第3章
たったひとつの冴えたやりかた
3−1
約束の日曜日。
七月のこの街はうだるように暑く、俺は流れる汗をせっせと拭きながら駅前に立っていた。日陰にいながらもアスファルトから立ちのぼる熱気が容赦なく俺を襲う。道ゆく人々も気だるげに歩いている。本格的な夏のはじまりだ。
駅前の広場にある時計に目をやる。時刻は12時半をやや回ったところ。すこしはやく来すぎたかな、と思った。遠足を楽しみにしている小学生みたいで恥ずかしいが、今日はかなりはやく起きてしまった。いつもよりはやく昼食を食べ、いそいそと身支度をする俺を見て、母さんが怪しむほどだ。
「あんたなんで今日はそんな早いの? 集合1時でしょ」
便宜上(事情を突っ込まれて訊かれると面倒なので)今日は寺本たちと外へ出かけると伝えてある。男どもと休日を過ごすのにやや浮かれ気味の息子を見たら、訝しむのもしかたのないことだろう。
「え、あ、いや……行く途中でなんかあって、遅れたら困るから……」
「なんかって?」
「その……闇の秘密結社に誘拐されたりとか」
「あたしは困んないわよ」
「ひでえな」
「うちに身代金払う余裕なんてないし。誘拐犯も人の子よ、うちの窮状を話したら涙を流して章を解放してくれるわ。よかったね、うちが貧乏で。安心していってらっしゃい」
こんな血も涙もおまけに金もない家になんて生まれなければよかった……と嘆きながら、俺は駅への道を急いだ。遅れてもない、ていうかむしろ早いのに無駄に急いだせいで予定よりだいぶはやく着いてしまっていたのだ。今時の高校生(現役の俺が言うのもおかしいけど)はスマホでゲームにでも興じるのだろうが、あいにく俺はスマホを持っていない。ひまつぶしといえば、道ゆく人々の人間観測をすることぐらいだった。
ひとしきり人間観測をしていると、ふとうしろで声がした。
「先輩」
振り返ると、そこには彼女が立っていた。
「ふふ。こんにちは、高科先輩」
「……ぉほう」
思わずアホみたいな声を出してしまったが無理もない。そこにはいつもの制服姿とは違う、私服をまとった井原美夜がいた。レースの襟がついた、ノースリーブのシャツワンピース。さわやかな青いドット柄に、肩にかけたレモンイエローの小ぶりのショルダーバッグが映えている。印象的な彼女の黒髪がいっそう引き立つコーディネートだ。
「せ、先輩?」
「じぃー」
「……先輩、あんまりまじまじ見ないでください」
「あ、ご、ごめん」慌てて視線を外す。「似合ってたから、つい」
「っ……」
井原さんも俺から視線をそらす。当然ふだんは制服しか見たことがなかったから、こうして私服を来た彼女と街で逢うのはなんだか新鮮だ。Tシャツとデニムという自分の質素すぎる私服がなんだか恥ずかしくなってくる。
「い、行こうか」
「はい」
俺たちは電車に乗ってとなり街へ向かった。学校の最寄り駅、つまり今日俺たちが集合した駅もわりと栄えている駅だが、となり街の駅はさらに都会だ。駅のまわりにはたくさんの商業施設が立ち並び、おおぜいの人で賑わっている。気を抜くと人の波にさらわれてしまいそうだ。闇の秘密結社が待ち構えているかもしれん。ここでさらわれても母さんは身代金を払ってくれない。捕まらないように気をつけなければ。
「どうかしましたか?」
「闇の秘密結社が……」
「やみの……?」
「いや、なんでもない。そうだ、店ってどこにあるの?」
「あ、はい。たぶんこっちです」
井原さんの指差す方角へ、俺たちは歩き出した。歩きながら言葉を交わす。
「先輩、今日は来てくれてありがとうございます」
「いやいや、なんてことないよ」
井原さんは両手のこぶしを握りしめて、自分の胸の前に置いた。いわゆるファイティングポーズみたいな形だ。念願のロック熊アンテナショップ出撃へ向けて気合いが入っているんだろう。
「このまえのくまは学校のかばん用なんです。今日は私服用のグッズを買います。先輩もいっしょに買いましょう!」
「お、おう」
うまく彼女に乗せられている感じがしないでもないが、俺的にはまんざらでもなかった。今日は財布にほんのすこし余裕もある。寺本たちと遊ぶと伝えたとき、母さんが小遣いをくれたのだ。
「先輩、今日は何時ごろまで大丈夫ですか?」
「べつに何時でもいいけど。井原さんは?」
「親戚たちが用事で外出してるんです。ふだんは外出の許可取らなくちゃなんですけど、今日はないしょで来ちゃいました」
「……そうなんだ」
「はい。外出は簡単にできたんですけど、今日出かけたことがばれると面倒なので、親戚が帰ってくるまえにおうちに着きたいんです」
彼女の言葉に、俺は生唾を飲み込む。
「もしばれたら、どうなるの?」
ややあって、彼女は首を横に振る。
「……わかりません。たぶん、ものすごく怒ります。わたしが正直に言わなかったことに対して、ものすごく、怒ると思います」
わけのわからないことを言いながら、街なかでも平気で彼女を罵倒するという、その親戚。彼女が不義理を働いたとしたら、なにをされるかわかったものではない。
「いいですか?」
ほの暗い感情を振り払ってあげるように、俺は彼女にせいいっぱいの笑顔を向ける。
「もちろん。井原さんが困るようなことはしないよ」
「ありがとうございます」
井原さんの語る親戚に、いやな印象が募る。門限に厳しいのはどんな家庭にもありえそうな話だが、「外出の許可」とか「ばれると面倒」とか、井原さんの使う言葉の節々に彼女の抱く感情が垣間見えている。たぶんその遠い親戚は、井原さんが心配だから厳しくしているわけじゃないんだ。よそのうちの娘が問題を起こさないよう、徹底的に管理したいんだろう。
いやな感じがした。これ以上彼女の「遠い親戚」のことについて知ったら、俺はきっと腹が立つだろう。公正な判断はできなくなるだろう。でも、これは俺にとって必要なことなんだ。いま現在、井原美夜という女の子が立たされている状況について、俺は知っておかなければならない。彼女を取り巻く環境について、理解しておかなければならない。
俺には計り知ることのできない大きさの針山の上に、彼女は立たされているんだ。その針山の大きさを確かめるために、俺は彼女の言葉を受け止めていくしかない。
「そういえば、井原さん」
「なんでしょう」
「お店はまだ?」
「ええと、たしかこのへんに」
「……ないよ?」
「すみません、間違えました。たぶんこっちです」
「……」
「……」
「……どこ?」
「あれ、たぶんこっちかな?」
「……」
「……」
「……」
「あの、先輩」
「なに」
「迷いました」
「!?」
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