからだれかが呼ぶ声が聞こえた。心臓の温度が一気に下がったのを感じた。声のしたほうを振り返る。そこにはひとりの女性が立っていた。見覚えはない。いったいだれだ。確かに井原さんの名前を呼んだ。陽光を遮る永久凍土のような温度で彼女の名前を呼んだ。

 この女はだれだ。

 俺の疑問は、井原さんの口から出てくる言葉によって融解する。俺は目の前の人物が何者であるかを知り、同時に、俺の世界のすべてが漆黒の闇に閉ざされてしまうことを知る。

 井原さんが言った。

「……おばさん」

 突き刺すように凍てついた双眸が、俺たちをじっとにらみつけていた。

「は? 美夜、あんたなにしてんの」

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