2−9

「は? なにそれ。意味不明」

 俺の顔をまじまじと見つめながら、森屋さんは煙草に火をつけた。コンビニバイトの休憩中(とは言っても客の来ないこのコンビニはふだんから休憩みたいなものだが)に先輩からもらった、ありがたきアドバイスの最初の一言だ。

「おまえの母ちゃん夜逃げすんの?」

「だからぁ、たとえば、ですって」俺は必死に訂正する。「安紗子元気ですって」

「母ちゃんの名前は聞いてねえよ。なに、たとえ話? まえも思ったけど、高科ってへんなことばっか訊くよなあ」

「そうでしたっけ」

「そうだよ。援交がどうとか」

 森屋先輩には以前、女の子がどうして援助交際なんかするのか、その理由を訊ねたことがあった。先輩は「金」だと言っていた。ブランドもののバッグがほしいとか、遊ぶ金がほしいとか。井原さんの理由は遊び目的ではないにしろ、「金」が理由という先輩の推理は少なからず当たっていたのだ。俺は森屋先輩の慧眼に脱帽していた。

「ただのたとえ話ですよ」

「ふうん」

 と、さして興味もなさそうに煙草を吹かす。煙草の先からくゆる紫の煙が、喫煙禁止の休憩室にふわふわと漂う。それにしても、バイト先の禁煙の休憩所でよくもまあこんな堂々と吸えるよな。店長も喫煙家だからにおいに気づかないようだし、俺も後輩らしく告げ口せずに黙っているけれど、バレたら一発でクビだろう。

「『どれをとるか』、じゃねえの」

 森屋先輩が口を開く。

「おまえの母ちゃんが夜逃げしたいとして、いまいる場所から逃げだしたい、外国のなんちゃらってところに行きたい、でもいまは金がない、というのが現状なんだろ? たぶんぜんぶを思い通りにするのは無理だ。金がないおまえがいますぐ母ちゃんを海外に連れて行く、なんてことは実際問題ありえない」

「……そうですね」

 俺は森屋先輩の手許の煙草についた火の光を見つめながら、彼女の話を聞いた。先輩のいうとおりだ。現実的に考えるとありえない。

「ようはどれを優先的に叶えたいかを考えることだ。ぜんぶを叶えるのは無理かもしれないが、じゃあどれが叶えば自分として納得がいくのか。どうしても海外に行きたいなら、金が貯まるまで我慢する。どうしてもいますぐ逃げ出したいのなら海外は諦めて安く行けるところにする」

「……」

「ぜんぶ思いどおりにしようなんて考えるな。いずれ行き詰まって、手も足も出なくなるぞ」

「……はい」

 そう言って黙り込んだ俺へ、森屋先輩は顔を前に向けたままじっと視線だけをよこす。煙草からくゆる紫の煙でかすむ休憩所の空気は、しんとした静寂と混ざり合い、息を吸うたびに俺の肺に重く沈み込んでくるようだった。

「なあ、高科」

 ふと屋先輩が訊ねてくる。「その相談も、援交の話と関係あるわけ?」

「……うぅん、まあそれは、ええと」

 歯切れの悪い答えを向ける俺の顔に、先輩はふううっと煙草の煙を吹きかけた。

「ぶええっ……げほっ、えほっ……ちょっと、先輩なにするんですか!」

 悪質な強制受動喫煙に対して怒り心頭に発している俺に、森屋先輩がぐっと顔を近づけてきた。

「おまえ、覚悟はあるのか?」

「……覚悟?」

「さっきのがたとえ話っていうことはわかった。おまえの母ちゃん——高科安紗子が夜逃げなんてしない元気な母ちゃんだってこともわかった」

「やめてくださいよ……」

「だったら」森屋先輩はまじめな表情を崩さない。「いまのはだれの話なんだ? おまえはだれを外国へ連れて行こうとしているんだ? おまえの家族は安紗子だけなはずだ。安紗子の話じゃないとしたら、事態は思っているよりもさらに深刻だ」

 俺は生唾を飲み込んだ。

 森屋先輩の言っていることは正しい。家族でもない赤の他人のこみ入った事情に首を突っ込む覚悟はあるのか、ということだ。人様の家庭の事情に土足で踏み入っていく心構えはあるのか、ということだ。俺は井原美夜に対してそれができるのだろうか。井原美夜自身も分かり合えていない彼女のおばさんと、「あみだくじで決まったんです」とすら言った彼女とその遠い親戚との関係のなかに、俺が踏み込んで行くなんてできるんだろうか。

 思考がうずまく俺のおでこに、森屋先輩がとん、と人差し指を置いた。

「そうだ、考えろ。おまえのその足りない頭でせいいっぱい考えろ。自分になにができるのか、自分はなにがしたいのか、後悔しないよう、ぜったいに中途半端にならないよう、おまえの頭で、考えろ」

 そう言って森屋先輩は煙草の火を消して立ち上がった。

「休憩終了。すまんな、大したこと言ってやれずに」

「いいえ、充分です。ありがとうございます」

「しかし、やっぱりお前の相談事なんて小遣いの足しにもならんな。しかたない、勤勉に働くか」

 似合わない台詞を吐きながら、森屋先輩は店内へ戻っていった。俺はその態度を苦笑いで見送りながら、自分の頭で考えてみる。

 井原美夜を夜の底から救い出すこと。

 つまり、この窮屈で退屈な世界から彼女を連れ出し、彼女が行かなければならないというアイルランドへ連れて行くこと。

 そこに立ちはだかる障害はあまりにも大きい。

 ——おまえはだれを外国へ連れて行こうとしているんだ?

 ——覚悟はあるのか?

 森屋先輩の言ってくれたことはすべて正しい。俺は人様の家庭の事情に土足で入り込もうとしているんだ。俺が介入することによって、「ちょっとおかしい」彼女の遠い親戚と彼女のあいだにある見えざる「溝」を、決定的なものにしてしまうかもしれないんだ。その覚悟が俺にはあるんだろうか。

 でも、と俺は自問する。

 引き下がることなんてできるのか? 自分とは無関係な他人の家庭の事情だからと言って、聞いてしまった七文字のメッセージを無視することなんてできるのか?

 ——だれか助けて。

 あのメッセージは井原美夜の心の叫びだ。閉じ込められたこの窮屈で退屈な世界のなか、薄暗い深海に溺れる彼女が吐き出した、ひとつの気泡みたいに浮かんでゆく彼女の本心。それを俺は聞いてしまった。いまさらそれを聞かなかったことになんてできるのか?

 それだけじゃない。クマのキーホルダーをあげたときのうれしそうな笑顔。いっしょにプラネタリウムをつくっていたときの楽しそうな笑顔。ピンク色のネオンに彩られた夜の底で見せるぎこちない笑顔とは違う、彼女のほんものの表情。俺はそれを知ってしまった。

 だからもう、だめなんだ。

 もう無関係ではいられないんだ。

 これを「覚悟」と呼ぶのかどうかはわからない。けれど、俺はまちがいなく「井原美夜を救い出したい」と強く思った。

 そのために俺にできること。決して後悔せず、ぜったいに中途半端になんてならない方法。

 考えろ、考えろ——。

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