2−8

 井原美夜を夜の底から救い出すこと。

 それを叶えるにはどうすればいいか。

 まず、彼女には居場所がない。遠い親戚とは仲が悪くて険悪で、狭い学校にも友だちがいない。退屈で窮屈なまいにちを送っている。「はやく逃げ出したい」と思っている。

 そして彼女には行きたい場所、行かなければならない場所がある。アイルランドのアイベラ半島。世界一綺麗な星空が見られる場所。図書室のでっかい地図で調べてみると、どうやらアイルランド南西部にある場所らしい。地球の反対側だ。彼女がどうしてこんなへんぴなところに行きたがっているかは知らないが、ここに行くことで彼女の願いは叶うという。

 井原美夜を夜の底から救い出す、それはつまり、彼女がこの世界から逃げ出すことができて、遠いアイルランドの地へ行くために、俺にできること……。

(俺が連れて行ってやる、だまって俺について来い! って言うか)

 ……なんて考えてみるが、俺にそんなこと、

「できるわけない、よなあ……」

 ふとそう漏らすと、いつのまにか俺の席に来ていた寺本たちが「なにが?」と訊いてきた。

「うわっ! 寺本、いつからいたんだ」

「おまえが寝言で『ぼくのおっぱいは82点で合格です。あなたは?』って俺に訊いてきたときから、かな」

「なにそれなにそれ……俺って寝言でそんなこと言ってんの? 怖くない? ていうか何点で合格なの?」

「『ぼくのおっぱいは75点です』って答えたら『もっとがんばりましょう』って言われたぞ、おまえに」

「75点でだめなのか……合格ラインは80点かな……ていうかおまえのおっぱいって75点なんだ」

「なあ、俺はなにをがんばればいい?」

「ごめん、俺から言っといてあれだが、言わせてくれ。知らん」

「そうか」

「ごめんな」

「いいよ。ちなみにぜんぶ嘘な」

「知ってるわ! そもそも俺寝てねえよ!」

 となりで聞いていた長縄と戸島が「高科はおっぱいに対してストイックだなあ」「こやつはおっぱい魔神だからなあ」とかなんとか言いながら得心したような表情を浮かべている。なんだよおっぱい魔神って。拝命した覚えはないぞ。

「そうだ長縄、このまえはありがと」

 美術部員の長縄に、ガラス絵の具の件のお礼を言う。

「なんてことはない。見るに耐えない寺本の顔をカラフルにできるんだ、そのためなら労力は惜しまない」

「は? なんの話?」

 事情を知らない寺本は見るに耐えないアホ面をかましてこちらを見ている。こいつのほうがよっぽどおっぱいおっぱい言ってそうな顔してるけど。でもまあ、部活中はいい顔してるもんな。それを知ることができたのはひとえに天文学部での部活動、そして井原さんのおかげだ。

 井原さん。

「……なあ、みんな」

 俺が問いかけると、寺本、戸島、長縄がこちらを見る。

「外国って、どうやったら行けんのかな」

 へんなもの見たとでも言うように、三人は一様に怪訝そうな表情をしながら顔を見合わせた。その表情を崩さないまま戸島が口を開く。

「なに、章(あきら)って海外行きたいわけ?」

「いや、まあ、そうって言えばそうだけど、ちがうって言えばちがう、かなあ」

「なんだよそれ」

「たとえばさ、そうだな……うちの母さんがこの世に嫌気差してさ、ああーどっか逃げてえってなったとするじゃん」

「え、まって、なにその重い設定、たとえ話だよな? 安紗子さん逃げないよな?」

「たとえば、だよ。安紗子元気にしてるよ。ていうかひとの母親のこと下の名前で呼ぶのやめろよ」高科安紗子は母さんの本名だ。母親を下の名前で呼ばれるとなんだか気恥ずかしい。「でさ、外国に行きたいとこあるとするじゃん、俺になにかできること考えたらさ、なんだろうな」

「……」

 三人が黙り込む。どうやら本気で考えてくれているようだ。こいつらはバカだが基本いいやつらなのだ。からかいながらも真剣に応えてくれるこいつらの存在は、正直ありがたかった。

「……連れていってやるのがいいんじゃねえの、やっぱり」

 長縄が言う。「おまえ自身は行きたいのか知らないけどさ、連れて行ってあげるのがいちばんだろ」

「だな」それに戸島が呼応する。「外国なんてひとりで行ったら不安だし、知ってるひとがついててくれたら心強いしな」

「でもよ」

 そこに寺本が口をはさんだ。「金はどうすんだよ。高科貧乏だろ」

 どストレートに言う寺本をいつもならぶん殴っているところだったが、今回ばかりは俺も黙り込んだ。

 寺本の言うとおりだった。

 金がないのだ。

 井原美夜を外国へ連れて行くには、当然俺と彼女のふたり分の交通費が必要になる。アイルランドは地球の反対側だ。片道の飛行機だけでもどれくらいのお金と時間がかかるのか見当もつかない。飛行機代だけじゃないかもしれない。むこうへ着いてから、電車やバスを乗り継ぐ必要があるかもしれない。タクシーを使わないと行けないところかもしれない。

 もちろん泊まる場所だって必要だ。地球の裏側なんて日帰りで行けるはずがない。道に迷って帰ってこられなくなるかもしれないし、そもそも彼女にはしばらくこの街へ帰る気がないかもしれない。そしたら宿泊費だって高くつく。安い宿にも限界がある。

 何万か、何十万か、それとも何百万か……コンビニバイトでの最低賃金で労働力を換金している俺なんかには、一生かかってもひねり出すことのできない金だろう。

 だから彼女は、まだこの狭い檻から抜け出すことができずにいるんだ。退屈で窮屈な世界から逃げ出すことができずにいるんだ。ちょっとおかしい遠い親戚のもとで、学費や日々の昼食代を稼ぎながら、地球の裏側までの飛行機代を貯め続ける。いくら貯めようとしているのかはわからないが、俺が想像しているよりはるかに高い金額かもしれない。

 このままでは、俺には彼女を救い出せない。

 なにか、なにかべつの方法はないんだろうか。

「……そうだよな。すまん、ありがと」

 俺がそう言うと、寺本たちは俺を不思議そうに見つめた。

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