2−6
「ごめんなさい……」
「いいんだよ、気にしないで……」
肩を落とす井原さんと俺の目の前には、カラフルなはずだった小瓶になみなみと注がれたポン酢が置かれている。ふんわりとほのかにゆずの酸味が混ざった香りが、部室に立ち込める。
俺はポン酢の香りを嗅ぎながら思った。
いいにおいだ。
じゃない、どうしようこれ。
目の前の小瓶を見つめる。これは大宇宙だ。まさしく奇跡の融合だ。たぶんほんとうの宇宙の色ってこんな感じなんじゃないかと思うほど、小瓶の中身は仄暗い闇に満たされている。そしてそれがアルミホイルの穴から垣間見える。俺は広い大宇宙に想いを馳せた。
「こ、これはこれでアリ、なんじゃないかな」
「アリじゃないです……」
「ですよね」
ようやく正気(?)にもどった井原さんから真顔で訂正されるような謎のフォローを入れてしまう。
「ほんとうにすみません……」
井原さんはしきりに頭を下げて謝っている。まあ、正直プラネタリウムの小瓶がこうなってしまったことに対しては、俺自身はそれほど気を落としていないのだが。どちらかと言うと、急にようすのおかしくなった彼女自身のほうが心配だ。
「どうしてこんなことを?」
俺は恐るおそる訊いてみる。彼女はしばらく居心地が悪そうに身じろぎしたあと、ぽつりと言った。
「……高科先輩がへんなこと言うからです」
「へ? 俺?」
俺が驚きの目を向けると、井原さんはぷくっと片頬を膨らませてそっぽを向いてしまう。
「わかんないならいいですっ」
「あ、ご、ごめん」
思わず謝ってしまった。すると井原さんは、慌てた俺を見て表情を和らげながら言う。
「うれしかったから、いいです」
「……」
「そうだ、先輩。ガラス絵の具って、洗っても落ちないですよね」
「え? あ、そうだね、落ちないと思う」
「じゃあ、洗えば大丈夫ですよね。アルミホイルも金属ですし、洗えば大丈夫」
「うん」
俺はうなずいた。この短時間ならにおいもつかないだろう。
俺たちは小瓶に満たされたゆずポン酢を捨てて(もったいないことをしました、と井原さんは残念そうだった)、小瓶と中のアルミホイルを丹念に洗った。アルミホイルの穴にポン酢が残らないよう、同時に勢い余って破いたりしないよう、ていねいに洗ってやる。タオルで水分を拭ったあと、すこし乾かして、またプラネタリウムづくりの作業にもどった。
そしてついに——。
「せーのっ、」
「「できたっ!」」
俺たちは声を合わせて叫んだ。かんたんなはずの作業をなんだかずいぶん遠回りしてきたような気がしないでもないが、完成は完成だ。ついにできた。俺たちの手づくりプラネタリウムだ。
「はやく映しましょう、見たいです!」
井原さんがうれしそうに言う。それには俺も同意だ。完成した自分たちのプラネタリウム、その成果をはやく見てみたい。
天文学部の部室には窓があまりない。光の入る窓をあり合わせのダンボールなどで塞ぎ、部屋の電気を消したままにすると、部室でも充分な暗所になった。完全な暗闇とまではいかないが、これで光を投影すればあるていどは雰囲気を楽しめるだろう。
「点けますね」
「うん」
井原さんはの合図で、プラネタリウムに光が灯った。
「わああ……っ!」
「……おお」
井原さんが叫び声に近い溜息を漏らした。俺も思わずうなる。
綺麗だった。
ガラス絵の具で彩色された小瓶を通して、色とりどりのちいさな光の粒が天井に映る。ただ光と呼ぶにはあまりにも鮮やかで、星と呼ぶにはあまりにも近い、俺たちのプラネタリウム。闇に浸された部室を満たした、つくりものの宇宙。手てづくりの、俺たちの宇宙。
「すごいなあ」
「はい、大成功です。この部活に入ってはじめて、天文学部らしいことをしました」
井原さんが笑いながらそう言う。何気ない一言だったが、俺はそれを聞いてほんのちょっぴり考えてしまう。
すこしはこの場所が、井原美夜の居場所になれたのだろうか。
この学校にはなかった彼女の居場所を、俺はつくってあげることができたんだろうか。
この宇宙はつくりものだ。ほんものの宇宙には到底およばない。でも、だからこそ、彼女の心に蝕む虚ろで冷たい空白を、満たしてくれる光になれるんだろうか。
俺がそんなふうに考えごとをしていると、部室の電気が点いた。空間を満たしていたつくりものの宇宙は消え、雑多なものにあふれた部室と俺たち二人の姿があらわれた。
「どうでしたか?」
井原さんが訊いてくる。俺は率直な感想として「すごいね」と言った。
「思ってたよりもきれいだった。まさかプラネタリウムを自分たちでつくれるなんて」
「ふふ。よろこんでいただけてなによりです」
彼女はスイッチを消したプラネタリウムを持ち上げ、「どうぞ」と言って俺に差し出してきた。彼女の行動を一瞬理解できなかった俺は小首をかしげる。
「ん?」
「差し上げます」
「これを、俺に?」
「はい、そうです」
「いいの?」
「ロック熊のお礼です」
井原さんが不安げに上目遣いを向ける。「もしかして、お邪魔ですか……?」
そう聞いて、俺は急いで首を横に振った。
「そんなことないっ。え、まじで? もらっていいの?」
「はい。高科先輩がよろしければ」
「よろしいよろしい、ていうかまじでありがと、うれしいよ」
俺はプラネタリウムを受け取った。
「お部屋でまいにち見てくださいね」
井原さんがそう言った。俺は自嘲気味につぶやく。
「俺、自分の部屋ないけどね……」
「あ……、じゃあ、お母さんとごいっしょに」想像したら地獄だなそれ。
手許のプラネタリウムをまじまじと眺める。職人並みの技術で空けられたアルミホイルの穴、人間国宝並みの色彩感覚で彩られたカラフルな彩色、そして意外と綺麗なアルミホイルの貼り方。ぜんぶ井原さんがやったことだ。不器用ながらも一生懸命、綺麗な星が見られるようにがんばってくれていた。それを俺は間近で見ていた。あんなに一生懸命つくったものを俺にくれるというのだ。うれしくないはずがない。
うれしい反面、さみしくもあった。
終わってしまったのだ。井原さんとのプラネタリウムづくりが終わり、彼女との束の間の約束はついに果ててしまう。俺にはもう、彼女の作業を手伝うという口実をつくって天文学部に来ることはできない。
そして、彼女を深い夜の底から救い出す手立てを、見つけることができなかった。
つくりものの宇宙すら、彼女の居場所にはなり得ない。彼女から俺に手渡されたそれは、もう天文学部の部室に光を満たすことはないんだ。
鐘が鳴った。
いつのまにかもう午後6時になろうとしていた。完全下校時刻だ。時間切れを告げるその鐘が、俺と彼女との約束の果てを報せるその鐘の音が、校舎に虚しく響き渡る。
「帰りましょうか」
「……うん」
俺たちは荷物をまとめて部室を出た。外はすでに陽が傾き、夕陽はオレンジ色に燃えはじめている。
昨日とおなじ道を歩きながら、井原さんが声をかけてくれる。
「先輩、今回はほんとうにありがとうございました」
「ううん、こちらこそ」
たいして気の利いた返事もできずに、俺はただうなずいた。しばらくの無言のあと、俺は口を開いた。
「井原さん、あの……」
「なんですか?」
呼びかけておいて、次の言葉を継ぐことができなかった。
なんて声をかけたらいい?
俺にはついに、彼女になにもしてやることができなかった。いまさらなにを言えばいい? これから先、また彼女は深いふかい夜の底へ沈んでいかなければならない。そこでむりやり口をひん曲げて笑わなくてはならない。目の前にいるそんな女の子に、いまさら俺がなんて言葉を贈ってあげられる?
「……なんでもない」
「そうですか? じゃあ、このへんで」
いつのまにか駅に着いていた。井原さんは今日もちいさくお辞儀をし、俺に振り向いて笑いかけてくれる。
「高科先輩、それじゃあ、また」
「……ああ、またね」
そう答えながら、その「また」はほんとうに来るんだろうか、と思った。彼女との約束が果ててしまったいま、俺に彼女を救い出すことはできないように思えた。
彼女の後ろ姿は駅の雑踏に吸い込まれていく。駅はいつもどおりたくさんの人であふれている。俺の焦燥や絶望とは無関係に、無関心に回り続けるこの世界のことが、なんだか腹立たしくさえ感じた。
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