3−3
クマを買い終わった俺たちは店を出た。お互い小腹が空いたのとすこし疲れたので、カフェを探して入ることにした。大きな駅なので人も多いが、そのぶん店も多い。駅構内の一角にあるちいさなカフェへ、俺たちは席を取ることができた。
注文したカフェラテ(井原さんは季節限定甘夏のなんちゃらなんちゃらとかいう長ったらしい呪文をレジで唱えていた)を受け取って席へつく。椅子に座り込むなり、彼女は深く身体を椅子に預けた。
「ふう……」
「疲れたね」
「いえいえ、このくらい。でも、ちょっとはしゃぎすぎちゃいました」
「楽しそうだったもんな」
「もちろんです。かわいいくまも買えましたし」
井原さんはさっき買ったクマのストアの袋をながめる。その横顔は掛け値なしにうれしそうだ。見た目は大人びて見えるくせに、こういうところではほんとうに子どもっぽい振る舞いをする子だ。
「これは私服のかばんにつけます。学校用のかばんには、その……先輩からいただいたものがついてるので」
「そうだったね」
「はい、ヘヴィメタヴァージョンです」
「たいせつにしてくれてるみたいで、クマもきっとうれしいよ」
「それで……その」
井原さんがややうつむいた。「くまをかばんにつけはじめてから、クラスの子がすこしずつ話しかけてくれるようになったんです。『かわいいね』とか『どこで買ったの』って」
「ほんとにっ?」
俺は思わず声を上げた。井原さんはしずかにうなずく。
「わたしがまだ緊張しちゃって、ちゃんと話せないんですけど。でも、なんだかいままでとちがうんです。なにかが変わっているような気がして」
自分のほおが思わずほころんでいくのを感じた。彼女のその他愛ない報告が、なによりもうれしかったからだ。
彼女が「おもしろいことなんかひとつもない、檻のなかのような退屈で窮屈な世界」と形容したこの学校に、彼女の居場所ができつつある。
そして彼女が、神妙な面持ちで言う。
「最近、お金ももらってないんです」
「……そうか。そうかそうか」
俺はなんどもうなずきながら、「そうかそうか」と繰り返した。井原美夜という目の前の少女が、やっとひとりの女子高生としての輝きを取り戻しはじめているように感じた。
「……でも、どうして?」
俺の問いかけに、彼女は小首をかしげて言う。
「うぅん……さみしくないから、ですかね」
「どういうこと?」
「さみしくないんです。親戚の家に居場所はないし、相変わらず友だちいなくて学校は退屈ですけど……でも、さみしくないんです」
井原さんは顔を上げ、居住まいを正して言う。「高科先輩、ありがとうございます」
「どうして俺にお礼なんて言うのさ」
「先輩が見つけてくれたからですよ」
なにを、とは訊かなかった。そうだ、俺が見つけたんだ。あの日の図書室で、彼女の心のうちに秘められていた七文字のメッセージを、俺は受け取ってしまった。
「……どうしてあの本に、あんなメモを残したの?」
『天の光はすべて星』にはさんであったメモ。長年ほこりをかぶっているような海外古典SFを、彼女はどうして選んだんだろう。
「素敵な物語でした。宇宙への情熱を忘れられない年老いたおじいさんが、もういちど宇宙へ行くことを目指してがんばる……『夢』を追うって、あんなに素敵なことなんだなって。それに」
彼女は髪を手櫛で梳いた。店内をやわらかく照らす照明の光が、彼女の唇を濡れたようにきらめかせる。
「……タイトルが、きれいだなって思ってたんです。『天の光はすべて星』。真っ暗闇なわたしの世界とはちがう、きれいな光にあふれたお話なんだなって。このタイトル見たとき、はっとしたんです」
「俺とおんなじだ」
「そうなんですか?」
「ああ、俺もあのとき、図書室でおんなじこと思ったんだよ。『すごくロマンチックだなあ』なんて思って手に取ってみたら、あのメモがはさんであった」
「……本、お好きなんですか?」
井原さんが訊ねる。俺はおもむろにうなずいた。
「うち、貧乏だから。ゲーム機なんて買ってもらえないし、あんま友だちとも遊びに行けないからね」
俺の答えを聞いて、彼女は「ふふ」と笑みを漏らした。
「先輩、友だちいないんですね」
「そういうことじゃねえけど!?」
「だいじょうぶです、わたしがお友だちになってあげます」
「お、おう……ありがたき幸せ……」
「礼には及びません」
「知ってるよ!」
井原さんが季節限定甘夏なんちゃらのグラスに唇をつけた。それにならって、俺も手許のカフェオレのグラスに手を伸ばす。
「わたしも、本が好きなんです」
「へえ。どんな?」
「そうですね……」
彼女は右頬に手を当てて考え込む仕草をした。そして言う。
「『たったひとつの冴えたやりかた』」
「……ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア」
「さすが。ご存知なんですね」
「うん」俺はうなずいた。「知ってる」
「この街の市立図書館で、よく借りて読んでるんです」
「へえ、そうなんだ」
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア、『たったひとつの冴えたやりかた』。
遠い宇宙を夢見る16歳の少女が、両親からもらった宇宙船をこっそり改造して、銀河へ旅立つ物語だ。宇宙での道中、頭のなかに未知のエイリアンが棲み着いて、そのエイリアンとすっかり仲良くなった彼女は、いっしょに目的の星へと目指す。
「素敵ですよね」
井原さんが言う。「広い宇宙のなかでめぐり合ったふたりが、たくさんの困難をいっしょに乗り越えて、おなじ場所に向かってともに進んでいくんです。健気な少女と頼れる相棒……ふふふ、なんだか、わたしたちみたいですね」
「……」
そう聞いて、俺は口をつぐんでしまった。
健気な少女と、頼れる相棒。
俺が頼れる相棒かどうかはわからないが、『たったひとつの冴えたやりかた』の主人公の少女・コーティは、俺の目の前にいる少女と重なるところがあるのだ。遠い外国を夢見る16歳の少女。深いふかい夜の底でこっそりとお金を貯めて、星空を探す旅へと出ようとしている。未知の先輩が頭のなかに棲み着いて、意気投合したふたりはいっしょにロック熊のアンテナショップを目指す……。
——なんだか、わたしたちみたいですね。
俺は思わずうつむく。
この物語の行く末を、彼女が知らないはずがない。健気な16歳のコーティが、その相棒のエイリアン・シロベーンが、ふたりで迎えるこの物語の結末を、彼女が知らないはずがない。
それとおなじ結末を、俺たちは迎えてはいけないんだ。
たったひとつの冴えたやりかた——それは俺にとって、かならず彼女を夜の底から救い出す方法のことなんだ。俺の足りない頭を使って、後悔しないよう、ぜったいに中途半端にならないよう、俺は必死で考えなくちゃならない。
「あの、井原さん」
俺の呼びかけに、彼女はやわらかな笑顔で返してくれる。手に持っていたグラスを置いて、俺をまっすぐに見つめ返してくれる。からん、とグラスのなかの氷が音を立てて崩れる。窓から差し込む初夏の光に縁取られたそのグラスは、俺たちのあいだのテーブルに濃い影を落とす。
「……井原美夜」
俺は言った。「うちでいっしょに暮らそう」
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