ボールチェーンの約束
2−7
ところがある日、バイト先のコンビニに彼女が現れた。
「高科先輩、こんにちは」
「……井原さんっ」
彼女の顔を見て、俺は思わず大きな声を上げてしまった。さいわい、店内にはいつものように客の姿はない。俺は森屋先輩がバックヤードに戻っていることを確認する。
「どうしてここが?」
「先輩、まえ言ってましたよね? 近くのコンビニでバイトしてるって。最近なかなか逢えないし、もしかしたらと思って」
そう言って彼女はいたずらに微笑む。俺はぽりぽりと頬を掻いた。
プラネタリウムづくりが終わったあの日から、だいたい三日くらいがたっている。あの約束が果てて、俺と井原さんを繋ぐ糸が俺の目の前から消えて以来、俺はずうっと井原さんのことを考えていた。どうしたらまた、プラネタリウムづくりのような「口実」をつくることができるのか、ということについてだ。
この三日間出すことができなかったその答えを、ほかならない井原さん自身が出してみせてくれた。純粋にうれしくもあり、あっさりとした登場のしかたになんだか拍子抜けするような感じもしてくる。
井原さんはコンビニの店内をぐるっとまわり、ひとつの商品を手に持ってレジへやってきた。
「これください」
そう言って差し出したのは、チョコレートの駄菓子。「ロック熊」のマスコットが付いているやつだ。
「ほんとうに気に入ったみたいだね」
「もちろんです。運命ですから」
「あはは、へんなの」
「高科先輩に言われたくないです」やかましいわ。
「そうだっ、このまえのくま、学校のかばんに付けてるんですよ。いつもいっしょに登校してるんです。見てください、ほら」
そう言う彼女のかばんには、たしかにあの日公園であげたヘビなんちゃら熊のキーホルダーがぶら下がっている。
「そうかい。気に入ってくれてありがと」
「……ふふ。どういたしまして」
俺は井原さんからチョコレートを受け取った。そしてレジにバーコードを読み取らせる。ピッと電子音が鳴り、画面に金額が表示された。
「……お客さま、たいへん申し訳ございません。この商品はたったいま売り切れとなってしまいまして」
「……え?」
ぽかんと口を開く井原さん。俺は尻ポケットから自分の財布を取り出して、表示された金額分のお金をレジに入れる。
「たいへん恐縮ですが、もしよろしければワタクシの私物がちょうどここにございますので、これでどうかご勘弁を」
そう言ってそのチョコレートをうやうやしく差し出す。口を開いたままの井原さんににやりと笑いかけると、俺の意図をようやく受け取った彼女は「ぷふっ」と吹き出した。
「もうっ、先輩……! その口調おもしろすぎ……!」
「お客さまの笑顔が、ワタクシたちコンビニ店員のなによりのご褒美でございます」
「やめてください……あははっ!」
俺たちは笑い合った。しばらくして、彼女はチョコレート菓子を眺めはじめる。
「……開けていいですか?」
「もちろん」
彼女はていねいにビニールをはがし、付属している小さな箱を取り出した。俺はその手つきをじっと見つめた。小さな箱のなかから出てきたのは、モノトーンの衣装にゴテゴテのトゲやらガイコツやらがくっついた、まるで死神みたいな格好をしたクマ。
「……すごいです、先輩! 激レアですよ、これ」
「え、そうなの?」
「はい、ヘヴィメタバージョンの特別限定版、デスメタルエディションです!」
「ヘビ、デス、エビ? は?」
「は? ……じゃないですよ先輩! もっとよく見てください」
突きつけられたクマのキーホルダーをのぞきこむ。真っ白な顔で黒く縁取られた目はやっぱり白目を剥いており、のぞきこんだ人間に向けて無差別に中指を立てている。ぶん回しているギターは楽器というより凶器みたいだ。
「やばいなこれ。純粋な感想としてやばい」
「わかります。やばいかわいいですよね」
「えっ」
「えっ」
おたがい「えっ」という顔をする俺たち。
「ていうかまえのやつも思ったんだけど、こいつ楽器弾いてなくね? 趣旨としてアリなの?」
「大アリですよ、そこがかわいいんじゃないですか」
わからん。
わからん顔が全面に出てしまっているだろう俺に対して、井原さんはあきれたように首を振る。
「だめですねえ、先輩。だめですよ、それじゃあ」
「なにがだめなの?」
「とにかくだめなんです。はやくなんとかしないと」
だめな理由ざっくりしすぎだろ……俺が首をかしげていると、彼女はそのデスエビ熊を俺に差し出してきた。
「先輩。このかわいさがわかるまで、しばらく学校のかばんに付けていてください」
「え、俺が? これを?」
「はい。これは罰です」
「マジかよ」
「大マジです」
真顔で詰め寄る井原さんに根負けした俺は、学校指定のかばんにこのデスエビ熊を付けることを約束してしまった。
溜息を漏らす俺を見て、ふと彼女が口許を緩める。
「……おそろい」
「え?」
「なんでもありません。そうだ、先輩」
井原さんが俺に訊ねる。「こんどの日曜日、もしかしてもしかすると、おひまだったりしますか?」
「日曜……たぶん、ていうかほぼひまだけど……どうかしたの?」
「ひまですよね、よし決定です! やったあ、よろしくお願いします、先輩!」
「ちょちょちょ」暴走気味の井原さんを慌てて制止する。「話がぜんぜんわかんないんだけど」
「あっ、すみません、ひとの誘い方、よくわからなくて……」
「なにかに誘ってくれるの?」
「……はい、あの、実は」
彼女によると、となり町の駅ビルに「ロック熊」のアンテナショップなるものが最近できたらしい。あのクマの熱烈なファンである彼女は、ぜひそのお店に行ってみたいと思ったのだそうだ。
ところが、そんな彼女の目の前に重大な障害が立ちはだかった。
「わたし、いっしょに遊びに行くような友だち、ひとりもいなくて」
「ああ……」
これは由々しき事態だ。
井原美夜には友だちがいない。
休日いっしょに遊びに出かけるような相手がいないのだ。そこで「じゃあひとりで行けば」なんて、無粋な返答を是とする俺ではない。
ならば答えはひとつ。
「俺でよければ」
「ほんとですかっ」
ぱあっ、と彼女は笑顔を咲かせた。飛び跳ねそうな勢いで、身振り手振りでよろこびを表現してくれる。
「あはは、そんなにうれしいの?」
「もちろんですっ」
「まあ、井原さんあのクマ好きだもんね」
「……そうじゃなくてぇ」
はあ、と彼女はあからさまに溜息をついた。「やれやれ」と言いながらお手上げのポーズをとる。なんだ、なんかへんなこと言ったかな?
「まあいいでしょう。先輩もこのくま好きですしね」
「べ、べつに俺はそのクマが好きなわけではなく、ただチョコがうまいぞって思ってるだけで——」
「じゃあ、日曜日は午後1時に駅前集合でいいですか?」聞けよ。
「おう、いいよ」
「ふふっ、ありがとうございます。ああ、はやく日曜にならないかなあ」
くるくるとその場で回転しはじめる井原さん。いちおうコンビニの店内なんだけど……まあ、迷惑かけるようなほかのお客さんもいないし、いいか。
「あ、そうだ」
そう言って彼女はおもむろにかばんからなにかを取り出した。桃色のボールペンと、かわいいイラストが書かれたちいさなメモ用紙。
レジのカウンターで彼女はそのメモ用紙になにかを書きはじめた。俺は黙ってそのようすを見つめる。彼女が書き記したのは、十一桁の数字。090からはじまる、携帯電話の番号だ。
「これ」
そう言って彼女はメモを俺に差し出した。
「わたしの携帯の番号です」
「あ、ありがと」
「なにかあったら連絡してください」
「わかった。でも、なにかって?」
「それは……」井原さんはやや言いよどむ。「なにかって言ったらなにかですよ。先輩、わたしの番号教えたんだから、先輩の番号も教えてください。わたしだけなんて、卑怯です」
「ご、ごめん……俺、携帯持ってないんだ……」
豆鉄砲を食ったようにきょとんとする井原さん。
「めずらしいですね……もしかして先輩、糸電話派ですか……?」
なんだその派閥。「糸電話」ってひさびさに聞いたわ。
「じゃあ、もしよかったら、その、おうちの電話番号とか」
「……ああ」
俺はすこし逡巡したあと、彼女のくれたもう一枚の白紙のメモ用紙に、自分の家電(いえでん)の番号を書き込んだ。俺直通ではないが、母さんが夕飯をつくったり仕事に行っているときは俺が代わりに出ることになっている。
「夕飯時にかけてくれれば、俺が出られると思う。ふだんは母さんが出ちゃうけど」
「わかりました」
彼女は俺の渡したメモを小さくていねいに折りたたみ、かばんにしまった。
「なにやってんだ」
とつぜん後ろから声がしたので、俺は小さく肩を跳ねさせて振り向いた。するとそこには、怪しむような表情を浮かべた人物が立ちはだかっていた。
「うえっ、森屋先輩」
「なんだその反応」先輩は半眼で俺をにらみつける。「おまえもしかしてサボってんじゃないだろうな」
「ちがいますよ、森屋先輩じゃあるまいし」
「そりゃそうだ、これは失礼。お詫びに一発殴らせてくれ、高科」
「いやですよ!」
森屋先輩は目の前の井原さんに目を向ける。取って食うんじゃないかと内心ひやひやしていたが、先輩は相好を崩して彼女に話しかける。
「こんにちは。高科のお友だち?」
いままで見たことのないような愛想を浮かべた笑顔に、俺は思わず背筋を凍らせた。ま、まさか……社会不適合者の権化たるあの森屋先輩が、こんなにも他人とふつうに接することができたなんて!
「森屋先輩……他人と仲良くおしゃべりなんてできるんですね……」
すると先輩はドヤ顔で胸を張る。
「当たり前だろ、他人とのコミュニケーションは社会人にとって重要な能力のひとつだ。私だって人並みにおしゃべりくらいできるさ。それを発揮するだけの価値のある人間が、ふだんまわりにいないだけだ」なるほどつまり目の前にいる俺に失礼じゃね?
「こ、こんにちは」
おそるおそるといったようすで、井原さんがあいさつを返した。俺が「高校の後輩です」と紹介すると、お互いが名前を名乗る。
「美夜ちゃん、か」
まるで吟味するかのように、名前を口ずさみながら彼女を見つめ回す森屋先輩。井原さんは目の前の一点を見つめながら身を震わせている。
「まさか高科に、こんなにかわいい知り合いがいるなんて」
「失礼ですね、こんな俺にだってかわいい知り合いのひとりくらいいますよ」
「か、かわ……っ!?」
「そういや、この私も高科のかわいい知り合いのひとりだったな。喜べ高科、かわいい私とかわいい美夜ちゃんが、おまえの知り合いでよかったな」
「そりゃどうもありがとうございますね……」
「かわ、かわわ……」
「……井原さん?」
さっきからようすのおかしい彼女を見て、俺は思わず声をかけた。それでも反応がないので、ちょんちょんと肩をつつくと、真っ赤な顔で「うぅ」とうなる。
「井原さん、大丈夫……?」
「あ、はい……だいじょうぶです」
そ、そんな、かわいいだなんて……ぶつぶつ……と井原さんはなにごとかつぶやいている。なんだ、どうかしたのかな?
「美夜ちゃん、今日はどうしたの? 高科になにか用事?」
森屋先輩が訊くと、井原さんは赤ら顔のままゆっくりとうなずく。
「あ、あの……高科先輩に、連れて行ってほしいところがあって」
「ほう? 高科に?」
森屋先輩はうさんくさそうに俺を見つめる。そして、なにかを悟ったような顔で井原さんの肩をたたいた。
「悪いことは言わないよ、美夜ちゃん。やめておきな。こんな甲斐性も根性もおまけに金もない男」
「余計なお世話だ!」
口を開けば俺の痛いところをむだに突いてくる森屋先輩と、身体を張ったコミュニケーションを取ろうと拳を構えた、そのとき。
「そんなことないですっ」
井原さんが放った言葉に、俺と森屋先輩は動きをとめて顔を見合わせた。
「高科先輩は、すごいひとです。わたしが知らないこといっぱい知ってるし、わたしにできないことたくさんやってくれるし、わたしといっしょにいて楽しいって言ってくれて、わたしを笑わせてくれて、それに、先輩は——」
そこまで言うと、彼女はなにかに気づいたように目を見開いた。
「あ、ご、ごめんなさい、わたし、つい」
大げさな身振り手振りをするのでへんな踊りをおどっているみたいだ。そんな彼女に、森屋先輩が焦ったように言葉をかける。
「美夜ちゃん。こちらこそ、ごめんね」
「……いえ」
井原さんは顔を真っ赤に染めてうつむいた。森屋先輩もめずらしくばつが悪そうにほおを掻いている。当の俺自身は恥ずかしさでいまにも爆発寸前なんだけれど。さよなら地球、俺はお星さまになります。
「じゃあわたし、そろそろ行きますね。高科先輩、これ、ありがとうございました」
片手でチョコレートのパッケージを振る。俺はなんでもないように首を振ってみせる。ほんとうのことを言うと、おかげで今月もだいぶキツくなったんだけど……暮らしていけるかな……。
「森屋さんも、ありがとうございました」
「うん。また来てね、美夜ちゃん」
「はい。……高科先輩、また日曜日、お逢いしましょうね」
「お、おう」
彼女はちいさく会釈をしてコンビニを出て行く。
俺はその後ろ姿を見つめた。
手づくりプラネタリウムの約束は果ててしまった。けれど、井原美夜はまた、べつの約束を俺のもとへ繋ぎに来てくれたのだ。
俺はもういちど、彼女から渡されたデスエビ熊に目をやる。死神みたいな装束で中指を突き立てるクマを見て、どこがかわいいんだか……とひとり思案にふける。そして井原さんが俺に向けてくれた笑顔を思い出す。
「かわいいじゃん」
森屋先輩がふとそんなことを言うので、俺はあわててデスエビ熊をポケットに突っ込んだ。
「そう、ですかね」
「そうだよ、そして良い子だ。ちょっとコミュニケーションが苦手っぽい感じだけどね」
「それは、まあ」
「ま、コミュニケーション能力を発揮するだけの価値のある人間がここにはいなかったというだけの話だ。つまり私とおなじだ」
つまり俺に失礼じゃね?
「おまえにはもったいない」
「……べつに、もったいないとか、そういう関係では」
「もったいないんだよ。だから、おまえの甲斐性なしのせいであの子を泣かせたりしたら、私が承知しねえぞ?」
「……だからぁ、そんなんじゃないですって!」
俺の言うことも聞かずにバックヤードへ戻っていく森屋先輩をにらみつけたあと、俺はまたポケットに手を突っ込んだ。
(かわいい、ねえ……)
漆黒の長い髪からのぞく、端正な白い顔。クマのキーホルダーをうれしそうに眺める眼差し。桜色に輝く唇。宵闇に沈む街。ピンク色のネオン。切れかけの照明。深いふかい夜の底。世界一綺麗な星空。
それらと俺をつなぎとめる、ボールチェーンの約束。
俺はしずかにうなずく。
こんどこそ、彼女を救い出してあげなければならない。俺にできることを、せいいっぱいやらなければならない。失敗はできない。
ポケットのなかで、クマをただにぎりしめ続けた。
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