2−2

 それからの数日間、俺はかならず天文学部の部室に立ち寄った。バイトのない放課後は図書館へ本を漁りに行く前に、バイトのある放課後はすこし急ぎめに、まいにち欠かさず部室のなかをのぞき込んで、彼女の姿が見えないことを確認した。立ち寄るというにはあまりにもへんぴなところ(教室棟と向かい合った特別棟、その最上階の4階)にあるので、行って戻って来てバイトへ向かうころにはもうへとへとになっていた。それでも、俺は部室に足を運び続けていた。

 天文学部の部室へ行くたび、空虚なその空間をこの目で見るたび、俺の心はわずかにさざめき立った。部室のなかの備品はそのあいだずっと使われていないようすだったし、机のうえにあるロック熊も動かされた形跡はなかった。長いあいだ部屋に閉じ込められて停滞した空気のなかに、夕陽に照らされたほこりがふわふわと漂っていた。

 そうして二週間がたった。

 俺は焦っていた。

 二週間もたったのだ。

 これだけ長いあいだ井原美夜が部活に来ないとは思わなかった。良くて二、三日、長くてせいぜい一週間かそのくらいだろうとたかをくくっていたのだが、俺の大方の予想は外れた。

 遠い親戚のことを語ったときに、井原さんが言っていた言葉を思い出す。

 ——わたしの居場所はそこにはなくて。

 居場所。

 ここにもないんだ、と思った。

 彼女の居場所はここにもない。仲が悪くてすこしおかしい遠い親戚のところにも、学校というひとつの狭い世界のなかにも、井原美夜という女の子の居場所はないんだ。

 彼女の居場所はあのピンク色のネオンが輝く街。切れかけの照明に照らされた深いふかい夜の底。

 二週間ものあいだ、まいにち身体を売るようなことはしていないと願いたい。けれど、俺がこうしているいままさにこの瞬間も、ぜったいに見なければならない星空のために、彼女は必死になって、自分をどうしようもなく傷つけてまで、むりやり口をひん曲げて笑っているかもしれない。窮屈な檻のなかから逃げ出したいと祈っているのかもしれない。そんな女の子の居場所が、学校の片隅のこんな狭苦しい部屋のなかにあるとは思えなかった。

 心の底のほうからじんわりと冷たい絶望が立ち込めていくような感覚がして、思わず顔をしかめた。ふわふわ漂うほこりを眺めたあと、俺は溜息をついてうつむく。

 そして踵を返して部室を後にしようとした、そのときだった。

「高科先輩」

 消え入るほどにかすかな声色で、彼女の声が俺の名前を呼んだ。俺はゆっくり顔を上げた。すると目の前に、校舎の片隅を蝕んでいく薄暗い夕闇に浸された、彼女の姿があった。

「……井原さん」

「……」

 井原美夜は口を開いてなにかを言いかけた。しかし、息をつくほどの逡巡のあいだに、彼女はその言葉を飲み込んだみたいだった。そして思い直したように顔を上げて言った。

「なにしてるんですか?」

 それは咎めるでもなく、責めるでもない、ただ純粋な問いかけの声。こんなへんぴなところで突っ立っている知り合いの先輩の姿を見たら、そう投げかけるのも当然だろう。俺はなんでもないふうを装って、かばんからロック熊を取り出す。

「忘れ物だよ。井原さんのだろ?」

 俺の取り出したそれに目をやった彼女は驚いたように目を見張った。そしてそれと俺の顔を見比べたあと、恐るおそるというようすで問いかけを続ける。

「……それを、届けに?」

「そうだよ。好きだって言ってたじゃん」

「言いましたけど、それだけのために?」

「悪いかよ」

「いえ、で、でも、まさかあの日から、この部室に毎日……?」

「悪、い、か、よッ。いいだろ、どうせひまなんだし。挑戦状の暗号解いたり、忘れ物のクマキーホルダー届けたりするくらい、ひまな俺の勝手だよ」

 以前「どうせひまですよね」と彼女に言われた意趣返しだ。気味悪がられるかと内心ひやひやしていたが、彼女はしばらくぽかんと口を半開きにして半眼の視線を向けたあと、「ぷっ」と吹き出した。

「なんですかそれ、変なの……っ」

「へ、へん?」

「はい、変です! 高科先輩はへんなひとです、変人です!」

 ビシィッ!と人差し指を俺に差し向けて井原さんは言い切った。おい失礼だな。こんな品行方正模範的聖人君子(自称)を捕まえて変人呼ばわりとは。

「それに、ずるいです。あの日以来、わたしはずっと心配してたのに」

「え?」

 俺が訊き返すと、井原さんは片頬をふくらませてそっぽを向いてしまう。

「なんでもないです」

 怒らせてしまったんだろうか。急に不機嫌になったように見えた彼女のようすに俺がたじろいでいると、井原さんは不意にふわっと笑った。

「でも、ありがとうございます」

 そう言って俺の手からクマを受け取る。二週間ぶりに自分の手にもどったクマを眺める彼女の笑顔は、新緑の木々からこぼれる木漏れ日のようにあたたかく、冷えていた俺の心をゆっくりと融かしていく。

「そうだ」

「?」

 不意にあげた俺の声に、井原さんが首をかしげた。俺は部室の扉からなかをのぞきこみ、テーブルのうえを指差す。

「あれもクマだよね?」

 俺のその言葉に、彼女は待ってましたと言わんばかりにぶんぶんと何度もうなずいた。

「そうなんです! またかわいいのが当たったんですよっ!」

 見てください見てください、と口にしながら彼女は部室の扉を開け、机に駆け寄った。置かれていたチョコレートのおまけのキーホルダーを、ぱっと拾い上げて俺に見せてくれる。

「それ、気に入ったの?」

「はい。あの日先輩からもらったの、すごくおいしかったです。くまもかわいいし、これはまるで運命だな、って」

「はは。なんだそれ」

 不意に笑ってしまった。クマをもてはやす井原さんがあまりにも嬉しそうだったからだ。井原さんの感性を引き続き疑問に思わざるをえないくらいにはクマは相変わらずケバケバで、1ミリもかわいいと思えなかったけど。

「これはなに?」

 俺はふと視線を落として、机のうえにあったもうひとつのものについて訊ねた。天文学部の活動ではおよそ使わないような、大きなジャムの空き瓶とアルミホイル、そして簡単な照明装置。

 俺の問いを聞いてはしゃぐのをやめた井原さんは、机のそばのソファに座ってその道具を手に取る。

「これは……プラネタリウムです」

「プラネタリウム?」

 俺はその言葉を繰り返した。

「プラネタリウムって、星とかを天井に映すやつ?」

「はい、そうです」

「なんか……想像しているものとぜんぜんちがうんだけれど」

 その言葉を聞いて想像するのは、大きなドーム状の施設と、その天井に光を映す大きな機械——それこそ有事の際にロボに変形しそうなやつ——で、街の科学館とかにあるイメージだ。学校のこんなへんぴな部室に、しかも机のうえに置かれているような空き瓶やアルミホイルを指すものとは思えない。

 俺がそう話すと、井原さんはふふっと笑いを漏らしながらも説明してくれた。

「手づくりなんです」

「つくるの、自分で?」

「はい」

 聞くと、穴を開けたアルミホイルを空き瓶の内側に貼って、そのなかに照明装置を入れ込めば、アルミホイルの穴から漏れる照明の光が天井に映り、まるで星みたいに見えるのだと言う。なるほど、まさにプラネタリウムだ。

「天文学部って昼間やることないんですよ。星、見えないんで」

「で、昼間も見られるように、手づくりでプラネタリウムを」

「そうです」

 井原さんがうなずいた。俺はプラネタリウムの材料となる空き瓶やアルミホイルを手に取ってながめた。どちらもどこでも手に入るようなふつうの代物だ。こんな簡単なものがほんとうにプラネタリウムになって、昼間の星を映し出すようになるんだろうか。

「……見てみたい」

「あ、はい、いいですよ」

「ほんとうに?」

「もちろんです。ただ、完成するのにちょっとかかりそうですが」

 そこで俺の頭のなかに、ぷかりとひとつの考えが思い浮かぶ。ふと、それを口に出してみる。

「手伝っていい?」

「え、いいんですか?」

 井原さんが不思議なことを聞いたような顔をして俺を見つめた。視線を向けられた俺は、照れ隠しにぽりぽりとほおを掻きながら答えた。

「ああ。どうせひまだし」

 これは意趣返しではなかった。どうせひまなのだ。今日はバイトもないし、家に帰ったところで遊べるようなゲームもないし、そうしたら図書室で読書くらいしかやることはない。それだったら、井原美夜のプラネタリウムづくりを手伝ってみたかった。

 井原さんはまた、ふふ、と笑みを漏らして言った。

「やっぱり、先輩はへんです。高科先輩はほんとうに変人さんです」

「そうかな」

「そうですよ」

「だめかな?」

 俺がそう言うと、井原さんはふるふると首を振った。

「だめじゃないです。ありがとうございます、手伝ってください」

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