2−4
ガラス絵の具を部室に持ち帰って見せると、井原さんは目を輝かせた。
「すごい、きれいですっ」
ガラス絵の具を手に取り、興奮気味にそれらを眺める。
「だろ? 美術部から借りたんだ」
ガラス絵の具はその名のとおりガラスに着色できる塗料だ。ガラスの透明感を損なわないので、塗ると色ガラスのような風合いになるという。ガラスに光を通せば、光にその色が乗って天井に映る。
長縄はけっきょく、美術室にあるガラス絵の具のうち半分ほどの色を貸してくれた。ぜんぶで12色ある。赤、青、黄色、緑といったオーソドックスなものから、クリムゾン、コバルトブルー、エメラルド、パルマヴァイオレットといった、なんともおしゃれな名前の色もある。
「これを塗るんですか?」
「空き瓶に塗るんだ。乾くとガラスに色がついて、星がカラフルになる」
「わあぁ……っ!」
色とりどりの絵の具を、井原さんは取って眺めては置いて、取って眺めては置いてをくり返した。われながら妙案だとは思っていたが、正直ここまで喜んでくれるとは思わなかった。
「そんなにうれしい?」
「もちろんです、まさか天文学部でこんなことができるなんて!」
「あはは。いい部活じゃんか」
「ほかの部活から道具を借りるなんて、わたしなら思いつきもしません」
「美術部に仲良いやつがいてちょうどよかったよ。まあ、こういうときじゃないと役に立たないやつらだし」
「……やっぱり、すごいです」
井原さんはふと言葉をこぼす。
「わたしにできないことを、先輩はたくさん……」
「え?」
俺が訊ねると、彼女は絵の具の容器を握りしめて言った。
「はやく塗りましょう!」
「お、おう」
井原さんの気合の入った号令で、俺たちはふたたびプラネタリウムづくりに取り掛かった。美術部から借りてきた12色のガラス絵の具を使って、用意してあった空き瓶に色を塗っていく。担当はもちろん井原さんだ。あいかわらずまだ道具が手に馴染んでいないようすだったが、眉間にしわを寄せながら必死にていねいに塗りつけた甲斐あって、味気ないただの空き瓶はカラフルな小瓶に変身した。
「かわいい」
塗り終えた小瓶を満足そうに見つめる井原さん。12色の絵の具で飾られた小瓶は、ひとつの大きな宝石みたいだった。俺は彼女の職人的色彩感覚をほめてあげる。
「あぁ〜〜井原さんのガラス絵の具さばきは人間国宝並みなんじゃぁ〜〜」
「ぷふっ」井原さんが吹き出す。「あははっ、それやめてください、わたしそんなんじゃないですから!」
塗りつけた絵の具は1時間ほどで表面が乾燥しはじめ、半日後には完全に乾くのだそうだ。小瓶の塗料が乾くまでは中にアルミホイルを貼ることができないので、いったんここで作業を止めなくてはならない。
「完成は次回までおあずけ、かな」
俺がそう言うと、井原さんは不満そうにほおを膨らませて「むうう」とうなった。
「はやく映したいのに」
「まあまあ、そう言わずに。楽しみは取って置いて損はないよ」
貧乏性な俺は(正しくは貧乏「性」などではなくただの貧乏なのだが)、楽しいものはもったいなくて後々まで取っておくタイプだ。給食でもハンバーグや揚げパンなど好きな食べ物は後から食べるようにしていた。
「高科先輩がそう言うなら……」
井原さんはしぶしぶうなずく。
「先輩、明日も来てくれますよね?」
「え、いいの?」
「当たり前です。まさか先輩、途中で投げ出して逃げようなんて思ってないでしょうね」
「思ってないよ」俺は必死に抗弁する。「完成まで見たいし」
すると井原さんは、どこかほっとしたような表情を浮かべた。
「じゃあ、楽しみは次回までおあずけ、ですね」
「ああ」
「じゃあ、今日は帰りましょうか」
時計を見ると、いつのまにか午後5時半を回っていた。完全下校時刻は午後6時だ。それまでに校舎を出ないと、宿直の先生に怒られてしまう。
「送っていくよ」
「ありがとうございます」
俺たちは荷物の準備をして部室を出た。校舎や校門の近くには、俺たちとおなじように部活を終えた生徒たちが談笑しながら楽しげに下校している姿が見えた。外はまだ明るいがすでに陽は西に傾きはじめ、生徒たちの長い影が校門前の広場に踊っている。
取るに足らない会話を交わしながら、俺たちは家までの道を歩いた。俺はとなりを歩く井原さんの話を聞きながら、今日彼女が見せてくれた無邪気な表情を思い出していた。
(あんな顔、するんだな)
忘れ物のクマを手渡してあげたときのやさしい顔、ガラス絵の具を見せてあげたときの嬉しそうな顔、俺がアルミホイルに勝手に穴を開けたときの怒った顔(われながらひどいことをした、といまさら反省している)……今日はたくさんの表情を見せてくれた。深いふかい夜の底で見せる表情ではない、井原美夜の素顔。
もっと見てみたい、と俺は思った。
井原美夜の見せる表情を、感情を、もっと見てみたい。
「わたし、そろそろこのへんで」
「……うん」
時間はあっと言う間に過ぎて、もう駅前に着いてしまった。
「えっと……」
「どうしたんですか、先輩?」
「今日は、ないの?」
俺が恐るおそる訊ねると、彼女はなにかを悟ったように言葉を返す。
「……先輩、そんな顔しないでください。今日はわたし、このままおうちに帰るんです。あんまりいつも遅いと、親戚も怪訝に思いますし」
それを聞いて俺はうつむいた。彼女と「遠い親戚」の関係性を垣間見てしまったような気がしたからだ。ふつうじゃないのだ。ふつうだったら「怪訝に思う」なんて言い方はしない。「心配する」だろう。彼女がその言葉を使わなかったということは、その「遠い親戚」は、帰りが遅くなった彼女のことを、「心配」なんてしないんだろう。
すこし前、井原さんはその親戚のことを「ちょっとおかしい」と言っていた。家のなかですれ違うたび彼女をにらみつけ、街なかでも平気で罵倒し、「親子そろってろくでもない」というわけのわからない言葉をぶつけてくる。その異常性、狂気の本質を俺には知る由もないが、彼女の言葉の節々からはっきりと拒絶の色がにじんでいるのがわかる。
俺はいやな味のするつばを飲み込む。
「そういうわけで、先輩、また明日」
「あ、ああ」
「ぜったいに来てくださいね、約束ですよ」
「はは、わかったよ」
ちいさくお辞儀をして彼女は行ってしまった。
手づくりのちいさなプラネタリウム。俺と彼女を繋ぐ「約束」。あれをつくり終えれば、俺たちを繋ぐ糸は途絶えてしまう。彼女を救い出すために、この約束が果てるころに俺にできることは、いったいなんなのだろうか。
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